第46話 幕間・記憶 その3「健司義兄さんなんでしょ?」


 透明な空の中、私は頭から墜ちていた。

 ここが空だと分かったのは、濁った雲が視界の端で流れているのが見えているからだ。

 私は落下している。記憶の泡はどこにも見当たらない。それがないのはきっと、もう泡に頼らなくても自分で過去の記憶を思い出せるからだ。


 風を切る音が全身を揺らす。空気の層を突き破るたび身体に圧を感じる。凄い勢いで落下していることだけは分かる。けれども、私が激突すべき地表の存在は感じることが出来ない。終わりのない墜落。透明だった空は黒ずんだ雲と混じり色味を増していく。

 透明から灰色へ。空は更に明度を無くして濃くなっていく。


 墜ちていく恐怖に心が押しつぶされてもおかしくないこの状況で、私はまったく別のことを思い出していた。それは、あの夜のことだった。




 お母さんとお義父さんと出掛けた夜、その日は私の誕生日だった。


「実は外で予約していてね」「勝彦さんと健司さんとで決めたの。玲奈を驚かそうと思ったんだけど、駄目だったかしら」


 すでにスーツを着込んだお義父さんとお母さんはそう言って同時に頷いた。ホントに仲がいいな、このふたりは。

 ふたりのサプライズ外食の提案は、私と健司義兄さんの関係がだいぶましになったと分かったからなんだと思う。私の誕生日にかこつけてちょっとしたディナーでお祝い――それは家族4人が揃って初めての外出だった。


 ニコニコするふたりに私は二つ返事でオーケーした。その間、健司義兄さんはそっぽを向いたまま聞こえないフリをしていた。このことを知っていたのに黙っていたなんてと思って睨むと、健司義兄さんは車の準備があるとか言ってそそくさと逃げてしまった。


「正式なドレスコードはないけど制服が無難よ」と諭されて言われるがまま準備をする。

 昔はお母さんとふたりで誕生日会をしていた。それが家族が4人になって、家で食事を一緒に取ることはあっても〝出掛ける〟なんてことはやっぱりお母さんとしかなくて、それも「あまり遅くなると勝彦さんと健司さんに悪いから」と新しい家族に心を配るようになって、そうなると誕生日会のことを口にするのは気が引けていた。それがこの2、3年。


 きっとお母さんもおんなじ気持ちだったんだと思う。

 気兼ねなく、新しい家族4人で一緒に外出してみたい、他の家族と同じように外で食事をしてみたい――私の身支度を手伝うお母さんの鼻歌からそんな気持ちが伝わってきた。だから私は、自分の誕生日を祝われることより、家族全員で出掛けられることの方が嬉しくなった。


 黒っぽいレンタカーが家の前に寄せられていて、私は案内されるまま運転席後ろの後部座席に乗った。お母さんは私の隣、お義父さんは助手席で、そして運転するのは健司義兄さん。


「車で移動なんてほんと贅沢よね」お母さんの声が弾み、お義父さんは無言で頷いて応える。

 お母さんと出掛けるときはいつも電車だったから、ディナーを食べるだけなのに車なんてすごい特別だと思った。私も少しだけ心が踊っていた。


 滑るように車が動きだし、少しして大通りへと入っていく。

 窓の外を見ると、空は薄紫色で、黒いシルエットのビルが次々と私の目の前を通りすぎていく。ビルから漏れる窓の灯りが幾重もの線となって左から右へと流れていく。面白くなって後ろに目をやると対向車の赤いテールランプが川のように流れて見えた。


 駅前に出るための五叉路ごさろ交差点、ここを矢印信号に従ってゆっくりと右折していく。色とりどりのお店のネオン看板に囲まれ、昼間とは異なる顔を見せる街並みに目を奪われた。


 ――けれども、そこで視界は反転する。


 耳や身体が感じるよりも先に私の目は何も映さなくなった。襲ってきた左からの衝撃が私を右方向になぎ倒す。そして上も下も分からないまま、私は空間ごと何度も何度も回転した。ぐわんぐわんする頭が金属のひしゃげる不快な音をようやく理解する。

 でもそれだけだ。痛さも熱さも分からない。感じていた筈の圧力も何かが破裂する音も、すぐに頭の中から消えてしまった。


 目を動かすけれど何も見えない。

 もっと目を動かす。

 徐々に目が慣れていく。


 あり得ない形に歪んだドアにシート、中途半端に膨らんだエアバッグ、飛び散ったガラス、それらがかき混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃになっていた。そして、それらの一部となっていた、血塗ちまみれの顔――お母さん!


 血に濡れた目が私を見る。潰れた金属の間から手が動いている。私はその手をどうにか掴もうとしたけれど、まったく腕が動かない。

 もどかしい、どうして動かないの? 私の叫びは声にならない。


 ただ見ていることしかできなかった私に向かってお母さんは小さく唇を動かした。それはとても微かな囁きだったけれど、私の脳裏にはっきりと焼き付いた。


「……玲奈は、だいじょうぶ、だから」


 そう呟いたお母さんの声、私は確かにそう聞こえた。


 ――私は、へいき、お母さん――


 私はそのように口を動かしていたと思う。多分、声にはならなかったし、聞こえてもいなかったはず。それなのに、お母さんは安心したように笑った。


 それがお母さんを見た最後だった。




 意識を失った私は、深く深く自分の中へと墜ちていき、完全な暗闇に閉ざされた。

 ぬるりとした、光沢のない、身体が固まるような冷たい場所。

 その中で私は、ずっと膝を抱えてうずくまった。何もかも消えてしまえばいい、そう思いながら。


 ズズズ――何かが這いずる音がする。


 ズズ、ズ、ズズズ、ズルリ――それは私が作った暗闇の中で黒くうごめく何かだった。


 そう理解した瞬間、暗闇の中にいた黒い塊から無数の手が伸びた。その手は私の身体に絡み付くと、そのまま私の中へと入り込む。そして、私の柔らかい部分を容赦なくかき回した。

 身体の中を侵食されるおぞましい感覚。私の中で何かを探すように手が這い回る。


 イヤだ、取られたくない――空虚だと思っていた私の心に、奪われたくないという気持ちが湧き上がった。

 

 全て無くしてしまったと思った私の中にまだ残っていた一点の光、最後に残ったこれまで失いたくない。これを取られたら私には何も残らなくなる。

 私はその光を奪われないように強く胸をおさえた。けれども、胸の中にあったその光は私の手をすり抜けて飛び出してしまう。その後を無数の黒い手が追い、黒い塊も闇の中へと消えていく。


 私はこのおぞましい黒い塊の名前を唐突に思い出した――何回も見ていたこの塊を、私は【奈落】と呼んでいた。




 そこまでの記憶を取り戻したところで、徐々に身体中の感覚が戻ってくるのを感じた。

 落下していた筈の私の身体は、鏡のような水面の上に立っていることを私に告げた。

 見渡せば今、私は澄み渡る空の下、張り詰めた水面の上に立っていた。


 落下した先は空と水の2つしかない世界。静寂が耳に痛い。

 水面に映る自分の姿は、制服を着ていて、髪をお出かけ用に結い上げていた。

 これはディナーに行こうと準備したあの時の姿。きっと、ほんのり化粧もしている筈だ。


 今の私は、フォーチュネの悪役令嬢、レナ・フォン・ヴァイスネーベルではなくて、背も小さい、胸も小さい、顔も人並みな高校生、〝小鳥遊たなかし玲奈れな〟で間違いなかった。その私がようやく思い出したんだ。家族4人で出掛けた自動車で起こった事故を。


「――玲奈」

 

 不意に呼ぶ声がする。懐かしい男性の声に私はすぐにふり返る。

 そこには黒髪に白いシャツと黒いスカート、赤い唇が印象的な長身の女性――春夏秋冬ひととせつかさの姿を借りた人物が立っていた。


「ようやくここまで辿り着いたな」

 

 突き放したような、それでいてどこか寄り添うような男性の声。

 考えてみればそうだ、どうして私はあの猫・・・の声を聞いてすぐに思い出さなかったんだろ。見下したような態度を見せるくせに私を気にかけてくれるその人・・・はこんな声だったじゃないか――私の新しい義兄にいさんは。


「健司義兄さんなんでしょ?」


 健司義兄さん春夏秋冬 司は返事の代わりに猫のように目を細めた。


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