第43話 幕間・その10「それでも私は、彼を止めたいんだと思う」


 国立BCIM脳科学医科理科総合研究センターの経過監査室の1室が安堵の溜め息で溢れたのは、小鳥遊たかなし玲奈れなの治療を行っていたBCIM3号機の治療行為強制解除オートイジェクトが停止したからだ。

 BCIMが治療環境世界から患者ペイシェント覚醒支援者アウェイクナーをシャットダウンを開始するまで残り1時間、誰もが最悪の結果を想定していた時、モニターに中止キャンセルを告げるメッセージが表示されたのだ。


 しかし、治療責任者である第三室長の姉崎茜は、口元を少し緩めただけで真剣な表情は崩さなかった。それは早朝にも関わらずセンター長まで様子を見に来る事態になったからではない。


「とりあえず生命維持と治療に関する数値は正常値に戻ったね。マスコミにネタを提供せずに済んでなによりだ。今回の件の報告書は後でいい。今はとにかく治療に専念してくれたまえよ」


 そう言い残してセンター長と数人の取り巻きが退出したのを見届けてから、井村やすらが黒縁眼鏡を押し上げながら姉崎に近づく。


「先輩に対してあの言い方って酷いと思うのですよ、井村は。せめて、よかったね、とか、頑張ったな、とかねぎらいの言葉の1つぐらいあってもいいと思うんですけど」

「実際、私は何もしてないから。労いたくても褒められるところがないわ」


 自虐気味に笑いながら姉崎は井村に椅子を勧める。座る井村の背後で他チームの同僚たちが出て行ったことを確認してから、姉崎はタブレット型の専用モニターを井村に差し出した。


「どう思う、やすら?」

「覚醒支援者のモニタリングですか。オートイジェクトが実行されてからも動いてることは観察してましたけど……なんで交信がまだ続いてるんですか!」


 思わず大声を上げてしまった井村は慌てて室内を見渡したが、自分と姉崎しかいないことを知るとホッと胸をなで下ろした。


「オートイジェクトがキャンセルされたんですからBCIMが覚醒支援者を隔離する必要なんてないです。この交信数値ってBCIMの保護隔離レベルのままじゃないですか。おかしいですよ、先輩」

「キャンセルされてからもBCIMと覚醒支援者は激しく交信し続けてる。念のためサブの計測値も見たけどコンマ数ポイントしか差がない。ほぼ正確だと思う」

「BCIMが覚醒支援者をまだ制御下に置いてるんだったらセンター長に知らせた方がよくないですか?」


 心配する井村に姉崎は首を振った。


「知らせたとしても間違いなく経過観察という名の様子見になるわ。センター長が問題を大きくしたがらないのはやすらも分かるでしょ? こちらからのBCIMへの強制的な停止命令実行は覚醒支援者への負担が過大だからとか言って絶対に許可はおりない――それに、これは逆なのかもしれない」

「逆って――あっ」


 眉間に皺を寄せている姉崎が何を言おうとしているのか井村は一瞬で理解した。

 BCIMと覚醒支援者の間で激しくやりとりされている交信は、BCIMが覚醒支援者を制御下に置いているのではなくその反対の可能性もあると姉崎は言いたいのだ。

 ただ、数値だけを見てどちらの介入もあり得るとしても、覚醒支援者がそのようなことをする動機や、人間の脳内ニューロンがそこまでに負荷に耐えられるのかなど、井村が結論を出すには情報が少なすぎた。


 井村がそう躊躇したように、姉崎もまた、自分が口にしたことに確信が持てているわけではなかった。迷いながらも姉崎がひとつの考えに傾こうとしていたのは、数値以外の部分で覚醒支援者が「ある執念」を持っていることを感じ取っていたからかもしれない。


 治療開始前の面談で感じた、人当たりの良さに隠れたざらりとした感触。それは肌感覚のようなもので数値化することも言語化することも難しかったが、十数回の面談を重ねるうちに覚醒支援者の残像として姉崎の記憶には焼き付いていたのだ。


 そのようなあいまいな感覚を根拠に他者を説得できないことは姉崎も理解していたが、現状を放置してしまうと不幸な未来が訪れるだろうという、予感、胸騒ぎ、落ち着きの悪さ、という不快感がどうしても払拭できない。

 しかし、こんな不確定な情報のみでセンター長に睨まれるかもしれない手伝いを井村が引き受けてくれるのか、私なら関わらない、と迷いながら姉崎が井村を見ると、


「BCIMの覚醒治療はいい感じで数値が上がってきてますんで、まずはその間に覚醒支援者の接続レベルをギリギリまで下げていきましょう。交信の停止命令はその後です」


 井村は手繰り寄せたキーボードを叩き始めていた。思わず「本当にいいの?」と聞いてしまった姉崎に、


「先輩、誘っておいてその質問は酷いです。それに――」


 井村は姉崎を見ながら黒縁眼鏡を押し上げる。


「困っている先輩を助けるなんて、恩を売る絶好のチャンスじゃないですか」


 ニコリと笑う井村に姉崎は小さく「ありがとう」と呟く。井村はこういう時、相手の負担にならないようわざと茶明かした物言いをすることを姉崎は学生時代から知っていたからだ。


 もしかするとこの異常数値は一時的なもので、自分が心配しているようなことは起こらないかもしれない。それならば自分の取り越し苦労で終わる話だ。時間も充分に取れるだろうから自分の判断ミスを始末書に起こせばよい。

 だけど――と姉崎は考える。


 もし、BCIMと覚醒支援者の交信が覚醒支援者からの意思だとすればすぐに止めなければならない。所長に報告して、指示を仰いで、決裁を取るのでは時間がかかりすぎる。それに保身的な所長の性格からすれば間違いなく経過観察という名の様子見を選択するのは分かりきっている。

 ならば、報告と措置を平行して行うのは? それはさっきも考えたが答えはノーだ。異常値の継続性が見られない限り覚醒支援者への停止命令措置の許可が下りる可能性は低い。むしろ、本当は正常だった・・・・・・・・のに停止命令措置をしてしまった場合のリスク――覚醒支援者の脳神経へのダメージとそれによる世論の反応――を考えれば、所長は確証が持てるまで何もするなと厳命するだろう。


「ですけど先輩はそれ・・は覚醒支援者の明確な行動の結果だと予測してるんですよね――あ、先輩、覚醒支援者の接続レベルはもう0.1ポイント下げても大丈夫です」


 姉崎の話を聞きながらもキーボードを叩き続ける井村は、モニターから目を離すことなく姉崎に指示する。姉崎は言われたとおりに数値を動かす。

 ガラス越しに隣の病室に目をやると無機質な筐体をさらしているBCIM3号機のアクセスランプが緑色に激しく点滅している。


 植物の根のようなBCIM3号機のケーブル類は機械で出来た繭のようなベッドに伸びている。

 ベッドは2台、1台は治療を受ける小鳥遊玲奈が眠るベッド、もう1台は玲奈を目覚めさせるために覚醒支援者となった小鳥遊健司が横たわる。

 彼は今も自らの目的のために抗おうとしている――確信めいたその予感は、治療行為強制解除オートイジェクトが実行された8時間前から姉崎の脳裏から離れない。


 BCIMによる治療は遷延性意識障害から回復させるための最後の切り札だったが必ずしも万能ではない。各国の治験結果では治療開始時期と快復率は1年で半減するが、これは障害期間が長くなるほど患者の脳内ニューロンが生成する電気信号が脆弱となり、覚醒支援者との接続が困難になるためだ。

 対策として患者側の電気信号を増幅する方法が取られるが脳細胞への負荷を考えると限界がある。それらの制御はBCIMが行い、医者や技師は閾値しきいちを設定することで治療をコントロールする。


 また、複合型ディープニューラルネットワークによって稼働するBCIM治療において、治療者側が出来ることには限りがある。閾値で治療の方向性は示せても、BCIMが構築する治療環境世界に介入する事が出来ないからだ。

 実際には介入自体は技術的に可能ではある。しかし、患者と覚醒支援者の脳内ニューロンの電気信号を読み取って処理を続けるBCIMが介入行為も含めて治療環境世界を再構築してしまうために介入の効果がほとんど出ないのだ。


 もし、介入による治療行為への変化を求めるのであれば、それは〝内側〟からの働きかけによるほかなく、その役割を与えられたのが覚醒支援者となる。

 覚醒支援者彼らはBCIMの制御下のもと患者の意識に接触することで、大脳の機能回復の障害となっている記憶を認識させる。その記憶をBCIMが除去することで患者を覚醒させるのがこの治療の基本的な仕組みだ。よって、覚醒支援者の行動はあくまでも治療行為の一部としてBCIMの管理下から逸脱することは出来ない。


 しかし、覚醒支援者にのみ認められた例外がある。

 覚醒支援者は意識がある状態で治療環境世界に接続されるため、脳神経に過度な負荷をかけないよう治療行為は72時間までと決められている。そして、定められた時間内であっても覚醒支援者が脳神経への負荷を認識した場合、自身の意思でBCIMの制御下から離れることができる。


 この緊急避難措置による一時的なBCIMの制御下からの離脱は、通常、脳神経へのダメージの回復を図るとともに、治療の方向性を治療者に確認する時間として用いられる。この休憩のような退避は、1施術中に平均5回、時間にすると合計6時間前後となり、今回の施術の休憩も平均値を大きく上回るものではなかった。オートイジェクトが実行されるまでは。


「先輩の予測が正しいとすると、覚醒支援者健司さんはどうしてそこまで自分を追い詰めるんでしょう。なんとなくは井村にも分かりますけど、そういう関係でしょうか、このふたりは」

そういう関係・・・・・・、だから――きっとそう」


 井村は手を止めて姉崎を見たが、姉崎はあえてモニターから目を離さなかった。

 BCIMと覚醒支援者の交信の数値が高止まりしている理由。これが覚醒支援者小鳥遊健司からBCIMに向けられた接触であるのなら答えはひとつ。治療者側からの呼びかけコーリングに反応せず、ひたすらBCIMへ交信し続ける理由、それは――、


「BCIMの制御下から離れてBCIMに介入し続けること。覚醒支援者はどうしても患者彼女を目覚めさせたかった……それが〝彼〟の贖罪だったから」


 小鳥遊健司が今もBCIMに介入を続けて治療環境世界を動かしている――姉崎はそう確信していた。これは理屈ではない、彼は文字どおり神経が焼き切れても玲奈を覚醒させたい、それだけを望んでいる。それはただひたすら、ある人のことだけを想う人間の、最後に残った祈りのようなものだと感じた。


「彼はただ願ってる、それだけだと思う」

「――なんですか、先輩?」


 その呟きはあまりにも小さすぎて井村には聞き取れなかった。


「それでも私は、彼を止めたいんだと思う」


 姉崎は自嘲気味に笑うとモニターに目を戻した。 


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