第41話 その5「――行こう」


 白い砂漠の上をひとり歩く。真っ青な空に浮かぶ太陽が容赦なく私に照りつける。ひとりになると陽の光がこんなに熱かったのかと気づく。

 雲のない青い空と白い砂だけの世界。それはひとりになる前と変わらない風景なのに、今はふとした瞬間に寂しさが襲ってくる。


『暑いよね』『はは、そーゆーもんだろ』『勇者さまと一緒でしたら暑くないの、デス』

 

 そんな空想が頭をよぎった。

 どうにかして欲しい訳じゃない。ただ、言葉を交わせる誰かが近くに居て欲しいと思った。


 眩しく光る太陽が真上から少しだけ西に傾いた頃、私は今日初めての食事を取った。

 リュックから出てきたのはライ麦パンと干し肉と果実水、これを日陰なんてない砂漠の真ん中でフードを被ったまま口に放り込む。パンが口の中でパサつくので果実水で強引に押し流す。味も風味もない、砂を噛んでいるような感触。昨日とさして変わらない食べ物のはずなのに、こんなに違うのってなんでだろ。


 そしてまた歩き出す。

 次のオアシスゴールは西にあるので、私は沈む太陽を追いかけるように歩いた。

 途中で砂嵐に遭遇した。

 全身をマントで覆ってうずくまり、小さくなりながら過ぎ去るのをひたすら待った。

 砂粒が当たる音がマント越しに伝わる。風と砂が混じり合ったそれは、耐えられないものではなかったけれど、私は自分の道をたったひとりで進むのだと思うと胸がとても痛くなった。


 砂嵐が過ぎると太陽は夕日に変わっていた。

 赤色の夕日と水色の空が混じり合う不思議な光景。一番星だけがきらめいている空の下にはオレンジ色から灰色に変わる砂漠だけが広がっていて、ここにはもう私ひとりだけしかいないんだと思い知らされた。


 風もない、しんと静まり返った夕暮れ時を、私はマントの襟元を握りしめながらただひとり見ていた。自分の呼吸音さえ聞こえない張り詰めた静寂の中、無限に広がる空と砂漠の間に立つ私は、なんて孤独で、なんてちっぽけな生き物なんだろうと思った。


 足元の砂粒は本当に小さくて、爪先で蹴れば飛び散って霧散するほど弱い存在なのに、それらは地平線の先まで続いていて世界の下半分を埋めつくしている。砂の一粒一粒が寄り集まって見せる光景に私は息を飲んだ。


 ――ひとりでこの道を進めるのかな


 呟いたその時、私の視界の端に長く伸びる影が映った。

 見るとそれは夕日が作り出した私の影で、オレンジの砂の上に不格好な細長い人型を堕としていた。

 私の足元から伸びる黒い影、その人型は遙か東を差していた。


 空を見上げて息を吐く。日が沈むと急激に気温が下がる。口から漏れる息がうっすらと白ずむ。

 ここは治療のための架空の世界。本当の砂漠って、こんなに寒くて、こんなに寂しくて、こんなにも胸が苦しくなるものなのかな。


 いま目の前に広がる空も夕日も砂漠も私の脳が見ている錯覚で、寒いのも寂しいのも悲しいのも、本当はただの幻。治療用のコンピュータが作り出している幻影ヴァーチャルだ。

 私はきっと、どこかの病院で寝かされていて、今もベッドの上で身動きも取れずにこの治療を受けてるんだと思う。そして、この砂漠の世界が続いてるということは私はまだ目覚めてないんだと思う。


 この世界の全ては作り物で、それはアネットやイムもおんなじだ。

 だから、彼女たちが私を助けてくれたのは、全てはプログラムで初めからそうするように組み込まれていたからで、それは私への治療行為だったのかもしれない。そう考えてしまうと、ふたりの好意は、本当はまがい物で、薄っぺらで、私を欺くためだけのものだったんじゃないかと思ってしまう。


 ――違う、そうじゃない


 私は頭を抑える。

 アネットとイムが仮想世界の人格ヴァーチャルだとしても、ふたりと一緒にいたときに生まれた私の感情だけは本物だって思ったじゃないか。私の心に残ったもの、嬉しくて、楽しくて、悲しくなって、怒って、寂しくなって、ありがとう――いろんな気持ちをもらったことは嘘じゃない。だから、彼女たちがプログラムであっても私はふたりが確かに私の中で生きていたと認めたい。


 じゃあ、いまの私はなんなんだろ。

 綺麗事を並べてアネットとイムは私の大切な人なんだと言いながら、ふたりを犠牲にして次のオアシスゴールに行くのはどうして? ふたりが「行け」って言ったから? 大切だと言っておきながらあっさりと置き去りにするのは、心のどこかで「ふたりはプログラムで作られたとおりに反応してるだけだから」と割り切ってるからじゃないの?


 私は首を振る。

 イムは、人間は他人の想いを受け継ぐことが出来るのだからそれを大切にして欲しいと言ってくれた。

 アネットは、他人は私の道を歩けないのだから自分で歩くしかないって後押ししてくれた。

 それで私は決めたんだ。仮想とか現実とか関係なく、私が経験して感じた大事な気持ちなのだから、これは私だけが知っている本物、これだけは信じていい、と。


 それなのに、そう思っていたのに、叫びたくなるほど胸が苦しくなるのは何故なんだろ?


 それは、自分の中に黒く醜い物が詰まっていることを知ってしまったからだ。

 その醜い感情は、アネットやイムは所詮コンピュータが作り出したまがい物だからと切り捨てるようにと囁き続けていたんじゃないのか。それがじわじわと身体を浸食していって、それが今の私になったんじゃないのか。


 私はぐるりと見渡した。

 どこまでも続く赤色と水色の世界はさっきまでと変わらないのに、私の動悸は激しくなって、胸は締めつけられたかのように苦しくなる。

 変わったのは私の中を見る私の目だ。


『自分がしていることに意味などない。それを理解した上でそれをする生き物、それが人間』


 私の耳元で兎の男――カール王太子の声が蘇る。

 彼も仮想の人格ヴァーチャルだったのに、私なんかよりよっぽど人間らしく怒り、人間のように絶望した。

 ソフィーを人形の姿から解放したい、その純粋な想いだけで悪役令嬢たちをあやめていった彼。計画が失敗してもなおその殺意はついえることなく私たちに向けられ、最後はソフィーコンピュータに捕らえられて終わりを迎えた。


 彼は最後まで私たちに固執した。もうゲームには敗北していたのに、足掻いて、すがって、みっともない姿をさらした彼の方がよほど人間らしいと思う。それに比べて、私はどうなんだろう。


 刹那、私の脳裏に少女の顔が浮かんだ。


 それは仮想世界この世界で目覚めた私が一番初めに見た顔。

 空中庭園が崩れ、【奈落】が墜ちていく悪役令嬢を容赦なく飲み込んでいった最初のゲーム。

 そこで最初に見たのは、墜ちる直前の悪役令嬢の、自分の命が消えることに恐怖する蒼くこわばった顔。それをどうして忘れることが出来なかったのか今ようやく分かった。


 ――あの顔は、現実の私の顔なんだ。


 心臓が激しく鼓動して耐えられなくなった私はその場にうずくまった。呼吸が浅くなって息が苦しくなる。胸を押さえながら手をつくとすがるように砂を握る。拳に力を入れれば入れるほど、ギュッと鳴きながら砂は零れていく。


 ――苦しい。誰か、誰か助けて……あけぼの!


『人の枠を外れた才能を持ってるか、単なる変人か、そのどちらかだな』


 懐かしい男性の声に思わず後ろをふり返る。けれども、あけぼのの姿はない。どうしようもなくなった私が作り出した幻聴に違いない。

 はるか遠くに見える地平線では空と砂漠が交じり合い、天地に分かれていた世界が滲んだ夜となって背後から迫ってきていた。

 もうすぐ、赤色の夕日も水色の空も消えてしまう。私はひとり、この無限砂漠の上ですっぽりと宵闇よいやみに包まれるだろう。寒い、ひとりは本当に冷たい。


『でもね、この言葉の意味はそうじゃないんだ、玲奈』


 身を小さくする私の耳元で、あけぼのではない男性の声がポツリと呟く。また幻聴が聞こえる。


『あらゆる可能性は極端から極端に考えると分かりやすい。この主人公は誰ひとり同じ人間はいないって事を間接的に言ってるのさ』


 幻聴が更に囁く。その男性の声は聞き覚えがある。現実の世界で何度も聞いた事がある声。私を茶化すような、それでいて突き放すでもなく、距離を測っているような、それでいて寄り添う声。初めはその声にどうしていいか分からなかったのに、今ではその声がとても懐かしい。


『この世に誰ひとり同じ人間なんていない。同じものがないところから求めた平均値が〝普通〟? そうじゃない、元から〝普通〟なんてものはないんだ』


 私より4つしか変わらないのに、その人は随分と偉そうに、生意気にそうに私に説明してくれた。

 でもそれは、私との距離感をどう取ればいいのか分からなくていろいろと試していたのだな、と今でなら分かる。それが分からなかったあの時の私は、スマホでフォーチュネに熱中しているフリをして関わらないようにしていたんだ。


『普通の人なんていない。誰もが個性を持ってる、だから、同じ、なんて人はいない。それは裏を返せば誰もが変人だってことを言ってるんだ』


 アニメのキャラの台詞にそんな深い意味なんてないと思ったけれど、その人は妙にむきになって「これは小説が原作なんだからそれを読め」って言ってきたっけ。

 初めて見せる剣幕に驚いた私は言われるままに本を受け取ってそれを読むことになったけれど、それがきっかけで「トリックスターの遊戯」が面白いと思うようになったんだっけ。

 ただ、それを素直に認めるのが悔しくて、あくる日に意地悪な質問を返したんだ。


『読みましたし面白かったです。けれども、みんな個性があるからって〝才能がある人〟か〝変人〟ってのは言い過ぎだと思いました』

『そう思えるって事は、玲奈も人の枠を外れた才能を持ってるか、単なる変人か、そのどちらかだな』


 中学生の私の嫌味なんて通じない。その人はわざとらしく司の決め台詞で返してきた。

 それに思わずカチンときたけれど、その時うっすらと笑ったその人の顔は、それまでのぎこちない作り笑いとは違って、とても自然で、緊張の糸がほぐれたかのようにゆるんでいて、あ、この人はこんな顔も出来るんだって初めて気づいた。


 私はこの時になってようやくその人の顔をちゃんと見ることができたような気がした。

 それからだ、私が彼と同じ空間に居ても逃げ出すことなく話せるようになったのは。


 ――ああ、そうか。


 私は膝に手をついて立ち上がる。

 全てが混じり合って薄闇の一色になっていた西の先では、沈んだ太陽が地平線上に白い線を浮かび上がらせ世界を上下に分断していた。見ている景色は天と地がはっきりと分断されているのに、そこには赤色も水色もなかった。上も下も、表も裏も、全て溶け合って1つの色になっている。


 ひとりひとりは違うのだから、それぞれの答えも違っていい。いろんな考えが交差していくことで1つの色になる、それが〝普通〟。だから私は、私の中で産まれた感情を素直に受けとめて、私だけがそれを信じればいい。

 

 急に風が吹いたかと思うと、世界の音が私の耳に戻ってきた。

 ビューという風の音と共に巻き上がった砂粒が私の頬を打つ。1つ1つは小さくて取るにたらな物なのかもしれない。けれども、この小さな粒はその時その時の私たちの感情と同じで、積もり積もって大地を覆い尽くし、そしていつか空と1つになっていく。それは求めるものじゃない、いつの間にかそうなってると気づくものだ。


「――行こう」


 通りすぎた風を追って、私は私が信じた道へと一歩踏み出した。


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