第40話 その4「レナはレナの道で物語を紡いで欲しい」


 私が目を覚ましたとき、突風の津波は既に過ぎ去っていた。

 私はいつの間にかアネットのマントで全身をすっぽりと覆われ、重ねられた2つのリュックを背もたれにして寝かされていた。マントをはぎ取って辺りを見渡すと、地平線に沈もうとする太陽が夕焼けとなり、白かった砂漠をオレンジ色に変えていた。


「よーやくお目覚めかい?」


 傾く太陽を見ていたアネットがふり返る。

 かすむ夕日をバックに彼女のポニーテールが揺れる。赤い髪に赤いドレスをまとった凜々しい彼女を見て、私は朱色に染まったこの世界を作り出した女神のように思えた。


「まーだ寝ぼけてるかい?」


 苦笑しながら近づいたアネットは手を引いて私を立たせる。そして、スッと目の前でひざまずいた。


「どうしたの急に?」

「最後にきちんと謝らせて欲しい」


 アネットは私の手を取ると深く頭を下げる。


「ちょ、ちょっとやめてよ」

「いーや、やめない。あたしはゲームに負けてレナに救われた。その時、レナにあたしの命を捧げたのに最後まで一緒に行くことができない。あたしはここまで。レナを守ると決めたのにそれができないことを許して欲しい」


 赤い夕日がアネットの暗赤色の髪を輝かせる。髪に編みこまれた黒いリボン、真紅のドレス、オレンジ色に染まった砂漠の世界。その中心で顔を上げ、真っ直ぐに私を見る彼女の真剣な顔を見ると私は返事が出来なくなった。


 アネットと『50人目を取れゲーム』を戦った夜、彼女は部屋でこうやって私に誓いを立ててくれた。そして彼女は言った、「願い事が1つしか叶わないのならばレナの願いを優先して欲しい」と。

 私の願いってなんだろう? アネットの願いを叶えたいと思っちゃいけなかったのかな?


 アネットは私の右手に手を添えている。私の右手――手首から前腕に巻かれている包帯はアネットがしてくれたものだ。

 埃や土や砂で薄汚れてしまった包帯、けれども、巨大天秤に飛び移らなければならなかったあの時、私はこの包帯を見て勇気をもらった。その気持ちは私だけが感じたものだし、誰かが作った記録データを押しつけられた訳じゃない。だから私の願いは、


「アネット!」


 私は彼女の手を引いて強引に立たせるとそのまま手を握った。


「私、イルザのこと助けきれなかった! きっとイルザはフォーチュネの世界向こうの世界にいるよ。だから私とアネットと、そしてイムと3人でまた一緒に――」

 

 その瞬間、アネットの綺麗な指が私の唇に優しく触れた。強く握っていた筈なのに、アネットの手は簡単に私から離れていた。

 私を見るアネットの目が少し潤んでいるのは、きっと私が今にも泣きそうな酷い顔をしているからに違いない。アネットの緋色の瞳がキラキラと夕日を反射させて本当に綺麗だ。


「イルザを助けるのはあたしの物語で、レナでもイムでもないよ。イルザも地下街スラム街のみんなもあたしの物語の中で必ず助ける。だから、レナはこのまま進んで欲しい」


 うっすらと微笑むアネットが唇から指を離すと、私たちの間に夜を告げる冷たい風が流れた。

 日は更に沈み、それを追いかけるように空は冥色めいしょくへと染まる。白い砂漠はオレンジ色から濃い灰色に変わり、音は砂漠の砂に吸収されて辺りは無音となった。

 何もかもが黒に溶けこもうとする中、その中心に存在するアネットだけが赤く力強く灯っていた。


「…………」


 私は何も言うことができず、赤く輝くアネットにただ触れたくて手を伸ばした。

 それに応えるようにアネットは私の腕を取ると、巻かれている包帯を優しくさすった。


「随分と汚れちまって。こいつはもう、これからのレナには必要ないな」


 はは、と小さく笑いながらアネットが包帯を外していく。巻いてくれたのはアネット、外してくれるのもアネット。

 包帯の下から現れた私の前腕にはあけぼのが作った傷の跡はもうなかった。アネットはところどころ触って問題がないことを確かめると、


「レナはもう、これで大丈夫」


 ポツリと呟いた瞬間、巻き上がった風がアネットから包帯を奪った。


「あっ」


 私とアネットは薄暗がりの空を舞う包帯を同時に目で追った。

 風に煽られた包帯はうねりながら空を飛び、そしてあっという間に消えてしまった。

 それでも私たちは、無言のままずっと包帯が消えた先を見続けた。


「レナ」


 先に口を開いたのはアネットだった。

 透明な黒に変わろうとする空からアネットへと視線を移す。彼女も私を見ていた。


「あたしたちはみんな、自分だけの道を進む。その道は出会った人と交わることもあれば平行なまま一緒に歩むこともある。だけど、出会ったそいつの道をそいつの代わりに歩くことは出来ないと思うんだ。だって、その道はあたしに用意されてた道じゃないし、その道を歩いて出来た物語はあたしのじゃないから」


 アネットの静かな声が私に染みこみ身体の芯を熱くさせた。

 赤毛に赤いドレスのこの美麗な女性は、私とそんなに歳が離れているようには見えないのに、私よりずっと先を見ることができるんだ。

 本当は彼女がなんなのか、その真実を知ってしまった今も、これまで側にいてくれたことは心強かったし、頼もしかったし、一緒にいられて本当に嬉しかった、その気持ちに嘘はない。それは間違いなく私が私の中で生み出した感情だ。


 刹那、アネットがちょっと驚いたようにまたたきをした――ああ、私、泣いてるんだ。最後の最後で泣くなんて、さっきまで我慢してたのに。

 アネットは取り出したハンカチで涙を優しく拭ってくれた。


「はは、泣き虫だったんだな、レナは。イルザとおんなじだ」


 その言葉が耳に流れ込んだ瞬間、私の心の中に蠢く感情が堰を切ってあふれ出た。

 私はイルザよりも年上だよ、でも、止められないものは仕方ないじゃない。私だって泣きたくないのに止めたくても止まらないんだよ――そう言いたかったけれど、私の口は嗚咽を漏らすだけで伝えたい言葉は何一つ出てこない。頭の中はいろんな考えでぐちゃぐちゃになっていて、苦しいだけで何を言えばいいのか分からない。


 言葉に詰まった私を見て、アネットは私の頭を撫でて包むように抱きしめた。

 その力強さに驚いたけれども、次に訪れたアネットの温かさと柔らかさが私をすぐに落ち着かせてくれた。


 トントンと、背中を叩かれていることに気づいた頃、私を包んだままアネットは耳元で囁いた。


「あたしはあたしの道で物語をつくるから、レナはレナの道で物語を紡いで欲しい」


 心地よいアネットの声、アネットのぬくもり。

 こわばっていた自分の肩から力が抜けていくのが分かる。もう、これで充分だった。いっぱい、アネットからもらった。私はもう何も言わない。


 こうやってアネットと抱き合って、言葉でないものを通わせる。それが本当は電気信号の交信に過ぎなくて、何もかも私の脳内の錯覚だったとしても、私の心は充分満たされたのだから、それが幸せだと感じる気持ちを否定する必要なんてない、この気持ちはこれからも大事にしていいもののはずだ。

 私はアネットを、イムを、確かに感じていたことを忘れない。


 私とアネットは、灰色の砂漠と黒い空の真ん中でいつまでも抱きしめ合っていた。





 翌日の朝、私に1日分の食糧を渡したアネットは「じゃあな」とひと言だけ口にすると足早に元のオアシススタート地点へと歩き始めた。

 長い別れの言葉なんてない、さっぱりとした最後の言葉は本当にアネットらしいと思った.。だから私もリュックを背負うと彼女と反対の方向に進み始めた。


 けれども、やっぱり私はすぐにふり返る。アネットもそれに気づいて大きく手を振ってくれた。それに安心して私は更に進んだ。

 ザッザッザッ、白い砂を踏む音だけが響く。

 二度目にふり返った時、赤いドレスの彼女は私を見返すことなく大きな白い砂丘を上ろうとしていた。彼女はきっと、2日後には元のオアシスで水色の少女と再会するだろう。そしてふたりはそれぞれ自分たちの物語へと戻る。


 私は、これからはひとりで白い砂漠を横断しなければならない。それをするための勇気はふたりからもらった。


 もうふり返らないから――彼女の背中にそう告げて前を向く。私が行かなければならない、次のオアシスゴールまでの道のりは頭の中に浮かんでいる。


 私は私だけの道を行こう――私は私の道へと足を向けた。


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