第3話

 酔いそうなほどの人混みの中、芽亜はスマートフォンを開いて時刻を確認する。「むぅ、遅刻……」と小さくつぶやいた。芽亜がふと顔を上げると、初めてであった時と同じく二メートルと離れていない距離に六花が立っていた。約束の時間からきっかり一分後の出来事である。


「あ、こんにちは。その現れ方、毎回するつもりですか? される方は結構びっくりするんですけど……」


「癖でついやっちゃうんだよね。ごめんね、ものすごく急いだんだけど、ちょっと遅れちゃった」


「気にしないでください。このくらい遅刻に入りませんよ」

 六花は急いできたというが息を切らしている様子は全くない。どこかうさん臭さのある彼女だが、それも魅力の一つに見えてしまうから不思議なものである。


 二人は六花の働いている探偵事務所があるというに向かう。今回は六花が一緒にいるおかげで道に迷うことは無かったが、不思議なことに芽亜はここまでの道のりを一切覚えておらず、本当に不思議の国にでも来たような気分だった。


「あんまり深く考えないほうが良いよ。これはそういう魔法の一種だから」

 六花は芽亜の顔を覗き込んで言った。


「これも魔法なんですか……?」


「物事を認識させる魔法、またはさせない魔法。物事を誤認識させる魔法、またはさせない魔法。他にも色々な要素がここに来る人間の行く手を阻んで邪魔をする。だからまともに考えるだけ時間の無駄だよ。そして君はたまたま迷い込んでしまった。……たまたまじゃないかな、少しだけ才能があったみたい。大抵の人間はここに迷い込んでも、勝手に追い出されちゃうからね。前回の君の場合は変に抵抗しちゃったせいで自ら出口から遠ざかっていたってところかな」


「そんな才能いりませんよー。六花さんは道に迷ったりすること無いんですか?」


「ここら一帯の魔法は主に視覚に干渉するものだから、目に頼らないで歩ければそこまで困らないよ。道を覚えられない理由も道やまわりの風景を認識できなくて覚えられないだけだから、元から道を覚えてさえいれば目的の場所に辿り着けるからね。五月って子が道に迷わなかったのはそれが理由、彼女の場合、ある程度ここの仕組みを理解してたからっていうのもあるけどね。あ、着いたよ」

 そこは以前立ち寄ったコンビニだった。実はこのビルの二階が彼女の職場兼自宅らしく、二人はコンビニで飲み物を買った後、ビルの薄暗い階段を上がる。ガラスドアには『有馬探偵事務所』と書かれている。ビルの外観の雰囲気とは裏腹にオフィスは子洒落た綺麗なものだった。


「適当にその辺のソファーにでも座って。ちなみにこの『有馬探偵事務所』の有馬っていうのがうちの先生。普段は魔術学校の先生をしてるから、事務所に戻ることはあんまり無いんだけどね。でも安心して、話は私が聞かせてもらうよ。浮気調査に素行調査、人探しから鬼退治まで、うちの探偵事務所は大抵の事はお取り扱いしてますよ」


「鬼退治って今まで誰か依頼に来たことあるんですか?」


「どうだろう、あったかもね。鬼退治。まあ冗談はこのくらいにしておこうか。気になるのはお友達の事だろう?」

 芽亜は碧の事や相談の経緯を改めて六花に伝える。


「なるほどね。魔法使いがらみってなると考えられるのは外部からの魔力干渉かな。主なのはエナジードレインや過度な魔力供給、もしくは何者かによって呪いを受けたか……」


「呪い……ですか」


「可能性の話だよ。まあ呪いって言っても色々あるから、実際に見てみないとわからないけどね。それよりも学校にやってきた魔法使いの方が気になるな。名前とかってわかる?」


「はい。五月から聞いたのをメモしたので大丈夫です。すぐに確認するので、ちょっと待ってください」芽亜はスマートフォンのメモ帳アプリを開きメモの内容を確認する「日下璃子ひのした りこさんだそうです」


「日下璃子……。なるほどね」

 六花はその名前に心当たりがあるようだ。


「もしかしてお知り合いなんですか?」


「そんなとこ。所属の同じ魔法使い仲間で、お互いに顔は良く知ってるよ。彼女が今どんな仕事を抱えてるのかはわからないけど、間違いなく魔法使いがらみの案件だろうね。何度か一緒に仕事をしたことあるけど、少なくともただのお医者さんでは無いよ」


「そうなんですか……。その人って六花さん的にはどうなんでしょうか。その、信頼できるとかそういう意味で」


「信頼はできるよ。それはそれとして璃子が扱う案件なんて、ちょっと私も興味あるな。それに君たちの通う学校も一度行ってみたかったんだ。あの学校ってさ……」

 六花は突然会話を止めて周りを見回す。


「六花さん、急にどうしたんですか?」


「今日は他のお客さんが来る予定はないはずなんだけど……。ごめんね、巻き込んじゃったかも」

 六花はその場で立ち上がり、芽亜をかばうように前に出た。六花の目線の先にあるガラスドアの前には誰もいない。しかしそのドアがゆっくりと開き、ドアベルが鳴り響く。さながら透明人間だが、次第に本来の人の姿が浮かび上がり、ドレス姿の美しい女が現れた。


「大事なお話し中だったかしら、邪魔をしてごめんなさいね。久々に思い人を見かけて嬉しくなってしまったみたい。気が付いたらここまで足を運んでいたわ」

 女のにこやかな表情から、言葉は本心のように思えた。六花の直前の言葉や立ち振る舞いから彼女がただの客ではないことは明白だが、それが分かったところで芽亜にできることは一つもない。ただ祈る、それだけが彼女に許された選択肢だった。


 女の背中からは黒い粒子がほとばしり蝙蝠の翼のように、爪は長く鋭い獣のように変わる。異形の姿にもかかわらずそれを美しいと感じるのはそれ以外の部分が人間のままだったからだろうか。


 女の姿が視界から消える。しかしこれは実際に消えたわけではない、芽亜の認識できない速さで飛びかかり、そして目の前に現れた。女は芽亜に向かって長い爪を突き立てるが、六花が女を蹴り上げてそれを阻止するが、蹴り自体は女の背中から出る二枚の翼によって遮られてしまった。


 すかさず女は反撃に移る。二枚の翼は一瞬霧状になると、今度は一枚の大きな翼へと形を変える。振り下ろされた翼による一撃はまるで車にでもはねられたような強い衝撃を与える。事務所の窓ガラスを突き破り、宙に投げ出される二人はそのまま一階まで落とされるが意外にもそのダメージは少ない。二人を包み込む霧状の翼が二人の身体を守ってくれたようだ。それは六花の背中から現れたものでドレスの女のものに非常に酷似していた。二人の関係性が気になる芽亜だったが、そんなことを言い出せる空気では無かった。


「ありがとうゴースト、戻って」

 六花の言葉に反応するように、霧状の翼は彼女が腰に携えた短刀の中に消える。


「六花さん、あの人、一体何なんですか?」


「あれは魔人アスタロト、ただの悪魔憑きだよ」


「……魔人?」

 女は翼を大きく羽ばたかせて、周りに瘴気を振りまきながらゆっくりと地上に舞い降りる。六花は悪魔憑きと言っていたが、その神々しい姿は悪魔にも天使とも見えた。空を羽ばたき役目を終えた翼は霧のように空気に溶けて消えていく。歩み寄る悪魔に対して、芽亜は立ち上がろうと体を起こすが、立ち眩みのように頭がクラクラしてまっすぐ立つことができない。さらにまわりに振り撒かれた瘴気の影響で、意識が段々と薄れていく。


「すぐ終わらせるから、少しだけ待ってて」

 六花の声が聞こえ、芽亜はわずかに反応して頷く。六花は芽亜を建物の傍らに寝かせると、彼女の手に不思議な色の石が埋め込まれたペンダントを握らせた。


「さて、これで安心。本気なのはわかったよ。少しだけ相手してあげる。でも今日の私は運が良いみたいだから気を付けて」


「あら、そうなの。私の眼の効きが悪いのはそのせいなのかしらね」

 もう芽亜には二人がどんな会話をしているのかは聞こえていなかった。意識が途切れる直前、不敵に笑う女の姿が見えた。

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