第十三頁 一人の男の激情は夜へと沈む

 深夜になり、俺と相棒は家に帰宅した。

 部屋の中は暗く、電気をつける。


「……もう寝てるか」

【あの三毛猫のこと、気になるんですね】

「……分子世界の人間だからな」

【それだけじゃないくせに】


 俺は自分の部屋、千鶴の寝室となった部屋に入る。

 淡い緑のカーテンを開けて月を見上げた。夜空という黒幕にある月白げっぱく耀光ようこうが、彼女の肌にあてがわれる。

 塗羽色の烏が飛んでいく様は死神の使いか、日の女神の使いか。そのたった一匹の二つの意味は、教養がある者ならばどういう意味かはある程度知ることだ。

 作家はベットの上で安らかに眠る少女の寝顔を見つめる。

 どこまでも精巧に、いいや、死ぬ道を辿っていない彼女本人だとわかっていても、自分にとって生き写しのように映る。


【……界刻、わかっていますよね?】

「お前はもう寝てろ、俺もそろそろ寝る」

【え? 待ってください、界刻】


 ……しかたないな。

 界刻は相棒を強制的に眠る呪文を詠唱する。


誰そ彼たそがれ時の輝石、揺蕩たゆたう大海に浸れ」

【……了承りょうしょうしました、我が主】


  透姫が眠りにつくのを確認した界刻は息を吐きつつ、ベットに眠る千鶴の顔を見る。


「……お母さん」


 彼女の目から、涙が伝う。

 当然だ、彼女にとって異世界に迷い込んだ主人公のようなものだ。

 不思議の国のアリス、ならぬ不思議の世界のアリス、といったところか。


「大丈夫だ、千鶴」


 界刻はベットの上に座り、彼女の涙を手で拭う。


「必ず、お前を元の世界に返す。だから、その時が来るまで……傍にいさせてくれ」


 彼女の頭を撫でれば、安心したのか顔が穏やかになる。

 おそらく、夢の中で家族に頭を撫でられていると感じたのだろう。

 ……サヤの言う通り、分史世界の彼女が正史世界にいつまでも滞在すれば俺の記憶どころか、彼女が死んだと認識している家族の記憶にも影響が出る。

 正史世界での亀裂が生む。俺の今までの人生が、変わってしまう。

 わかっているはずなのに、彼女を一度見てしまった、あの時。

 たった一度、生きている彼女だと認識してしまった、あの時。


「――どれほど俺が胸を焦がしたかなんて、お前は知らないだろう」


 彼女の頭を壊れ物を扱う感覚で、優しく、優しく撫でる。

 知る必要なんてない。理解なんてしてくれなくていい。

 分史世界の俺が彼女を独占する羨望よりも、目の前に現れた彼女とほんの少し、ほんの少しだけ、傍にいてほしいと願ってしまった。

 悪い男だと、わかっている。わかっているんだ。

 一度、相棒に出会った日の時のことを思い出した。

 彼女は、本物じゃない彼女がここにいる。

 死んでない幸福を生きている彼女が、目の前にいる。

 そう一瞬でも思ってしまった俺を、いつか俺に重い罰を神様は与えてくれるだろうか。


「神様なんて、どこにもいないんだ。もう、いないんだ――――俺にとっての神様は、お前だったから」


 学生時代の息苦しかった俺の日常に、色づかせてくれたのは君だった。

 いろんな表情を見せて、可憐に笑う君に魅了された。

 怒った顔も、泣く顔も、嬉しそうな表情も。

 何もかも、いつか俺だけが独占できればとどれほど願ったことか。


「……千鶴」


 手入れの行き届いた彼女の茶髪にそっと触れる。


「……お前を殺させない、殺したりもしない。なんでもない安穏に、生きていてくれれば、それだけでいいんだ」 

 

 髪にそっと口づけを交わす。


「おやすみ、いい夢を」


 俺が知る、死んでしまった君への熱情を、後悔を、悲嘆を。

 ないことにだけは、しないから。

 俺の首にう、君の冷たい温もりを忘れないから。

 一人の男は、本来の彼女を忘れないために。

 一人の男は、死んだ彼女を思い出すために。

 一人の男は、立ち去ることを選んだ。

 界刻はベットから立ち上がり、扉を閉める。


「――――悟、さん」


 一人の少女は、小さく、小さく呟く。

 男は知らなかった、少女が目覚めていることを。作家の哀れな独白を一字一句聞き逃さなかった少女は、涙が伝うまぶたを閉じた。

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