どうか、私だけを想って
九月十三日、日曜日。まだムシムシした残暑の中でも毎日病院に通い続けていると看護師さん達に顔も名前も覚えられてしまい、病棟の入口で「あの子のこと、そんなに好きなの?」といじられるようになってしまった。
エレベーターでワキアが入院している階へ到着すると、どこからかピアノとヴァイオリンの音色が聞こえてきた。休憩スペースへ向かうと、予想通りベガとワキアが演奏会を開いており、多くの患者さん達が心地よさそうに演奏を聞いていた。
曲は、七夕祭で聞けなかったナーリア・ルシエンテスのデビュー曲『StarDrop』。まさか病院で聞けるとは思わなかったけど、また二人のコンサートを見ることが出来て良かった。
演奏会が終わると僕は二人に挨拶をして、ワキアの病室へと向かった。ベガはこれからヴァイオリンのレッスンがあるとのことで、僕だけ病室に残ってワキアと談笑していた。
「烏夜先輩は去年、林間学校に行ったことがあるんだよね? どんな感じなの?」
「自然豊かな山奥のキャンプ場でキャンプをして、登山をしたりカレーを作ったり川で釣りをしたりって感じかな」
「そこでもやっぱり烏夜先輩はナンパとかしてたの?」
「山道で捻挫しちゃった綺麗な女の人を助けたらお礼に家まで連れてってくれたんだけど、実は山姥で包丁を片手に追っかけられた記憶ならあるよ」
「烏夜先輩は日本昔話の世界に生きてるの? 逃げ切れたの?」
「筋肉隆々の先生が逆に山姥を追いかけ回してたね」
「もしかしてその先生が一番ヤバい?」
殆どの記憶は思い出せるようになったけれど、思い出せば思い出すほど自分が異常な人生を送っていたことを思い知らされる。僕だって自分自身の思い出なのに半信半疑だよ。
「でもやっぱり一番の目玉はキャンプファイヤーでのフォークダンスだね。僕は何人もの男子が調子に乗って突撃して砕け散ったのを見届けたけど、やっぱりテンションが上がるよ」
「合法的に女の子と手を繋げるから?」
「言い方が悪いけど、まぁそうだね」
「ちなみに烏夜先輩も砕け散ったの?」
「ノンノン。僕は林間学校をきっかけに知り合った女の子と食事に行ったんだけど、実は魔眼の持ち主で石化させられかけたから別れちゃったよね」
「烏夜先輩って神話の世界に生きてる?」
ワキアは林間学校には行けないけれど、きっとベガやアルタ達が土産話を持ち帰って喜んでワキアに話してくれるだろう。
ワキアは一人、この病院に残されてしまうけれど……。
「烏夜先輩、私との約束覚えてる?」
誰かが持ってきたらしいノザクロのフルーツケーキをモグモグと食べながらワキアが言う。前にカペラから貰ったネブラダンゴムシのぬいぐるみを抱えているけれど、ルナとの一件があってからちょっと邪悪な生物に見えるなぁ。
「ワキアちゃんが入院することになったら毎日お見舞いに行くよって約束のこと?」
「そう、それ。まさか本当に毎日来てくれるとは思ってなかったよ」
「ごめん、迷惑だった?」
「ううん、全然。アルちゃんやお姉ちゃんだってバイトとかレッスンで忙しいし、他の皆だって色々予定があるだろうから、毎日来て欲しいだなんて私のわがままになっちゃうと思って。もしかして烏夜先輩ってそんなに暇なの?」
「いや暇じゃないけど!?」
ワキアの病室には双子の姉のベガや幼馴染のアルタを始め、ルナやカペラ、キルケといった多くの友人達があしげく通っている。他の入院患者との交流もあるからワキアは決して孤独というわけではないけれど、少しでもワキアが元気になれるならと僕は毎日通っていた。
今日もワキアの元気そうな姿を見られて僕は嬉しかったけれど、ワキアはふと表情を曇らせて顔を少しうつむかせながら口を開いた。
「ありがとね、烏夜先輩……ねぇ、私のお願い、聞いてくれない?」
「何?」
「もしも私がこの世界からいなくなっちゃったら、その時はお姉ちゃんのことをよろしくね」
それはまるで、自分の死期を悟ったような物言いだった。その遺言めいた言葉を聞いた僕は、思わずワキアの手を握りしめていた。
「やめなよ、ワキアちゃん。ベガちゃんを僕に託すのはまだ早い」
冗談だと言ってほしかった。冗談では済まされない発言だけど、そうであってほしかった。
もしかしたらワキアは自分の死期を悟ったのかもしれない。でもそんな未来は誰も望まないのだ。
「僕が、必ずワキアちゃんの病気を治すから」
ワキアは面食らったような表情をした後、クスッと笑って照れくさそうな笑顔を見せた。
「ありがとね、烏夜先輩。私、林間学校に行けそうにないから少し落ち込んでたんだけど、烏夜先輩のおかげで全然寂しくないよ。私も早く退院できるように頑張るから」
いつも能天気で朗らかな雰囲気と打って変わって、しおらしく笑顔を見せるワキアを見て僕は思わずドキッとしてしまった。
「うん、応援してる」
僕も……ワキアの笑顔をずっと見ていたいから。
ワキアと話していたらいつの間にか一時間も経っていたため、僕は帰ることにした。明後日からはベガ達一年生の林間学校が始まるから、その間はベガやアルタ達はワキアのお見舞いに来ることが出来ない。
だからその間は僕がワキアを元気づけてあげないとと思いながら病室を去ろうとした時──僕は背後からいきなり抱きつかれた。
「わ、ワキアちゃん?」
僕が尋ねても、僕の背後から抱きついてきたワキアは何も答えず、僕の体に手を回してギュッと抱きしめるだけだった。背中からワキアの体温や体の感触を感じ取ることは出来たけれど、こころなしか彼女の心臓の鼓動が早くなっているように感じられた。
「……ねぇ、烏夜先輩」
僕の体をより力強く抱きしめながら、僕の背中に顔を埋めてワキアが言う。
「私、時々怖い夢を見るんだ。まるで自分が自分でなくなってしまうような、でも本当は私の深層心理がそれを望んでいるだけなんじゃないかって怖くなって……無性に誰かをメチャクチャにしたくなっちゃうんだ」
……え?
今、何か凄く怖いこと言わなかった?
そう思ったのも束の間、ワキアは僕の体を無理矢理ベッドの方に引っ張ると、そのまま乱暴にベッドの上に押し倒そうとしてきた。
「ま、待て、待つんだワキアちゃん!」
しかし僕は何とかワキアの拘束を逃れて、暴れようとするワキアの腕を掴んで何とか制止した。するとワキアはもう暴れようとはしなかったものの、今度は苦しそうにゲホゲホと咳込み始めた。
これは異常な発作だと思った僕は、すぐにベッドの側に繋がれていたナースコールのボタンを押した。
「ごめん、ワキアちゃん」
以前、僕は何度かワキアの発作に見て見ぬふりをしたことがある。でも今回ばかりはワキアの様子がおかしかったし、七夕祭でのこともあったから僕は迷わなかった。
ワキアを安心させるため彼女の手を握りしめると、ワキアは苦しそうに胸を押さえて咳き込みながらも、精一杯の笑顔を作って口を開いた。
「ううん、良いんだよ烏夜先輩……それがきっと、正しいことだから」
その後、すぐに看護師さんや担当のアクア先生がやって来てワキアは治療を受けることとなり、僕は病室を出てベガに連絡を入れていた。
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「ご迷惑をおかけして申し訳ありません、烏夜先輩」
アクア先生から説明を受けた後、病院の廊下に出てきたベガは僕に頭を下げてきた。きっと僕に襲いかかろうとしてきたことも聞いたのだろう。
「ううん、ワキアちゃんの容態も落ち着いたようで良かったよ」
今までワキアは何度も発作を起こしたことがあるけれど、今日のような発作は始めてだったこともありワキア精密検査を受けることになったので夜まで時間がかかってしまった。幸い命に関わるようなものではなかったけれど、治療法の存在しない不治の病の謎がさらに深まる結果となった。
その後、僕はワキアと顔を合わせずに病院を後にしてベガが手配してくれた琴ヶ岡家の車を病院の前で待っていた。
「烏夜先輩。その……ワキアから伝言があるんです。もうお見舞いに来なくていい、と」
ベガからその伝言を伝えられた僕は、まずショックを受けた。発作を起こす前は、僕が毎日お見舞いに訪れていることをワキアは喜んでいてくれたけれど、もしかしたら発作の原因は僕にあったのかもしれない。
僕が、性懲りもなく毎日通っていたからか……?
「うん、わかったよ。それがワキアちゃんのためになるなら僕もそうする」
「すみません、烏夜先輩の親切心を反故にしてしまうようで……これはアクア先生の判断でもあるのでどうしようもないんです」
ベガの話によると、ワキアの発作自体は呼吸器系に影響を及ぼしているけれど、そもそもの病の原因は脳機能の異常にあるのではとされているらしい。だから脳外科医のアクア先生が担当についているわけだけど、その影響で精神に異常をきたす可能性も出てきたという。
「そう、か……」
誰もその言葉は使わないけれど、これは明らかにワキアの病状が悪化しているということだ。その悪化の原因がワキアの発作を見過ごした僕なのだとすれば、それでいてお見舞いにすら行くことの出来ない自分が情けなく感じる。
そんな僕の隣で、晩夏の夜空に輝く月を眺めながらベガは呟いた。
「私、とても怖いんです」
ワキアの前では姉として気丈に振る舞うベガが弱音を吐いていた。そんな彼女の気持ちを僕は隣で黙って聞く。
「私、時々怖い夢を見るんです。この世界から私の知っている人達が皆いなくなってしまって、私だけが一人取り残されてしまうような……そんな孤独感に襲われながら夜を過ごすこともあります。使用人達に部屋にいてもらっても、やっぱり落ち着かなくて」
ベガの発言にデジャブを感じたのは、ワキアからも偶然似たような話をされたばかりだったからだ。やはりワキアは自分の体の異常に気づいていて、そしてベガは最愛の妹がいなくなってしまう未来を恐れて、いつかは訪れるかもしれない最悪の結末を悪夢として見ているのだ。
そんなベガのことがいたたまれなくなり、僕は我慢できず彼女の手を握った。
「そんな夜は、気兼ねなく僕に電話してきなよ。どんな真夜中だったって良いさ、僕はそれを全然迷惑だなんて感じないし、何なら家に呼び出してくれたって構わないよ。
ベガちゃんは僕にとって大切な人なんだから、一人で悩まずに頼ってほしいんだ」
両親を失い、ネブラ人の王女様という隠された肩書を背負いながら、病気の妹のためにベガは日々ヴァイオリンのレッスンに励んでいる。双子とはいえ、やはり長子というものは責任感を感じやすいし、人によっては誰にも相談することが出来ずに一人で抱え込んでしまうことだってある。僕が少しでも役に立てるなら喜んでそうする。
するとベガは、そっと僕の体にもたれかかってきた。
「ありがとうございます、烏夜先輩」
これだけ足を踏み込んだのだから、二人の幸せは僕にも責任がある。僕に体を預けたベガは、僕の手を強く握り返してきた。
「どうか、私だけを見ていて……」
ベガの呟きは、周囲の木々のさざめきにかき消されていた。
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