乙女から朧へ
犬飼家での誕生日パーティを終えた後、僕はスピカとムギにアストレア邸に招かれていた。リビングで待っているとスピカとムギがやって来て、その手には大きな細長いボトル──以前に僕に見せたいとスピカが言っていた、ローズダイヤモンドという幻の花のハーバリウムを持っていた。
噂には聞いていたけれど、その花の美しさに僕は思わず言葉を失った。
ネブラ人の世界では恋人を亡くしたお姫様の涙によって咲いたという逸話が残り、普通の植物と違い『愛』を栄養分にして育つという幻の花。まるで夜空に輝く星々のように煌めく不思議な花弁は、ハーバリウムとなった今でも輝きを失っていない。
スピカは僕の目の前のテーブルにハーバリウムを置いて口を開いた。
「このローズダイヤモンドは朧さんに差し上げます」
「え? これはスピカちゃん達にとって大切な思い出のお花じゃないの?」
「確かにそうですが、朧さんのおかげで私はもう一度ローズダイヤモンドを見ることが出来たんですよ。これは朧さんが持っているべきです」
八年前、ローズダイヤモンドの美しさに感動していつかまたその花を咲かせたいと願っていたスピカ。そんな彼女の大切な花をプレゼントされるのは感慨深いし素直に嬉しかった。
琴ヶ岡邸でハーバリウムを受け取った後、僕は帰途についた。でもローズダイヤモンドが咲いていたという花壇のことが少し気になってスピカから聞いた場所へ向かうと、木々に囲まれた路地の一角に古びたレンガに囲まれた小さな花壇があった。
スピカがローズダイヤモンドの花を取ったため今は何も咲いていないけれど、かなり年季が入っていて随分と昔からあるような──。
「ミッズゥ!」
「おわああっ!?」
花壇の前に自転車を止めて観察していると、土の中からいきなり巨大なミミズが姿を現した。
「ミミッズ!」
現れたのはネブラミミズ。確か地球に生息しているミミズと同じような生態だけど、やっぱりデカいから少し怖い。
ネブラミミズは元気な鳴き声を上げながら、体を揺らして僕に挨拶をしているようだった。
「ミッズ! ミッズ!」
「な、何?」
「ミッズ?」
「……もしかして君、僕と知り合いだった? だったらごめん、ちょっとした事故で記憶喪失になっちゃったんだよ」
「ミッズゥ!?」
僕が記憶喪失になっているという事実を告げると、ネブラミミズは驚きと困惑からかその体をズッタンバッタンと激しく揺らしていた。僕の言葉を理解しているのかこの生物は。
「ここって前にローズダイヤモンドが咲いていた場所だよね?」
「ミズミズ」
このネブラミミズはローズダイヤモンドの守護者みたいな存在だったのかな。そんなことを思っていると、ネブラミミズは花壇の後ろにある茂みの方を体を動かして指し示していた。
「そっちに何かあるの?」
「ミッズ! ミッズ!」
「え、下に?」
ネブラミミズに言われた通り、僕は茂みの奥を手で探った。すると下の土が少し柔らかくなっていて、掘り返すと固いものが手に当たった。
その物体を茂みの中から出してみると、それはお菓子とかが入っていそうな錆びたブリキ缶だった。蓋を開けてみると、まず一枚の紙切れが見えた。
『私達の居場所はどこ?』
なんだ、この文言は。
一体誰が、どういう意図で書いたのだろう? その言葉の意味を理解できないまま、その紙切れの下にあった、星型のシールで封がされた封筒を手に取った。
『おぼろへ』
拙く丸っこい字で書かれた宛名。
『おとめより』
丁寧に差出人の名前まで書かれていた。
「……ねぇ、ネブラミミズ。以前の僕はこの封筒を開けたことがある?」
「ミズミズ」
「ないんだね。これを誰が入れたかは知ってる?」
「ミズミズ」
知らない、か。そこまでの判別までは難しいかもしれない。
僕の記憶の中にこの手紙の存在はないけれど、この手紙が朽野乙女という少女から烏夜朧という少年へ向けられた手紙だということは理解できた。
文字を見るに、おそらくかなり昔に書かれたものだ。以前の僕は、幼い頃の僕はこの手紙を読んだことがあるのだろうか。
僕の手は無性に震えていた。この手紙を読んでしまったら、僕の日常が変わってしまうかもしれない。僕にとって当たり前だったことが大きく変わってしまうかもしれない。
そんな不安もありながらも、僕が忘れている重要な何かを思い出せるんじゃないかと、淡い期待を込めて僕は封を切った。
『この手紙を最初に誰が読むのかわからないけれど、私は朧だと信じてる』
封筒の丸っこい字からは信じられない、丁寧に書かれたその一文で手紙は始まった。
『私は運命だとか宿命だとか、そういうオカルトみたいな話をロマンチックに語ることがあまり好きじゃないの。朧はよく知ってると思うけど、アンタに言ったって無駄ね。
でも昔、朧が私に話してくれたこと覚えてる? いじめっ子にいじめられてた女の子を助けたことがあるって、一度だけ私に話してくれたこと。誰を助けたのかも、いつの話だったかもわからないって朧は話していたけれど、正直私は夢の話を現実と間違えてるだけだって思ってた。だってあんなに泣き虫だった朧がケンカに強いとか、信じられるわけないじゃん。
でも、私は前にも一度、同じ話を聞いたことがあったの。
いじめっ子にいじめられていた女の子を助けた話じゃなくて、助けられた側の女の子から、自分を助けてくれた男の子についての話をね。
その時初めて、私は運命の出会いがあるんじゃないかって思ったんだ。朧自身が覚えているのかはわからないけれど、向こうは今でもそれを覚えているよ。
私達が今も、あの金色のペンダントをプレゼントしてくれた謎の誰かのことを追い求めているように……きっとね、朧が助けた女の子は今も朧のことが好きだと思うよ。助けてくれたのが朧だと気づいているのかわからないけれど。
私はね、ずるいことをしちゃったんだ。確かに証拠はなかったのもあるけど、その子に朧のことを教えなかったんだ。私が少しでも助けてあげたら、例えばの話でも朧の話をすれば、二人は運命の出会いを果たすかもしれなかったのに。
どうしてだろう?
アンタみたいな奴に、恋人が出来るなんて信じられないのに。
出来たら出来たでずっとからかってやろうと思ったのに、どうしてこんなに怖くなっちゃったんだろう?
私は皆の幸せを第一に願っていたはずなのに、もうそれが出来なくなったの。だから、私は朧の側にいちゃいけない。もう私がいなくても、朧は幸せになれるから。
本当は生真面目な朧が、無理をしてバカみたいなキャラを演じてるの、私は知ってるんだから。
P.S.私を探さないで。
乙女より』
「ミッズ?」
ネブラミミズの鳴き声が耳に入って、僕はようやく我に返った。僕はどれだけの時間、この手紙を手に持ったまま立ち尽くしていただろう。
「ネブラミミズ、これ僕が持って帰っても良いのかな?」
「ミッズ!」
「ありがとう」
僕は手紙を封筒にしまって、もう一つの謎の紙切れもブリキ缶に戻して自転車のカゴに放り込み、ようやく家を目指して自転車を漕ぎ出した。
間違いない。この手紙は乙女が、この月ノ宮を去る直前に書いた僕宛ての手紙だ。記憶喪失になっている僕には乙女が何の話をしているのかはイマイチわからなかったし何かの思い出が蘇るわけじゃなかったけれど、気になったことは二つ。
まず、なんでこの手紙があの花壇の奥の茂みに埋められていたのか。
そして、最後に書かれた『私を探さないで』という一文。
やっぱり乙女は、自分からこの月ノ宮での絆を断ち切ろうとしている。僕達と頑なに連絡を取ろうとしないのは、その決意の現れなのだろう。その理由が何なのかはわからないけれど。
それにこの手紙を僕が最初に見つけるということを乙女が予測しているのを鑑みるに、以前の僕はこの場所に結構縁があったのか? 幼い頃の僕はここら辺で遊んだ記憶もないし……いじめられていた女の子を僕が助けた話を乙女は書いていたけれど、そんな記憶も存在しない。ただ単に僕が忘れているだけなのか、記憶喪失になったことで一時的に忘れてしまっているのか、僕にはわからない。
確かに今の僕は記憶喪失になっているけれど、最近は段々と思い出せるようになってきていた。なのに何の心当たりもない。僕と付き合いの長い大星に急いでLIMEで連絡を取っても、そんな話は聞いたことがないと言っていた。
乙女は本当に、烏夜朧の話をしていたのだろうか?
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