キッチン囚人
七月二十六日、日曜日。今日は記憶喪失になってから初めて喫茶店ノーザンクロスのシフトに入っている。
今日はバイト初日だし休日だから、シフトが始まる一時間前にはもう自転車でノザクロに到着していた。まだ開店前だけど、白髪で筋肉ムキムキの大男……喫茶店よりスポーツジムにいる方が似合いそうなノザクロのマスターがガラス窓の拭き掃除をしているところだった。
「お疲れ様です、マスター」
「オー、ボローボーイじゃないか。出勤のときはそっちの裏口から入るといいよ」
「ありがとうございます。何か手伝いましょうか?」
「出勤には早いけどオーケー? ならキッチンのクリーニングを頼むよ」
僕は裏口からお店の中に入り、スタッフルームで制服に着替えた。あまり広くはないけど意外と整理整頓されていて、今月の予定表だとか新作メニューの試案だとかたくさんのファイルが棚に並べられていた。
支度を終えるとマスターに言われた通りキッチンの掃除へと向かう。マスターには全然案内されてないけど掃除用具の場所は体が覚えていて、雑巾を片手にキッチンへ向かうと──僕と同じ制服を着た黒髪ツーブロックの若い男性がランチやデザートの仕込みをしていた。
「お、カラスじゃねーか! 久しぶり!」
男性は僕に気づくとはにかんでみせたけど、誰だろうこの人。カラスって呼ばれたの初めて。
「あ、こんにちは……すみません、記憶喪失でして」
「話は聞いてるぜ。俺は白鳥アルビレオ! 自由を謳歌するフリーターだ。一応、去年カラスが入ってきた時にトレーニングを担当してたぜ。俺のことはレオって呼びな」
「よろしくお願いします、レオさん」
なんだか優しくてまともそうな先輩がバイト先にいてくれて良かった。いや、マスターもあんなゴツい見た目に反して優しい人だけど、口調とかちょっと外国かぶれでおかしいし。
「あの、マスターにキッチンの掃除を頼まれてたんですけど、仕込みの方が良いですか?」
「掃除は俺がやっといたよ。ちょっとこのクリームを混ぜといてくれないか? あ、混ぜ方とか覚えてる?」
「はい、大丈夫ですよ」
「オーケー、じゃあ混ぜんの重くなってたら声をかけてくれ」
「了解です」
僕はデザート用の生クリームをかき混ぜることになった。一方でレオさんはオムライス用に大量の卵を割ったりソースの下ごしらえをしている。
僕やルナ達学生組の出勤は開店の一時間前だけど、マスターやレオさんは二時間前から掃除や仕込みを始めているとのことだ。アルタも学生だけど稼ぐために早めに出勤していて、今はホールの掃除をしている。
「いやー、ちょっと前にマスターからカラスが事故に遭ったって聞いてびっくりしたぜ。なぁ記憶喪失ってどんな感覚なの? 呼吸の方法とかも忘れる?」
「だったら僕死んでますよ。最初は会う人会う人皆他人にしか見えなかったんですけど、今は少しずつ思い出せてますよ。ここでの作業も体が覚えてますし」
「それは助かるよ。ま、わからないことあったら何でも聞いてくれよ!」
「ありがとうございます。あ、良い感じに泡立ってきましたよ」
「よしっ、じゃあ次はフルーツジュースの仕込みだな」
僕はレオさんから作業指示を受けて色んなメニューの準備を続ける。少しずつ感覚は取り戻せているけどやっぱり忘れていることもあったから、その都度レオさんに聞くとわかりやすく教えてくれた。
夏休みシーズンに突入し、しかも今日は日曜日。復帰後初のシフトにしてはハードな一日になりそうだけど、頼れる先輩がいて凄くありがたかった。
やがてキルケも出勤してきて、ホールでの業務を担当するアルタから手取り足取りトレーニングされていた。
「まずは笑顔でいらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ!」
「次に人数を確認して。三名様ですか?」
「三名様ですか?」
「じゃあ空いてる席にご案内。こちらのテーブル席へどうぞ」
「こちらのテーブル席へどうぞ!」
「声をかけられたらメニューを取りに行ってね」
「粉落とし薄め少なめですか?」
「ここはラーメン屋じゃないんだよ」
キルケ、前回マスターに教えてもらった時の変な感覚が残っちゃってるじゃん。
「ありがとうございますアルタさん。今日のトップバッターは私から行かせてもらってもいいですか!?」
「それだけの自信があるなら。開店直後はそんなに込まないし」
「頑張ります!」
元々アルタとキルケは月学では別のクラスだけど多少は話したこともあるらしく、ここでも仲良くやってくれそうだ。意外とアルタも人に業務を教えるの上手いし面倒見も良い。
「烏夜先輩、そんなジロジロ見てる暇あったらフルーツを混ぜといてくださいよ」
「何か僕にだけ当たり強くない?」
「一応貴方は経験者じゃないですか。僕達はホールを回すのに忙しいので、そっちは頼みましたよ」
いつかはアルタも僕に優しくしてくれる時が来ないかなぁ。
開店準備を終えると、今日シフトに入っている僕とレオさん、アルタにキルケ、そしてマスターの五人でホールに集まった。
「トゥデイはカムバックしたボローボーイとニューフェローのキルケーがいるよ!」
「鷹野キルケです! よろしくお願いします!」
「よろしくなー。困ったことがあったらアルタお兄さんを頼るんだぞ」
「いや同級生だから」
「うん、ボローボーイも久々だからね、困ったことがあったら何でもミー達に聞くんだよ!」
「ありがとうございます」
さて、とうとう開店時間を迎えて最初のお客さんが入ってきた。ホールに出ることを禁じられている僕はキッチンに収監されているけれど、入口の扉の鐘の音が聞こえてくる。
「ど~もど~も~」
「遊びに来たよ、アルちゃん」
何かすんごい聞き覚えのある声が聞こえてきたんだけど。完全にベガとワキアの声だ。
「オー! いらっしゃいませ! アルタボーイのガールフレンズじゃないか!」
「ガールフレンズじゃないって言ってるでしょうが」
「あれっ、琴ヶ岡さん!? ももももしかして、ここでアルタさんと密会ですか!?」
「こらキルケ、ここではお客様だからちゃんと案内して」
「あ、こちらのテーブル席へどうぞ!」
キルケもベガとワキアのことは知っているのか。そりゃあんな豪邸に住んでいたら結構な有名人だろうなぁ。しかも二人がアルタのガールフレンズって認識なんだ。複数形で。
「ご注文はいかがなさいますか?」
「では私はカフェラテとオムライスを」
「じゃあ私はフルーツジュースと明太子パスタ!」
「かしこまりました。オムライスと明太子パスタ、カフェラテとフルーツジュースを一つずつですね。ご一緒にラーメンはいかがですか?」
「じゃあヤサイニンニクアブラマシマシで」
「いやメニューにないから」
びっくりした、急にここが二郎系の厨房になるところだった。何だか変な癖がついてそうだけど、ちゃんとハキハキと喋って接客できているし、最初のお客さんが知り合いで良かったね。
「カラス、オムライスと明太子パスタな。俺ソース作っとくわ」
「了解です。あ、このオムライスのレシピなんですけど、卵の適量ってどのくらいなんですか?」
「適量は適量よ。長年の勘ってやつ」
「そ、そうですか」
メニューのレシピがキッチンに貼られているのは親切に思えるけど、材料のグラム数とか工程の書き方が雑すぎて多少の不安はある。その都度一応レオさんに確認するけど「まぁ良いんじゃね?」って返されるし、大丈夫かなぁこのお店。
「オムライス出来ましたー。明太子パスタは海苔をかけるだけなんですけど、どこにありますっけ?」
「こっちにあるからやっとくぜ」
「ありがとうございます」
「ボローボーイ、次オムライス二つだよ! ミーはドリンクを作っているね」
「了解です」
僕がホールに出ることは無いから調理の殆どは僕が担当して、ヘルプ要員としてレオさんがキッチンとホールを行き来して、マスターはカウンターの裏でひたすらにコーヒーを淹れている。フルーツジュースとかのドリンクは僕達が作ることもあるけど、コーヒーはマスターが担当、というかマスターしか作れない。コーヒーも中々に人気商品で次々に来るから、意外とマスターの仕事も多い。
「んー! やっぱりここのパスタ美味し~」
「オムライスもふわふわです」
「私にも一口ちょーだーい」
「はいはい」
あぁなんかベガとワキアの笑顔が想像できるけど、忙しいから見に行けない! でも僕が作った料理を美味しいと言われるだけで凄く嬉しいよ!
「ねぇアルちゃん、この料理は烏夜先輩が作ったの?」
「そうだよ。今キッチンに閉じ込められてるから」
「私達の代わりに、美味しい料理のお礼に何かプレゼントしといてー」
「わかった。じゃあダークマター☆スペシャルを後で烏夜先輩に飲ませるよ」
だ、ダークマター☆スペシャル? 何だか妙に聞き覚えのある、嫌な予感しかしない飲み物の名前が聞こえてきた。
「あのレオさん、ダークマター☆スペシャルって何なんですか?」
「あぁ、色んな健康食材をぶち込んだ栄養ドリンクだよ。俺も一度飲んだことあるけど、人が飲むものじゃねぇよあれは」
成程。アルタはそんなゲテモノを僕に飲ませようとしているわけか。
なんでもダークマター☆スペシャルといういかにもヤバそうな栄養ドリンクは、この月ノ宮町で生産されているアイオーン星系原産の様々な宇宙食材を混ぜ合わせ、それを数年間熟成させたものらしい。味はともかくとして、栄養ドリンクとしての効果はてきめんとのことだ。味はともかくとして。
「もしかして僕はアルタ君に結構嫌われてます?」
「法で許されていたなら、今頃お前はこの世にいなかったかもな」
どうして僕がこんなにアルタに嫌われているからわからないけど、多分全面的に僕が悪いだろうから甘んじてダークマター☆スペシャルを飲むよ。
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