どうぞ! 私の頭をナデナデしてください!
月ノ宮神社でルナと別れた後、僕はその麓にある琴ヶ岡邸へと向かった。
八月の半ばに開催される月ノ宮神社の七夕祭の本祭でベガはミニコンサートを開く予定で、僕にその練習を是非見てほしいとのことだった。
「烏夜様ですね。どうぞお通りください」
「あ、どうもありがとうございます」
琴ヶ岡邸の入口で警備員さんに声をかけると、本当に顔パスで中に入ることが出来た。まず警備員がいるってこと自体が怖いよこのお屋敷。
そして敷地の入口から屋敷の玄関までが割と遠い。梅雨が明けてもう真夏って感じだけど、屋敷前の噴水がいくらか僕を涼しくしてくれていた。
「お待ちしておりました、烏夜様」
屋敷の玄関前でじいやさんが待っていてくれて、そのまま僕は中に通された。ここに来るのは初めてじゃないはずなのに、やっぱり僕なんかが入っていいのかと緊張してしまう。
そんな僕に、じいやさんは前を進みながらにこやかに口を開いた。
「今日もお嬢様達のためにお越し下さりありがとうございます。お嬢様達が烏夜様になにかご迷惑をおかけしておりませんか?」
「いえ、全然そんなことないですよ。むしろ僕は毎日が楽しいぐらいです」
「左様ですか……烏夜様の記憶が早く回復するようお祈りしております」
そしてじいやさんに連れられて廊下を歩いていると、段々と美しいヴァイオリンの音色が響いてきた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
じいやさんに促されて、僕はヴァイオリンの音色が響く部屋へと足を踏み入れた。
白と黒を貴重としたシックな雰囲気の部屋の中心で、青いリボンを着けた白いワンピース姿の銀髪の少女──ベガがヴァイオリンの音色を奏でていた。ヴァイオリンってもっと落ち着いて弾くものだと僕は思っていたけど、ベガはまるで軽やかなタップダンスを踊っているような、いや実際にそんなステップを踏んでいるわけではないけれど、踊っているかのような雰囲気で弾いている。
そしてこの曲はテレビなんかでよく聞く、ナーリア・ルシエンテスの『ネブラリズム』のヴァイオリンアレンジか。原曲はポップ調だが、それをヴァイオリンで奏でることが出来るなんて……そう思っていると、本棚の前に置かれたふかふかそうな肘掛け椅子にワキアが座っていることに気づいた。
「ぐごー」
寝てるぅー!?
いや寝てますよこの人!? ベガがこんな一生懸命にヴァイオリンを弾いているのに、こんな綺麗な音色を奏でているのに寝てる!? しかもいつもみたいにアホ面かいて間抜けないびきかいてるよ!
そんな調子のワキアに戸惑いつつも、僕はベガの演奏に魅入られて部屋の入口で立ったまま彼女の演奏を聞いていた。
ベガは八月の末にコンクールの予選を控えていて、確か十月に本選があるはずだ。本人はかなり不安そうにしていたけれど、規模感や曲が違うとはいえ、これだけの演奏が出来るなら……いや、やはりコンクールとなると、今僕が聞いているベガの演奏と同じぐらい、いやそれ以上のレベルの人達が集まるのだろう。
それに多くの人々の前で演奏しないといけないから、それに慣れるためにミニコンサートという機会を用意してもらったのだ。
「……烏夜先輩、いかがでしたか?」
ベガが演奏を終えると、僕は思わず彼女に拍手を送っていた。決して知り合いだから贔屓しているわけじゃない。
「凄いね、想像以上だよ。今のってナーリアの『ネブラリズム』だよね?」
「はい。前に私を指導してくださってる先生に相談して編曲してもらったんです。私の耳にも馴染んでいるので弾きやすいですね」
「ミニコンサートが楽しみだよ」
するとベガは肘掛け椅子に座って寝ていたワキアの下へ向かい、彼女の肩を優しく揺らした。
「ほら、起きてワキア」
「ふがっ! あ、お姉ちゃんおはよ~今日もおはようのちゅーして~」
寝ぼけているのか、ワキアはポワポワした状態のままベガの頬に軽くキスをした。キスをするとワキアは満足そうに笑って、ベガも仕方がないわね、という雰囲気で笑っていた。
なんか仲睦まじい姉妹のやり取りを邪魔するのもなんだけど、一応僕も声を掛ける。
「やぁ、おはようワキアちゃん」
「……んえ? 烏夜先輩……あれ!? 烏夜先輩だ!? どーして烏夜先輩がここに!?」
「ベガちゃんの練習を聞きに来たんだよ」
「じゃ、じゃあ今の見てた!?」
「み、見てたけど」
「そ、そう……」
するとワキアは急に顔を赤くして僕から顔を背けてしまった。あ、今の僕には見られたくなかった感じ? 確かに今までにワキアがベガに甘えている様子は病院でもよく見てきたけど、ちゅーして~は聞いたことなかったよ。
「ワキア。今更恥ずかしがってどうするの」
「だって~私がキス魔みたいに思われたら恥ずかしいよ~」
「でも事実だから諦めなさい」
「そんなー!?」
ワキアがキス魔だなんて初めて知ったけど、でもあまり驚きはない。今更ワキアが「お姉ちゃんの綺麗な鎖骨の窪みにジュースを注いで飲んでみたいよね~」って言っても大して驚かないよ。
……どうして僕はこんなクレイジーな発想が出来てしまったんだ?
ベガは少し不安な部分を細かく練習した後でお手洗いに行ってしまい、部屋には僕とワキアだけ残された。
改めて僕はこの部屋の中を観察する。グランドピアノだけでなくおそらく高級なヴァイオリンがいくつも並べられていて、本棚には楽譜や教本が並べられている。もうここでミニコンサートが開けそうな空間だ。
「ワキアちゃんも七夕祭にピアノを弾くの?」
「まー一応予定ではね。『ネブラリズム』なら何度か弾いたことがあるし私は大丈夫だよ~別にコンクールがあるわけでもないし。
あ、何か聞きたいのある? 何か一曲弾いてくよ」
するとワキアはとことこと歩いてグランドピアノに腰掛ける。
「じゃあ同じくナーリアの『StarDrop』をお願いできるかな?」
「あー、聞いたことあるけど楽譜を見たことないんだよねー。私は耳コピとか出来ないし……まぁちょっとやってみよっかな」
ワキアは曲の出だしの音階を確かめるように何度か鍵盤を叩くと、顔つきを変えて鍵盤の腕で小さな手を踊らせ始めた。
『StarDrop』は歌手としてのナーリアのデビュー曲だ。元々はアイドルグループのメンバーの一人だったけれど事務所と色々と揉めてしまい一時は芸能界を干されかけたけど、その後は独立してシンガーソングライターとしてナーリアは活躍している。
今や曲を出す度に話題に上がっているけれど、やっぱりこの曲も良いものだ……って、ワキアは耳コピできないとか言っていたけれど、普通に弾けてるくない?
やがて演奏を終えると、ワキアは笑顔で口を開いた。
「意外と出来た!」
「出来るんだ……」
ワキアの新たな才能が一つ発見できた所でベガがお手洗いから戻ってきた。時間も丁度いいということで、僕は琴ヶ岡邸で夕食をいただくことになった。
今日の琴ヶ岡邸の夕食はうな重だ。葉室市にある名店からわざわざ板前さんを屋敷に呼んで、焼き立てのうなぎの蒲焼を板前さんが選び抜いたほかほかの白ご飯の上に乗っけられた。
もう箸を持つだけで手が震えるんだけど、本当に僕がこんなところにいていいの? こんなものを毎度食べさせてもらえるなら毎日入り浸るよ僕は。
「んまー」
お上品に箸を進めるベガに対し、ワキアも所作こそちゃんとマナーに則っているけど感想が庶民寄りで凄く助かる。
僕はもうこの貴族の屋敷みたいなダイニングの雰囲気でただでさえ緊張しているのに、メイドさん達が部屋の隅で待機してるのも余計に体が強張ってしまう。ベガとワキアって本当に何者なの。
でも美味しかった。うん、僕にはこれぐらいの感想しかひねり出せないよ。僕みたいな庶民に養殖のうなぎと天然のうなぎの違いなんてわかるわけないじゃないか! お米の品種なんてコシヒカリぐらいしか知らないよ!
夕食後、デザートにと月ノ宮町のお菓子の名店サザンクロスのスイートポテトをいただく。ワキアの好物であるため入院時のお見舞いに貰うことが多く余ってしまうらしい。
このスイートポテトも学生目線だと結構高めなんだけど、さっきのうな重のレベルを考えると霞んでしまう。こんなに値段とか気にしながらご飯を食べたくないよ。
「あ、そういえば烏夜先輩も今度一緒に海に行くんでしょ? ルナちゃんから聞いたよ~」
「うん、迷惑でなければお邪魔させてもらうよ」
「いえ、迷惑だなんてとんでもありません。烏夜先輩の記憶が早く戻るよう手助けしたいですし、やっぱり楽しい思い出も大切ですからねっ」
ファイト!という風にベガが気合を入れて両手をグッと握りしめた。
「でもお姉ちゃん、あまり泳げないじゃん」
「ワキアだって泳げないでしょ!?」
「私は病弱だからいいもーんだ。砂のお城作ってるもーん。それかパラソルの下で烏夜先輩といちゃいちゃしてるもーんだ。
あ、烏夜先輩って泳ぎは得意?」
「得意ってほどじゃないけど、体を動かすのは嫌いじゃないかな。毎年海には泳ぎに……行ってたのか、僕は……?」
「が、頑張って思い出してください!」
どうだろう、今の僕でも運動が嫌いって感情は湧かないから、そつなく出来る方ではあったんだと思う。側に海岸もあるし自然もたくさんあるから、まぁ一年に一回ぐらいは僕も海に行っていたはずだ。
……まぁ女好きの僕のことだから、泳ぎがメインじゃなくてナンパ目的だったんだろうなぁ。
「ちなみに明日、烏夜先輩はご予定などありますか?」
「いや、特にはないね」
「お暇があるなら海岸を散歩に行きませんか? 明日は天気もいいですし、海岸なら涼しいかと思います。その後はノーザンクロスで小休憩も良いですね」
「私、久々に水族館にいきたーい」
「じゃあ海岸を散歩した後、ノザクロでお昼にして、その後水族館に行く?」
「やったー!」
ワキアが無邪気に喜ぶ中、ベガは突然席を立つと僕の方へ歩いてきた。
「ちなみに烏夜先輩」
「どうかしたの?」
ベガは僕の席の側までやって来て足を止めた。いきなりなんだろうと僕は疑問に思っていたけれど──僕の目には、ベガの雰囲気がいつもと違うように見えていた。
「私をナデナデしたいと思ったことはありませんか?」
「え?」
「お、お姉ちゃん?」
何か急に方向性変わってきた。さっきまで夏休みの予定の話をしていたはずじゃん。
「どうですか。私の頭、とても撫で心地が良さそうではないですか?」
「え、うん、まぁ……そうかもしれないね」
「ではどうぞ! 私の頭をナデナデしてください!」
べ、ベガ、一体どうしちゃったの? ワキアが言うのならまだわかるけれど、急にどうしちゃったんだ?
とはいえこうも期待されては何もしないわけにもいかず、言われるがまま僕はベガの頭を撫でる。
「えへ、えへへへ」
ベガが笑っているところは結構見ているはずなのに、こんな無邪気に、いやこんなに幼い子どものように笑っているのは初めて見た。
「え、何……こわ……」
もう妹のワキアが怯えちゃってるよ。これってお医者さんを呼んだ方が良いのだろうか?
僕が若干の焦りと恐怖を感じていると、ワキアは「そうだ!」と何か心当たりがある様子で先程僕達が食べていたスイートポテトが入っていた箱のパッケージを見て、冷や汗をかきながら口を開いた。
「あの、烏夜先輩。このスイートポテト、さつまいもじゃない。ネブラ芋だね」
「それがどうかしたの?」
「私のお姉ちゃん、ネブラ芋がアストルギーなんだよ」
アストルギー……あぁ、確かネブラ人が持つ特有のアレルギーで、地球人のようにアレルギーでアナフィラキシーショックを起こして死に至るような危険性はないけれど、興奮状態に陥ったりちょっと日常生活に支障が出るレベルの症状が出る、しかも何故かネブラ人の女性にだけ起こるという……じゃあ、今のベガはアナフィラキシー、いやアストラシーショックを起こしているということ!?
「えへ、うぇへへへぇ」
こ、これは困ったことになったぞぉ!?
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