叶えられた祈り



 終わりが見えない紅茶コーヒー論争が終わった後、僕に是非見せたいものがあるらしく、スピカとムギに連れられてアストレア邸の二階へと上がり、廊下を進んで一番奥にある部屋へと入った。


 「ここが私のアトリエだよ。朧が入るのは二回目なんだけどね」


 アトリエの中心には白い布がかけられたイーゼルが立っていて、側の机の上には画材が散らばり、さらには日曜大工でもするのかというような工具が置かれた作業台なんかも置かれていた。壁際の本棚には様々な資料が並んでいて、他にも画材や工具がアトリエのスペースを圧迫していた。


 「ムギちゃんは絵を描くのが好きなの? 他にも何か工具が並んでるけど」

 「うん、絵を描くだけじゃなくて何かを作るのも好きなんだ。プラネタリウムとか天体模型とか」

 「ムギは結構アトリエに籠もっていることが多いですからね」

 

 意外と手先が器用なんだ。確かにムギは黙々と作業するのが好きそうだ。

 何だか凄いなぁと僕が思っていると、同じく興味津々という様子のワキアが机の上に置かれていたいくつかの小さなプラネタリウムを見ながら口を開いた。


 「わ~結構本格的なプラネタリウムですね、これ」

 「良かったら好きなの持って帰ってもいいよ」

 「え、良いんですかー!? やった~」


 と、ワキアは嬉しさのあまりムギの体に抱きついた。


 「お、おぅ……」

 

 なんでムギはちょっとキョドって気色悪い感じの反応してるの? さてはあまりこういうの慣れてないんだな。 

 しかしムギは自分に抱きつくワキアの頭に触れて撫で始めると、やがて笑顔を浮かべながら言った。


 「きっと、この子は私の妹だったに違いない……」

 「む、ムギ? 一体何を言っているの?」

 「いや、私はきっとこの子の姉だったんだ。ワキア、今日から私も貴方のお姉ちゃんだから」

 「やった~」


 最初は結構喧嘩してたのに、いつの間にかワキアがムギの妹になってしまった。なんだかんだムギも後輩に甘いタイプなのだろうか。甘え上手なワキアには敵わなかったのかもしれない。

 気を取り直して、僕達はアトリエの中心部に置かれていた白い布がかけられたイーゼルの前へと向かい、ムギが白い布に手をかけて言う。


 「何度か絵を描くのが嫌になったこともあったんだけど……朧のおかげでまた描こうって気持ちになれたんだ。

  だから、私の最高傑作を朧に見せたいんだ……私達の、最高の思い出を」


 ムギが一気に白い布を剥がすと、イーゼルにかけられていた絵画が姿を現した。



 ──朧はさ、短冊に何を書くの?


 ──いつまでハーレムなんて言ってるつもりなの。いい加減一途になったら?


 ──私? 私のお願いはね。


 ──皆がいつまでも、幸せな毎日を送れますように、だよ。


 

 僕の目の前に、遠い記憶として眠っている笑顔の少女が現れたような気がした。

 何度も僕の夢に現れ、記憶喪失の僕に思い出を伝えてくる謎の少女の姿が思い浮かんだのは、彼女の姿がその絵に描かれていたからだ。


 今の季節に見える星々を忠実に描いた満天の星空、そしてその星空を翔ける天の川。やや写実的だけど星々や天の川の幻想的な彩りが誇張されていて、とても人が描いたとは思えない作品だ。


 そんな星空の下、野原に咲く一輪の花。夜空に輝く星々に負けない輝きと、絵画のはずなのに本当に生命が宿っているような不思議な神々しさを持つ花の存在感も際立っているけれど、それがこの作品の主役ではない。


 「乙女……」


 神々しい花の前で、空を見上げて何かを握りしめて祈っている白いワンピース姿の少女。表情こそ笑っているが彼女はどういうわけか涙を流していて、そして彼女の髪の色は紫色だった。

 その時ふと、朽野乙女という名前が思い浮かんだのだ。


 「朧、乙女のこと覚えてる?」


 ムギにそう問われた僕は、黙って頷いた。僕はこの絵の迫力に圧倒されていて中々言葉が出ない。隣に立っているワキアも同じようで、口を開けたまま立ち尽くしていた。


 「最初は迷ってたんだ。乙女のこと、朧に教えるか教えないか。乙女がいなくなった日を境に朧は人が変わったように変になっていたから、私達の前じゃ平気そうに振る舞っていたけど絶対ショックだったんだと思う。

  でも、それだけ朧にとっては大切な人だっただろうから……やっぱり乙女のことを、早く思い出してほしかったんだ。乙女は私達にとっても、とても大切な友達だったから」


 朽野乙女。

 全てではないけれど、ぼんやりと彼女との思い出が蘇る。

 

 ──私はね、君みたいな子を放っておけないんだ。だからね、無理矢理連れ出してやるんだから。


 僕の人生に光を与えてくれた人。


 ──さよなら、朧。


 そして、僕の人生から消えてしまった光。

 彼女は孤独な僕を助けてくれた恩人であり、そして……突然僕の目の前から消えてしまった恩人だ。そんな大切な人のことでさえ、僕は忘れてしまっていたのか。

 するとスピカは控えめな笑顔で口を開いた。


 「私達は八年ぶりに月ノ宮に戻ってきて不安だったんですけど、乙女さんのおかげで朧さんや大星さん達と知り合うことが出来ましたし、色々とありましたが楽しい学校生活を送れています。

  私達も乙女さんがいなくなった当初は気分が沈んでいたのですが……そんな私達を気遣ってくれた朧さんのおかげで、私達は苦難を乗り越えて元気を取り戻せました。それが無意識だったのかはわかりませんが、きっと朧さんは乙女さんの代わりに頑張ろうとしていたのでしょう」


 乙女の願いは皆の幸せだ。途方もない夢のように思えるけれど、乙女はその信念に従って幼い頃の僕を気遣ってくれたし、アストレア姉妹と僕達を繋いでくれた。場を和ませようと自虐的なネタも入れつついつも明るく振る舞っていて……そう、この月ノ宮の町を去る時まで、乙女はその笑顔を保とうとしていたんだ。

 僕達の絆を繋ぐために……。


 「……ありがとう、スピカちゃん、ムギちゃん。乙女のこと、少しは思い出せたよ。この絵は乙女のことを想って描いたの?」

 「あれ? 全部は思い出せてないの?」

 「昔のこととかはぼんやりと思い出せるけど、この絵は初めて見たよ。え、もしかして初めてじゃないってこと?」


 僕は確かに、この絵を見たことをきっかけに自分と朽野乙女という少女の関係性や彼女との思い出を取り戻しつつある。どうして僕が乙女と知り合ったのか、乙女がどういう人間だったのか、乙女がどうして月ノ宮を去ってしまったのか……それに付随したのか、大星や美空達との思い出や自分の家族のことなんかも僕の頭に流れ込んできている。

 でも、僕はこの絵を見た記憶がなかった。それどころか、おそらく乙女と別れてからの記憶自体がなく、僕の世界の時間は六月一日で止まっている。


 「朧さんが事故に遭った日に開催された七夕祭では、七夕をテーマにした絵画のコンクールが開かれていたんですよ。朧さんの助けもあってなんとかムギの絵もコンクールに出展できて、最優秀作品賞も取れたんです。

  あの日、朧さんは私達と一緒にこの絵を見たはずなんですけれど……」

  

 スピカの説明を聞いても、やはり僕にはピンとこない。七夕の日の事故の経緯なんかも聞いたけど、やっぱり事故の影響で思い出せないのだろうか。

 僕がそう思い悩んでいると、ムギの絵に感動して立ち尽くしていたワキアが僕の肩をポンポンと叩きながら言う。


 「まーまー烏夜先輩。一気に色々と思い出しても疲れますよね。

  にしても、噂には聞いてましたけどムギ先輩の絵って凄いですね。これってどこに飾るんですか?」

 「本当は朧にあげたいんだけど、どう?」

 「飾るスペースが無いかなぁ……結構大きいし」

 「じゃあ玄関近くに飾っておくよ、レギナさんの絵の近くに。好きな時に見に来ていいからさ」


 じゃあ僕は琴ヶ岡邸だけじゃなくてアストレア邸にも自由に出入りしていいの? そんな簡単に女の子の家に立ち寄れる程の勇気は持っていないつもりなんだけど、やっぱり以前の僕は平気で女の子の部屋に上がり込んでいたのだろうか。


 ……あれ?

 乙女や大星、美空にレギー先輩、そしてスピカやムギ……皆との思い出は少しずつ取り戻しつつあるのに、どうして僕は僕自身のことがわからないのだろう?



 ムギのアトリエを出ると、僕は廊下を歩きながらスピカからローズダイヤモンドという幻の花について聞いていた。アストレア邸の近くにある花壇に咲いていたローズダイヤモンドの花が咲いて、そこからインスピレーションが浮かんでムギはあの絵を描いたとのことだ。


 「実はもうローズダイヤモンドの花は取ってあって、ハーバリウムにする予定なんです」

 「ハーバリウム……何か水に浸したインテリアっぽいやつのこと?」

 「そうです。正確には水じゃなくてハーバリウムオイルって言うんですけど、押し花より彩りが綺麗かと思いまして。

  でもまずはドライフラワーにする必要があるので、完成までにあと一、二週間ぐらいはかかっちゃうんです。完成したらお見せしますね」

 「うん、楽しみにしとくよ」

 「私も見に来ていいですかー? ローズダイヤモンドのお話ってよく聞くんですけど、実物は見たことなくて」

 「はい、構いませんよ」

 「やったっ、ありがとうございます」


 その後、僕とワキアはアストレア邸を後にした。大分辺りも暗くなってきていたため、僕は近所の琴ヶ岡邸までワキアを送っていく。ついでに寄っていかないかとワキアに誘われたけど、流石に今日は断っておいた。


 

 「烏夜先輩、全部の記憶思い出せたんですか?」

 

 僕の隣をルンルンと歩きながらワキアは笑顔で言う。しかし僕がその質問に中々答えなかったこと、そして僕の不安な心情が顔に出ていたのだろうか、ワキアは僕の腕を掴んで足を止めた。


 「……もしかして、何か嫌な思い出でもあったんですか? 烏夜先輩、すごい震えてるじゃないですか」


 僕はその感情を表に出さないよう振る舞っていたつもりだったけど、どうもワキアには気づかれてしまうようだ。


 「まぁ……僕も色々と経験してきたからね」


 乙女という大切な幼馴染のことを思い出せたのはとても嬉しい。しかし彼女のことを思い出すと同時に、何故僕は彼女と出会い知り合ったのか、そしてどうして乙女はいなくなってしまったのか……まだぼんやりとではあるけれど、引き出しから記憶を取り出す度に僕の体は震えていた。


 「ビッグバン事故のことも思い出したんですか? それとも……乙女先輩との別れも思い出したんですか?」

 「その両方かな」

 「両方、ですか……じゃあ、朽野先生のことも?」

 「そうだね」


 乙女が転校してしまったと同時に、乙女の父親であり月ノ宮学園で世界史教師をしていた朽野先生……そう、秀畝さんも月学を辞めている。

 それは、秀畝さんがビッグバン事故の真犯人かもしれないという疑いがかかっているから、と乙女本人が僕に告げたはずだ。乙女が、僕に別れを告げた日に……。


 以前、ワキアから幼馴染について聞かれた時に僕が大きな不安に襲われたことを思い出す。きっと僕はこんなことまで思い出したくなかったのだろう。

 そんな僕の不安を悟ってか、ワキアは僕の腕をより強く握りしめながら言った。


 「烏夜先輩。私は朽野先生ともお知り合いでしたけど、朽野先生がビッグバン事故の真犯人なわけがないですよ。きっと他に理由があるはずです。

  だから……元気を出してください、烏夜先輩」


 ありがとう。ありがとう、ワキア。

 ワキア自身も色々と大変だろうに、こんなに気遣ってくれるなんて優しい子だ。でも僕は、それ以上に大きな不安にかられていた。


 「……ねぇ、ワキアちゃん。以前の僕って、ナンパが趣味で夢はハーレムを築き上げることだったんでしょ?」

 「はい、そうですね」

 「今、僕は乙女や皆との昔の思い出を取り戻しつつあるんだけど……まだそれが他人事に聞こえるんだ」

 「え? どういうことですか?」

 

 烏夜朧の趣味はナンパ。そして夢はハーレムを築き上げること。きっと女好きだったんだろうなぁと、僕は未だに他人事のように思っている。

 ……自分のことのはずなのに。


 「ワキアちゃん。烏夜朧って、一体どういうキャラだったんだろう?」

 「……へ?」


 烏夜朧として、大星や美空、スピカにムギ、レギー先輩、そして……幼馴染の乙女との思い出がぼんやりと思い浮かぶようになったのに、何故か僕にとってそれは他人事のような感覚でしかなかったのだ。

 それは、多分僕の思い出ではない。

 じゃあ、それは一体誰の記憶なのだろう?


 

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