ワキアのお願い
──ねぇ、アルちゃん。
──私の最後のお願い、聞いてくれない?
──私ね、アルちゃんとの思い出、とっても大好物なんだ。
──だからね、アルちゃんが持ってる私との思い出を食べさせてほしいの。
──だってアルちゃん、とっても美味しそうなんだもん。
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変な夢を見た。
いつもと明らかに様子が異なる、まるで何かに取り憑かれてしまったかのような雰囲気のワキアが金髪の少年を……確か前に僕の病室に来た鷲森アルタという少年を、殺そうとしていた夢だった。
なんて縁起の悪い夢だろう。ワキアがあんなことをするとは思えないのに、いや夢で良かったと思うことにしよう。
さて、僕が目覚めてから一週間以上が経ってしまっているのだけど、一通りの検査の結果も異常はなく僕の記憶が戻らないこと以外は経過も良好であるため、明日には退院できるとのことだった。でも明日って急過ぎやしないか?
そして隣の病室に入院していた(最早僕の病室の住人になっていた)ワキアも病状が安定していて検査も異常無いため、僕と同じく明日退院とのことだった。
というわけで午前中は僕もワキアもちょっとした荷造りに追われていた。
午後になるとワキアは今日も気分転換にピアノを弾いていた。お昼すぎ、談話室にフラッと立ち寄ったワキアのミニコンサートが始まる。
今日はエリック・サティのジュ・トゥ・ヴ……フランス語で「貴方が好き」や「貴方が欲しい」という意味を持つタイトルで、曲名こそパッと思い浮かびにくいけど、必ずどこかで聞いたことのある曲のはずだ。
以前の僕はやはりクラシックに造詣があったのだろうか。ジュ・トゥ・ヴはシャンソンみたいなところはあるけど、どうしてこんな簡単に頭に思い浮かぶのだろう。
ミニコンサートが終わると、入院患者達の温かい拍手を受けてワキアはピアノの前で一礼する。そしてまた僕の病室へと戻ると、ワキアは誰かが持ってきたリンゴの皮を器用に包丁で向きながら言う。
「烏夜先輩はさ、クラシックとかよく聞いてたのかな?」
「さぁ……有名な曲ならわかるかもしれないけど」
「幻想即興曲とか、革命のエチュードとかはわかる?」
「聞けば思い出せるんじゃないかな」
そりゃモーツァルトとかベートーヴェンとか作曲家の名前はいくつか出すことは出来るけれど、作曲家とタイトルとメロディが頭の中で一致しているものなんて両手で数えられる程あるかも怪しいぐらいだ。
勿論聞いたことのある曲はたくさんあるだろうけど、以前の僕が……趣味はナンパ、夢はハーレムを築き上げることと豪語しているクレイジーな奴がクラシックに造詣のある人間だったとは思えない。もしかして女の子を口説くための文句の一つとして勉強していたりしたのだろうか?
「私がピアノを好きだって話はしたっけ?」
「うん。何度か聞いたけどやっぱり惚れ惚れする腕前だよ」
「ありがと。私が病院で弾いてるのって明るい曲調というか、そもそもの曲のテーマが明るいのが多いんだ。子犬のワルツとかエリーゼのためにとかね」
ワキアがさっき弾いていたジュ・トゥ・ヴも曲調は静かだけど愛をテーマにした楽曲だし、病院という環境の中で静かな曲調でも明るいクラシックを選んでいるのだろう。病院の人達だってベートーヴェンの運命を弾かれたら困るかもしれない。
「やっぱりここって病院だからさ、皆を明るい気持ちにさせないとって思ってるんだ。でも私自身は暗い曲調の方が好きなんだよ。リストのラ・カンパネラとか……例えばショパンの革命のエチュードなんかはさ、ショパンの祖国が憂き目に遭っていた時、その怒りをぶつけた曲って言われてるんだけど、私は明るい曲から感じる幸せな感情よりも、そういう暗い曲から感じる怒りとか悲しさの方が受け入れられるというか……この指先にも自然と伝わるんだ、その感覚が」
何それ、僕には全然わかんない。そういうネガティブな感情の方がワキア自身も感情を込めながら弾くことが出来るということだろうか? いつも陽気で明るいワキアなら明るい曲も楽しそうに弾けそうだけど。
──だからね、アルちゃんが持ってる私との思い出を食べさせてほしいの。
……昨日の悪夢が僕の頭にフラッシュバックする。
そうだ。ワキアはいつも僕に親しく接してくれて陽気で明るく振る舞っているけど、病弱で入退院を繰り返していて、友達と触れ合える環境や日常生活にも制限がかかるワキアがネガティブな感情を持っていないわけがない。
「……ワキアちゃんは、バダジェフスカの『乙女の祈り』は弾ける?」
「うん。中々良いの引っ張ってくるね烏夜先輩も」
ポーランド出身で当時は珍しかった女性の作曲家、テクラ・バダジェフスカ。幸せな結婚生活を願う乙女達がこぞって弾いていたというその曲は……何故か僕の頭に色濃く残っていた。
「何だかふと思い出してね……昔の僕が気に入っていたような気がするんだ。僕はピアノを弾けなかった気がするんだけど、どうしてだろう」
今まで何度もワキアがピアノを弾く姿を見たけど僕が弾ける気は全然しないし、僕の病室を訪れた友人達がピアノを弾けるという話は聞いたことがない。
なのにどうしてその曲が頭に残っているのだろうと疑問に思っていると、リンゴの皮を向き終わってウサギリンゴを食べていたワキアが何か閃いたような表情で口を開いた。
「あ、もしかしたら烏夜先輩の思い出に何かあるんじゃない?」
「そうなのかな。あまりメロディも覚えてないんだけど」
「じゃあ今から私が弾いてあげるよ!」
と、ワキアはリンゴが乗った皿をテーブルに置いて嬉々として立ち上がったが──急に胸を手で押さえて咳き込んだ。
「えほ、ゴホッ、ゴホッ……」
ワキアは苦しそうな表情でしゃがみ込んでしまい、僕も慌ててベッドから出てワキアの側に寄り添った。
「ゴホッ、ガホッ、ゴホッ!」
「わ、ワキアちゃん!? な、ナースコールを──」
むせているわけではなさそうだ。初めて見るワキアの苦悶の表情と震える体を見て、これはワキアの身に何か悪いことが起きているのだと僕はそう思ってナースコールを手に取ったのだが──その手を、ワキアにガシッと掴まれた。
「や、やめて、烏夜先輩……!」
「で、でも、明らかに気分が悪そうだよ、ワキアちゃん」
「大丈夫、大丈夫だから……!」
大丈夫だから、とワキアは何度も繰り返し呟いているけど、僕の手を掴むワキアの体は尋常じゃないほど震えているし、ワキアの息も荒くなってきている。
しかしワキアは僕に精一杯の笑顔を向けて口を開いた。
「烏夜先輩……私を、抱きしめてくれませんか?」
「え……え?」
「お願い、します」
僕は戸惑いつつも、ワキアの願いに答えるべく彼女の震える体にそっと触れて、そして抱きしめた。
「もっと、もっと強く抱きしめて」
震えるワキアの小さな体を、さらに力強くギュッと抱きしめた。少しでもワキアの発作が収まるように、彼女の不安を取り除けるように……すると彼女の体の震えが段々と収まっていき、ワキアの呼吸も落ち着き始めていた。
「本当に、看護師さんやお医者さんを呼ばなくて大丈夫?」
僕はワキアの体を抱きしめながら問いかける。段々とワキアの容態は落ち着いてきたけど、どう見ても何かの発作が起きていた。ナースコールはワキアに強く拒絶されたから僕も躊躇ってしまったけど、僕はワキアのことが不安だった。
しかしワキアは僕の服を掴みながら言う。
「先輩……私、明日で退院なんだよ? なのに今日何か起きちゃったら、また伸びちゃうじゃん……」
ワキアも早く日常生活に戻りたいのだろう。夏休みが間近に迫っているけど、それまで残りわずかの学校生活を楽しみたいに違いない。
「お願いだよ、烏夜先輩……私は、平気だから……」
……。
……教えてくれ、烏夜朧。君ならどうする?
ワキアの願いに応えて、今後彼女の容態が急激に悪化する可能性も残しながら今の発作に目をつぶるか?
それとも心を鬼にしてお医者さんにワキアを診てもらうか?
ワキアのためを思うなら、僕は悪人になるしかなかった。
「わかった」
烏夜朧。君も……いや、以前の僕もきっとこう選択しただろうと、僕は信じているよ。
「本当に大丈夫なんだね?」
「こういう発作、たまに起きるけど何ともないよ、本当に」
「……なら、僕はワキアちゃんを信じるよ。君がそう言うなら」
僕は悪い奴だ。もし僕の選択が取り返しのつかない事態を引き起こしたらどう責任を取れば良いだろう?
僕はそんな未来が来ないように、責任を持ってワキアを見守らないといけない。僕は医者でもないから、ワキアの病気は治せないけれど……。
「ありがとね、烏夜先輩」
ワキアの容態は落ち着いたように思えたけど、ワキアも僕の体を力強く抱きしめて離れてくれなかったから僕もそのままでいた。
しかし、僕達は気づいていなかった。この一連の出来事の間に、病室の扉がノックされていたことを──。
「烏夜先輩、いらっしゃいますか──」
僕はワキアに気を取られていて病室の外に注意が向いていなかった。いつの間にか僕の病室を訪れていたらしいベガが心配そうな面持ちでいきなり病室の扉を開き、そしてベッドの側の床の上で抱きしめ合う僕とワキアを見る。
「あ」
ワキアはようやく自分の姉の存在に気づいたが、ベガはそんな彼女を見て目をパチクリさせ──。
「わ、ワキア……!? か、烏夜先輩とそんな関係になってたの……!?」
ベガが変な勘違いを起こした所で、僕とワキアはお互いにお互いの体を離して立ち上がり慌てて取り繕う。
「や、やぁベガちゃん。いやぁこれは違うんだよ、これはね、ちょっとしたコミュニケーションの延長線上で……」
「烏夜先輩……お姉ちゃんにバレちゃったね、私達の秘密の関係……」
ダメだ、僕は頑張って言い訳を考えようとしていたのに、ワキアは何も隠す気がないどころか余計に事態をややこしくしようとしてる。こいつ悪い奴だ、大人しくお医者さんにしょっぴいておけば良かった!
「えぇと、こういうときはどうすればいいんだっけ……あ、そうだ! お赤飯を炊かないと!」
「ベガちゃん、それ多分違う」
「じゃ、じゃあ抜けた歯を屋根の上に投げるんでしたっけ? それとも地面に埋めるんでしたっけ?」
「それも違う!」
予想外の慌て方をするベガを僕とワキアでなんとか落ち着かせ、その後は僕の病室でいつものように三人で談笑していた。
結局僕とワキアが抱きしめあっていた件は有耶無耶になったけど……今、ワキアが僕やベガに見せている笑顔が無理をして作られたものでないことを願いたかった。
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