少しでも、楽しい思い出を
僕が事故に遭って目覚めてから数日が経った。
僕が目覚めた日の後も友人達や知り合いがわざわざ時間を作って訪ねてきては思い出話をしてくれたけれど、芳しい成果は得られていない。
成果らしい成果といえば、僕は八年前に起きたというビッグバン事故、そして僕の『幼馴染』という存在だろうか。その単語を聞く度に僕は何かを思い出そうとするのだけど、どうもすっきりしない。友人達にそのことを聞いてもどうしても僕に何か隠したいのか、それとも気を遣っているのか皆黙りこくってしまう。
「そこだぁっ!」
その時、鋭いスマッシュが僕の横を通過していった。
「ば、ばかな……!?」
ピンポン玉は壁を跳ね返り、僕の足元にコロコロと転がってきていた。
「烏夜先輩、弱すぎ~」
「まだまだだね、若いの。この高みまで登ってくると良い」
「くっそ、強すぎるでしょ……!?」
僕は今、レクリエーションとして同じ病棟に入院しているおじいさんと卓球をしていたのだけど完敗していた。そんな早いスマッシュを打ってくるわけじゃないけど小技に全然対応できない。
「いやー、侮れないね。もっと練習が必要だ」
「じゃあ毎日私と特訓だね、烏夜先輩。私もここで結構卓球してるからまぁまぁ強いよ?」
「お願いします、師匠……」
一応はリハビリも兼ねての軽い運動で、僕も一通りの脳の検査を受けたけど異常はなく、近いうちに退院できるとのことだった。ワキアの病状も良好で、夏休み前には二人共無事に退院できそうである。
まぁ、僕の記憶はまだまだ取り戻せていないけれど……。
レクリエーションを終えて談話室の方へ向かうと、ワキアはその一角に置かれていたピアノの席についた。
そしてワキアによる恒例のミニコンサートが始まる。曲名は……これは、マルティーニの『愛の喜び』か。あまりメジャーとは言えないけど、どうして僕はこの曲名をすっと思い出せたのだろう? まるで以前にも聞いたことがあるような……気のせいだろうか。
この数日、僕の知り合いが多く病室へと訪ねてきたが、やはり同じ病院、しかも隣の病室に入院しているワキアと話している時間の方が圧倒的に長く、色々と彼女のことについて知ることも出来た。
ワキアは幼い頃はピアノを習っていてそれなりの腕前だったけど、八年前のビッグバン事故が原因で謎の病に罹った後は趣味程度にしているとのこと。
実際に聞いていると、とても趣味とは思えない腕前だし、ピアノを弾いているワキアも心なしか楽しそうだ。この談話室でワキアの演奏を聞いている他の患者さん達も心地よさそうにしているし、お世辞抜きにまるで天使が弾いているみたいだ。
ワキアの演奏が終わると、パチパチと自然と拍手が巻き起こる。ワキアは丁寧に椅子から立ち上がって一礼すると僕の方まで笑顔でやって来たが……そんなワキアの元へ、一組の夫婦が近づいていた。
「あの、ワキアさんですか?」
「へ? はい、そうですけど」
ワキアに声をかけたのは三十代ぐらいの若い夫婦だった。ワキアの知り合いではなさそうだし、他の入院患者に面会しに来た家族だろうか。
そんなことを考えていると、お母さんの方が鞄から一枚の写真を取り出した。その写真に映っていたのは、カメラに笑顔を向ける小さな男の子だった。
「この子のこと、覚えてますか?」
「は、はい、ユウト君ですよね。大きな手術を受けるために大きな病院に移ったって聞いてたんですけど……」
するとそのユウトという子の両親らしい夫婦は涙を流し始め、父親の方が口を開いた。
「実は、ユウトは先日亡くなってしまったんです。手術は成功したんですが、術後に容態が急変してしまって……」
僕はそのユウトという少年のことは全く知らないけれど(もしくはその記憶を失っているか)、心が締め付けられるような思いだった。同じ病院の入院患者として親しくていたらしいワキアはもっとショックだったかもしれないが、ワキアは涙を流すことなく、相槌を打ちながら夫婦の話を聞いていた。
「私達はユウトに言伝を頼まれたんです。ワキアというお姉ちゃんに、いつもピアノを聞かせてくれてありがとうって伝えてと」
ワキアもきっとユウトという少年を元気づけようとしてピアノを弾いていたに違いない。しかし不幸にも彼はこの世を去ってしまった。
そんな少年からの遺言を告げられたワキアは、一人で頷いた後夫婦に笑顔を見せて口を開いた。
「わざわざ伝えに来てくださってありがとうございます。お父さんもお母さんもお辛いでしょうに……私の演奏が少しでもユウ君を元気づけることが出来ていたなら、私も嬉しいです」
「貴方のことはユウトからいつも聞いてました。ユウトったら、いつも貴方とのことを楽しそうに話していたんです。ユウトも貴方みたいな素晴らしいお姉さんがいて、とても幸せだったと思います」
「いえ……そんなこと、ないですよ」
ユウト少年のご両親はワキアに深々と頭を下げた後で去っていった。ユウトの死を告げられたワキアは平気そうにしていたが、僕の方へやって来ると僕の腕の袖を掴んでズカズカと廊下を歩き出す。
「ちょ、ちょっと!?」
戸惑う僕をよそにワキアは僕の病室の中に入ると、扉を閉めた途端──僕にいきなり抱きついてきて、そして僕の胸に顔を埋めてきた。
「ちょっとの間、こうさせて」
ワキアはそう言って、黙って僕の胸に顔を埋めていた。突然のことに僕はされるがままという感じだったけど、やはりユウトが亡くなったという件を聞いて平気ではいられなかったのだろう。
一時してワキアは僕の体から離れたけど、いつもの元気を失って顔をうつむかせていた。
「……私、入院してることが多いから、こういうこと結構あるんだ。昨日まで元気だった人が、楽しく話してた人が急にいなくなること……」
その人と親しくしていればしているほど、その悲しみは倍増していく。自分も重い病気に罹っているとしたら恐怖さえ感じるだろう、身近に迫る死というものが。次は自分の番かもしれない、と。
「私はね、私のピアノで少しでも皆が元気になってくれたら、幸せになってくれたらと思ってピアノを弾いてるんだ。
それが少しでもユウ君の力になっていたなら私も嬉しいんだけど……でも、もうあの子がこの世にいないって思うと、何だか……ね」
自分の死が近づいて苦しんでいる中でも、ユウトという少年は自分にピアノを聞かせてくれていたワキアにお礼を伝えようとしてくれていたのだ。誰かの病気を治すことは出来なくても、最期にそんな思い出が残っているのと残っていないのとでは全然違うはずだ。
「ワキアちゃんの病気って、死ぬ可能性もあるの?」
するとワキアは苦笑いを浮かべながら答えた。
「たまにね、すんごい発作が起きるんだ。集中治療室に閉じ込められちゃうぐらいのね。今までにそういうことが何度もあって、何度もお姉ちゃんを心配させちゃった。
何度も死の淵を彷徨う度に、走馬灯みたいにお姉ちゃんやアルちゃんとの思い出が頭をよぎるの。でも、私はもっと楽しい思い出を振り返りながら死にたいな……なんて」
かなり悲壮な夢だけど、原因も治療法もわからない謎の病に罹っているワキアも、いつ最期がやって来るかわからない。なのにこうして今も僕に笑顔を見せて強がっている。
僕は、そんな彼女の手を握った。
「ワキアちゃん。僕もワキアちゃんの思い出づくりに協力するよ。僕が退院した後でも、何か困ったら遠慮なく僕のこと呼んでいいから。しつこいぐらい電話をかけてきてくれたって良いよ。夏休みならなおのことさ。
僕はワキアちゃんに死んでほしくない。ワキアちゃんの病気も治って欲しいと思ってる。でも……思い出はいくらあっても困らないと思うよ。あ、今の僕が言えたことじゃないかもしれないけど」
今の僕は絶賛記憶喪失中で、思い出の何もかもを忘れているところだ。多分走馬灯なんて何も見えやしない。
ワキアは僕の言葉を聞いて鳩が豆鉄砲を食ったような表情だったけど、困ったように笑って口を開いた。
「私、夏休み中にまた入院するかもしれないよ? 烏夜先輩と一緒にいられないかもしれないよ?」
「じゃあその時は、僕が毎日病院に通ってあげるから」
「言ったね? 今確かに毎日って言ったね? 破ったら絶対に許さないからね?」
「良いよ、約束だ。破ったら針千本飲むから」
約束だよ、と僕はワキアと指を切って約束を交わした。
僕も今入院生活を送っているけれど、ワキアがずっと側にいて喋ってくれるから全然退屈じゃないし、むしろ楽しいぐらいだ。そんな僕を楽しませてくれているワキアが悲しい最期を迎えるだなんて許せない。
ワキアの病気が治ってくれるのが一番だけど、僕は医者じゃないし……。
約束を交わした後、僕はベッドに腰掛けてワキアは椅子に座って一緒にテレビを見る。するとワキアはアルタが持ってきたカップケーキを食べながら言う。
「なんだか、烏夜先輩みたいなこと言うんだね」
「え? 僕の名前は烏夜朧じゃないの?」
「いや、昔の烏夜先輩って意味。何だかそういうこと言いそうだなぁって……もしかしたらあの烏夜先輩も変なことさえ言わなかれば、今の烏夜先輩とそう変わらないのかもね」
「前の僕は変なこと言ってたの?」
「うん、いつも」
そんなことを言いながら、僕達はまた談笑を始めていた。限られた時間を、少しでも楽しいものに出来るように……少しでも、ワキアの大切な思い出のページが増えるように。
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