アストレア姉妹編㉞ 涙河
六月二十三日、期末考査二日目。
こんなに学校生活を孤独に感じたのは初めてのことだった。
未だにレギナさんにぶん殴られた左の頬がジンジンと痛む。口を動かす度に痛むからちょっとだけ顎関節をやっちゃったかも。いや、あの人のパンチがそんな威力を持っているとは思わなかった。
そしてこの頬の痛み以上に、胸が張り裂けそうな思いだった。
結局、あれからスピカやムギと一言も言葉を交わしていない。俺とスピカとの間に何らかの軋轢が生まれていたことを知っていた大星や美空、そしてレギー先輩には大まかな事情を伝えて、二人のことをよろしく頼むと丸投げだけしておいた。
テストは午前中で終わるため、HRが終わったら俺はそそくさと帰ろうとしたのだが、LIMEでレギー先輩に呼び出されて演劇部の部室へと向かった。俺達の教室がある本校舎から、特別教室や文化部系の部室が連なる特別棟へと移動する。
部室の入口前にレギー先輩は立っていて、俺に気づくと笑顔で迎え入れてくれて部室の中へと通された。テスト期間であるため演劇部自体は休みで、台本や衣装が詰め込まれた段ボール箱が所狭しと積まれている部室の中には、俺とレギー先輩の二人しかいなかった。
「なぁ、一体どういうことなんだ?」
レギー先輩は部室に入って扉を閉めた途端、俺を壁際まで追い詰めて迫ってきた。俺より背は低いはずなのに、その迫力に俺は圧倒されてしまっていた。
「お前から連絡が来た時は驚いたよ。スピカやムギ達からも話は聞いたが……なぁ、本当にお前が……」
俺を見つめるレギー先輩の青い瞳が、嘘であってくれと願っているように見えた。
俺がわざわざ自分でそう伝えたのに、今もレギー先輩は俺のことを信頼してくれている。きっと何か事情があるのだと……しかし、俺は心を鬼にして口を開いた。
「はい。紛れもなく僕の仕業ですよ」
俺がそう答えると、レギー先輩は歯を食いしばって手を振りかぶり、俺をビンタしようとしたが──俺をビンタすることなく、その手を下ろした。
「やってないって、言ってくれよ」
レギー先輩は俺の両肩を掴んで懇願するように言う。俺はレギー先輩の真っ直ぐな瞳を直視できずに、目を逸らして黙っていた。
「なぁ、お願いだから……!」
演じる側、そして観る側として多くの演技を見てきたレギー先輩は、俺が嘘をついていることに気づいているのだろう。
この嘘で、俺はレギー先輩も裏切ることになる。きっと大星や美空とも、今まで築き上げてきた友情を投げ捨てることになるかもしれない。
それでも、スピカとムギと……そして会長のためなら俺はどれだけ悪役になってもいい。エロゲやギャルゲなんかには珍しくないだろう、嫌がらせばかりしてくるいけ好かないキャラというのも。そういうキャラは案外終盤で役に立ったりするのだが……。
「……正直になってくれよ、オレぐらいには」
レギー先輩は俺の肩から手を離して、唇を噛み締めていた。
ただただ心が痛い。だが、俺はこの決断を変えるつもりはない。今更変えたところで、この先にハッピーエンドは待っていない。
でも、俺はレギー先輩のことが心配だ。
「次の舞台の準備は順調ですか?」
俺がそう聞くと、レギー先輩は曇った表情のまま口を開いた。
「……皆頑張ってくれてるよ。機材とか衣装製作にトラブルがあったから、テスト明けに大星達に手伝ってもらう予定なんだ。お前も良ければ来ないか?」
「まぁ、本当に人手が足らなくなったら呼んでください。僕の後輩達を仕向けます」
今後、来月に控えるレギー先輩が監督&主演を務める舞台に関係するトラブルが起きる頃合いなのだが、おそらく大星達に任せていれば解決できるだろう。本来、レギー先輩ルートに烏夜朧は深く干渉するはずがないのだから。
その後、演劇部の部室を出て俺とレギー先輩は傘を差して校門へと向かった。一緒に帰ろうかと誘われたが、俺は用事があるとレギー先輩に伝えて月ノ宮駅方面ではなく反対側の月ノ宮海岸へと足を進めていた。
いつもはサーファーが波に乗っていたり、海岸沿いの遊歩道を歩いている人を見かけるのだが、雨が降る月ノ宮海岸には全く人気がなかった。
俺は雨に湿った砂浜に革靴で足を踏み入れて、海に向かって一歩、また一歩と進んでいく。やがて押し寄せる白波が革靴を濡らすほど海へ近づいたところで俺は立ち止まった。
俺は制服のポケットの中から小さな巾着袋を取り出し、それを開ける。中に入っているのは、乙女が俺に残した金イルカのペンダント。美空やレギー先輩、スピカやムギなどネブスペ2のヒロイン達が持っている、大切な人との絆を結ぶという願掛けのアイテムだ。
俺はそれを右手で力強く握りしめると大きく振りかぶって、波で帰ってこないように思いっきり海へ放り投げる──が、ペンダントが俺の手から離れることはなかった。
「ちくしょおおおおおおっー!」
傘を砂浜に放り投げて、雨に打たれながら俺は海に向かって叫んだ。そして砂浜に膝をついて、雨と波に濡れる砂浜を何度も、何度も、金イルカのペンダントを掴んだ右手で叩いた。
「俺は、一体どうしたいんだよ……!」
俺は前世でネブスペ2をプレイしていたという記憶を持っている。それが大きなアドバンテージとなるはずだったのに、エロゲの世界に転生できたと浮かれていたら、作中で起きないイベントばかり遭遇している。
俺だけが不幸になるならまだ良い。レギー先輩のイベントは何とか解決できたが、スピカとムギルートのイベントはどんどん悪い方向へ突き進んでいる。
エレオノラ・シャルロワという、本来は第一部であまり登場しないキャラの介入によって。
「くそっ、くそぉっ……!」
俺は、あえてスピカとムギと決別することを選んだ。それは結果的に大星や美空、レギー先輩達とも距離を置くことになる。例えヒロインの誰かと結ばれない運命にあったとしても、彼らの側にいることができるだけで俺は幸せだったのに。
この世界の歯車が狂ったのは俺のせいだ。ならば、この世界の障害となる俺が彼女達から離れたら自然と世界は収束するかもしれない。だから俺は、わざわざ自分が敵となるよう仕向けたのだ。
「全員を幸せにするためには、一体どうしたら良いんだ……!」
ネブスペ2の登場人物全員を幸せにしたいという願いは欲張り過ぎだろうか。しかしその目標を達成できないなら、俺が前世の記憶を持って転生した意味はなんだと言うのか。
俺がスピカやムギと決別しない方法は簡単だった。ローズダイヤモンドの件もムギの絵の件も、エレオノラ・シャルロワがやったと言えば良いだけだ。彼女達にとってはとても信じられない話かもしれないが、それが事実。
しかし、それは会長がヒロインとして登場する第三部のストーリーに尾を引くことになるだろう。本来、これらのイベントに会長は全く関係がないのだ。作中では全てスピカやムギへの嫌がらせをしていた連中の仕業だったのだから。
砂浜に膝をつき、湿った砂を握りしめる俺の手に波が打ち付ける。俺は海水に濡れた金イルカのペンダントを見た。
「乙女……お前さえ、いてくれたら」
俺達にとって、朽野乙女という存在は大きすぎた。
この事態を解決するために、彼女の力が欲しい。スピカやムギを元気づけてやって欲しい。会えなくてもいいから、せめて電話だけでも……俺はまた乙女の番号に電話をかけてみたが、やはり出ることはなかった。
俺は雨の中、とぼとぼと一人で家へと戻る。下を向きすぎていたからか迫ってくる電柱に気づかずに勢いよく衝突してしまい、傘の骨が折れてしまったため傘を閉じてずぶ濡れになりながら歩いていた。
日が沈んで辺りがすっかり暗くなり、俺が居候しているマンションが近づいてきた頃、俺は小さな児童公園の前を通りがかった。
遊具はブランコやシーソーぐらいしかないが、その公園を見て俺はどこか懐かしい気分になった。
『朧、一緒に遊ぼっ!』
そこは、かつて烏夜朧が幼い頃に乙女と一緒に遊んでいた場所だ。元々ご近所同士だったのだが、八年前のビッグバン事件で俺が望さんに引き取られた後も、乙女は家から離れたこの場所までわざわざやって来て俺と遊んでいた。
俺はそんな思い出に感傷的になりながら、雨に濡れたベンチに腰掛けて空を見上げる。
今も雨粒は容赦なく俺の顔に打ち付けてくる。星空なんて見えるわけもなく、空は暗い雲に覆われてしまっていた。
『──こんなところで、どうして泣いてるの?』
そういえば、あの時もこんな雨が降っていた。ベンチに一人、僕は傘も差さずにうずくまって泣いていた。
『なんでもないよ。僕は大丈夫だから』
いつものように、僕は強がってみせた。
『本当に大丈夫な人はね、こんな雨の中ずぶ濡れになりながら空を見上げたりしないよ』
長靴を履いて、子ども向けアニメに出てくるアイドルがプリントされた派手やかな服を着た紫の髪色の少女が、泣いている僕を傘の中に入れる。
『放っといてよ』
せっかく向けられた彼女の優しさを僕は歓迎しなかった。でも、そんな僕に彼女は天使のように微笑んだ。
『私はね、君みたいな子を放っておけないんだ。だからね、無理矢理連れ出してやるんだから──』
両親から虐待されていた烏夜朧を助けてくれた少女、朽野乙女はもういない。もう、僕を──俺を助けてくれることはない。
「くそぉっ、なんでこんなことに……!」
自然と俺の目から涙が溢れ始め、視線を地面へと向けた。すぐそこにある家に帰る元気すら失ってうつむいて泣いていると──雨音に紛れた足音が微かに聞こえてきて、うつむく俺の視界に誰かの足が映り込んだ。
「──こんなとこで何してんだよ、朧」
俺は彼女の声を聞いてハッとして、ゆっくりと目の前に佇む人物を見上げる。
「レギー、先輩……」
黒のTシャツにワイドパンツといういつものスタイルで、レギー先輩は黒い傘を差して俺にニカッと笑っていた。
「大丈夫か? 一体どんだけ雨に濡れてたんだよお前、ビショビショじゃねーか」
そう言ってレギー先輩は俺を傘の中に入れた。しかし俺はレギー先輩から顔を背けて、再び地面に視線を戻す。
「……大丈夫ですよ。雨に打たれたかった気分だったので」
俺がぶっきらぼうにそう答えると、レギー先輩はしゃがんで俺の手を握る。すっかり冷えた俺の手が、優しい温もりに包まれた。
「本当に、大丈夫なのか?」
俺は「はい」と小さな声で答えた。するとレギー先輩は俺の顎を掴むと、無理矢理視線を上げさせて先輩の方へ向けさせられた。
「本当か?」
レギー先輩は優しい目をしていた。まるであの時──孤独だった俺を救ってくれた乙女と同じような、慈愛に満ち溢れた瞳だった。
俺がレギー先輩の問いに答えられずにいると、先輩は優しく微笑んで口を開く。
「本当に大丈夫な奴はな、雨の中傘も差さずに泣いたりしないんだよ」
俺は自分の涙を雨でごまかせると思っていたが、レギー先輩の目はごまかせなかったようだ。
「この前、オレは誰かさんにそう教わったはずなんだけどな」
梨亜の母親との一件後、雨に打たれて泣いていたレギー先輩を家の中に入れた時に、俺は確かにそう言った。今はまさに、その時とは逆の状況だった。
「朧。オレがそんな奴を放っておけると思うか?」
「……いいえ」
「だろ? ほら、お前の家はすぐそこなんだから帰るぞ」
俺はレギー先輩に手を引っ張られてベンチから立ち上がる。その時俺は少しふらついて倒れかけたが、レギー先輩に体を支えられ、そして抱きしめられた。
「……安心するだろ? オレは、お前にこうされてとても嬉しかったんだ」
体格差はあれど、レギー先輩は子どもをあやすように俺の背中をポンポンと叩いていた。
「レギー、先輩……!」
俺はレギー先輩に抱きしめられながら、さらに涙を流し続けた。みっともない姿を見せたくなかったが……俺はレギー先輩の優しさに、抗うことが出来なかった。
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