四章【風吹き薫る黄昏】

一節〈彼方の落陽に願いを込めて〉

 それは、この世界が壊れる・・・前のこと。

 まだ、物語せかいが終わっていない時の話。


 とある森の中、少女が一人歩いていた。

 宵闇色の外套ローブを身に纏い、細身の剣を佩いている。

 小柄で華奢な彼女は、月も無い真夜中に一人で出歩いて良いようには見えなかった。


 外套ローブでほぼ全身が隠れていると言っても、背丈は誤魔化せない。

 恐らく、齢は十ほど。

 まだ大人の庇護下にあるべき『子ども』である。


 しかし、どこにも人影はない。


 少女は小枝の如き手足を動かし続け、森を歩む。

 人の住む街から、誰も居ない森の深くまで。

 まるで、何かから逃げているように。


 微かな息遣いだけが鼓膜を震わせる。

 今日は風が無い。

 動物も植物も、皆がみんな寝静まっているよう。

 だからこそ、己が独りであることが否が応でも認識させられる。


 二度、三度瞬きをした。

 既に闇夜に慣れた視界は、不鮮明ながらも景色を映している。

 人の手一つも入っていない獣道。

 僅かな星月の光さえ遮ってしまう木々。

 豊かな大自然だ。


 こくり、と喉を鳴らす。

 己の武器は常に柄に手を掛けて、いつでも抜剣出来るようにしている。

 人や獣の気配が無くとも、周囲への警戒に抜かりはない。

 襲われたとしても、返り討ちに出来る自信だってある。

 怠慢も油断もせず、異常もなし。


 安心して良い状況だ。

 少しは心を休めても良い状況だ。


 それでも、少女は不安で仕方がなかった。

 『今にも自分は殺されてしまうのではないか』、と。


 脳裏に過るのは、四肢と頭部が切り離された遺体。

 ただ一人、己に優しくしてくれた使用人の亡骸。



 ────《悪魔憑き》に与する愚かな背教者を、粛清・・してやったのだ!



 少女を甚振り続けてきた兄のような何かが、記憶の中で叫んでいる。

 華美な装飾の直剣から血を滴らせながら、態々わざわざ牢まで亡骸を運んできたあの男。

 血が繋がっているとは到底思えない非道振りは、世界にとっては『当たり前』であった。


 《悪魔憑き》。

 唯一神を崇める《天聖教会》の教えにおいて、忌むべき存在。

 人並外れた力を持ち、暴虐の限りを尽くすことが約束された厄災の種。


 身体のどこかに刻まれた《悪魔の刻印》。

 少女のものは、右手の甲から上腕に掛けて刻まれていた。

 

 この世に生まれ落ち、様々な形状の幾何学模様であるそれを認識された途端、彼らは『人』ではなくなる。

 神に仇なす叛逆者として、処刑される運命にあるのだ。


 処刑と言っても、系の内容は斬首だけではない。

 拷問や禁錮、労働、実験台というときもある。

 

 悪魔憑きは総じて肉体が優秀であるため、簡単には壊れない。

 かつ『人』でないから、精神を病んでも無理矢理働かせることが出来る。

 《魔術》を使えば、意志に反した行動の強制など造作もない。


 また、例え貴族の子どもとして生まれても、悪魔憑きであれば奴隷以下の身分として扱われていた。

 都合が良いことに、悪魔憑きを産んでも罰されることはない。

 本来生まれてくる子の魂を奪い、身体を乗っ取っていると考えられているからだ。

 更に、一度奪われてしまった身体は、もう二度と元に戻ることはないとも考えられている。


 上位身分にとって、これほど都合の良い存在は居ないだろう。

 用途の多い、人型の生物。

 どう扱っても良い、ただのお人形。


 けれど、極偶に。

 そんな彼らを『人』として扱ってしまう、優しい人がいる。

 見つけられたら罰されてしまうのに。

 殺されてしまうと分かっているはずなのに。


 それでも彼らは、悪魔憑きを助けてしまう。

 


 ────何者であっても、貴方は私の敬うべき主なのです。



 檻の隙間から差し伸べられた手。

 床に置かれた手持ち燭台が、地下牢を仄かに照らす。

 曖昧な輪郭だが、確かにそれは在ったのだ。


 だから、取ってしまった。

 定められた運命から目を逸らし、ありもしない希望に縋ってしまった。


 今も後悔している。

 あの時、自分が手を取らなければ。

 救われたいと思わなければ。

 彼女が死ぬことはなかったというのに。


 悔しくて、悲しくて、情けなくて。

 少女は蒼い瞳から涙を零した。

 宛ら、天気雨のように。


 しかし、足を止めることは出来ない。

 足を止めてしまえば、追い付かれる。

 それは、彼女の死を無駄にすることになってしまうのだ。


 少女は、兄であるはずの男を殺した。

 いつものように己を陵辱しようと牢の中に入り込んで来たところを、隠していた短剣で首を刺して。


 元々、近い未来に脱出する計画を立てていたのだ。

 彼女と共に、教会の影響下にない地域まで逃げ延びようと。


 だが、彼女が兄に殺されたことで計画の実行が早まってしまった。

 早まらせなければいけなかった。


 あの男の性格の悪さのお陰で急行が可能であったが、彼でなければ調査が入っていたはずだ。

 隠していた道具が見つかり、芋蔓式に計画も露呈する。

 そうなってしまえば、二度と脱出することは出来ない。

 急遽の実行は、仕方のないことだった。


 そうして、少女は計画を進めることになる。

 夜中であることが功を奏したのか、屋敷から抜け出すのは腑抜けるほど簡単だった。

 見張りは居眠りしており、見掛け倒しの穴開き壁は苦もなく通り抜けられる。


 寝静まった街。

 屋敷は街の中心にあったため、外に出るにはどうしても街中を通る必要がある。

 衛兵も巡回しているため、屋敷の外とは比べ物にならない難易度だ。


 けれど、少女には彼女が遺した『武器』がある。

 巡回の経路、時間割当。

 街の形状に、壁が崩れている箇所。

 それらを活用すれば、難しくとも不可能ではなかった。


 人の居ない裏道を抜け、崩れた壁を乗り越え。

 やっと、少女は一人外に出られた。 

 ここまで来れば、あとは街から離れるだけ。


 しかし、問題がある。

 兄が殺されたことを察知した者が、少女に追手を向かわせることだ。

 もしかしたら、もう気付いて向かわせているかもしれない。


 屋敷の者は、少女が居なければ不都合が起こる。

 彼らの研究には、少女に宿る膨大な《魔力》が必要だ。

 その辺りの者では代用できないほど、少女は希少で有用な存在だった。


 それに加え、悪魔憑きを逃したということで教会から圧力が掛かる。

 少女を捕縛できなければ、彼らも処刑される定めにあるだろう。


 だからこそ、彼らは必ず追ってくる。

 その前に、遥か遠くへ離れなければいけない。


 だが、少女はまだ幼い子どもだ。

 休み無しに長い距離を歩くことは出来ない。


 重ねて、その身体は脆弱だ。

 生まれてこの方、ずっと監禁されていた。

 運動をしたこともなければ、まともに歩いたこともない。


 つまり、少女はもう限界だった。

 

 本来ならば取るに足らないであろう小石に躓き、勢い良く転がる。

 


 ────……まだ、まだ足りないのに。



 遠くなっていく意識を何とか引き止め、起き上がろうとする。

 ここで止まってしまえば、追い付かれてしまう。

 追い付かれて、捕まって、あの地下牢に逆戻り。

 それだけは、絶対に嫌だった。


 なのに、身体が動かない。

 糸が切れたように、指先すらも動かない。


 目蓋が降りてくる。

 視界がぼやけていく。


 歩かなければ、逃げなければ、離れなければ。

 意志に反して、意識は暗闇に落ちていく。


 ああ、こんなところで終わってしまうのだろうか。

 声に出せない嘆きを胸に、少女は目を閉じた。

 


 ────誰か、救けて。



 刹那、風が吹いた。


 ぱっ、と目を見開く。

 突然吹いた風、聞こえた声。

 全てが眠るこの宵闇に、風が吹くはずがない。

 声が聞こえるはずがない。

 不可解な現象を解明しようと身体を起こし、そして驚愕した。


 黄昏だった・・・・・のだ。

 森でもなく、暗闇でもなく。

 ただ広がる小麦畑と黄昏の空。


 夢の世界なのだろうか。

 いや、しかし。

 それにしては感覚がはっきりしすぎている。

 

 疲れ切った身体に鞭を振るって、どうにか立ち上がった。

 どこまでも続く小麦畑。

 彼方には沈み行く太陽が見える。

 眩しさに目を細めた。


 あまり、見続けるのは良くない。

 少女は顔を背ける。

 まるで、初めからそこに存在しているかのような。

 時が止まっているような太陽から。


 さて、本当にここはどこなのだろう。

 改めて見回してみても、足掛かりとなるようなものは何もない。

 穏やかな風が吹くばかりで、己以外の声は何一つ聞こえなかった。


 どうしたものかと呆然としていると、突風が少女を襲う。

 思わず体制を崩し、後ろに倒れ込んでしまった。


 いったい何故、強風が吹いたのだろう。

 その疑問は、直ぐ解消される。


 得たいの知れない気配を感じ、少女は振り向いた。

 人でも、動物でもない異様さ。

 この世界に在ってはいけない何か。

 予想は、当たっていた。

 

 それは、漆黒だった。

 落陽に照らされているはずなのに、光を一切反射していない。

 全てを吸い込むような黒。


 少女は気を張り詰める。

 あれは、危険だ。

 己を害するものだ。

 本能が警鐘を鳴らし続けていた。


 細剣を引き抜く。

 力のない少女でも扱えるように、と拵えたものだ。


 短剣は基本、直接戦闘に向かない。

 暗器や解体道具としての用途が殆どである。

 刃渡りリーチと重量を考えれば、細剣以外の選択肢はなかった。


 切先を怪物に向ける。

 戦闘経験なんてこれっぽっちもない。

 全て勘だ。

 それらしい構えをしているに過ぎなかった。

 

 それでも、戦わなければいけない。

 少女の身体で逃げ切れるとは思わないし、この世界に逃げる場所があるとも思えないからだ。

 追い付かれて死ぬくらいなら、精々足掻いてから死んだ方が良い。

 殺せるなら、それが一番だ。


 じっ、と怪物を見据える。

 未だにあれは動いていない。

 ただそこで蠢くばかりだ。


 何かがおかしい。

 そう思って、少女は観察をする。


 確かに怪物は少女に敵意を向けている。

 喰い殺さんという殺意が、痛いくらいに突き刺さっていた。

 

 けれど、それとは別の想いがあるように見える。

 敵意を、殺意を抑えているような、そんな想いだ。

 

 蠢く黒の端から端を眺めた。

 どこからどう見ても怪物。


 だが、その一端に。

 一瞬だけ、黄昏色の瞳が見えた気がした。



 ────……まさか。


 少女は走り出す。

 予想が正しければ、見間違えでなければ。

 あの怪物の中に、誰かが取り込まれている。

 

 恐らくそれは、この世界の主。

 彼、もしくは彼女が少女を呼んだのだろう。

 『誰か、救けて』と。


 ならば、どう救ければいいか。

 怪物から引き剥がし、怪物のみを排除することが必要なはずだ。

 まとめて細剣で貫いてしまえば、中にいる者ごと傷付けてしまう可能性がある。

 それだけは避けなければいけない。


 次は、どう引き剥がすか。

 ここには道具も無ければ、少女以外の人も居ない。

 頼れるのは、己の肉体のみ。

 つまり、手を突っ込んで引っ張り上げるしかないだろう。

 どう考えても触れたらいけないものだが、そうするしかなかった。


 そして、引っ張り上げて引き剥がしたならば、怪物を即座に殺す。

 滅多刺しにすれば殺せるだろう、多分。

 殺せなかったら殺せなかったときに改めて考えよう。

 今は、一刻も早く救い出さなければいけないのだから。


 怪物に近付いた少女は、意を決してその肉体に手を差し込んだ。

 流動する軟体のようなそれは、果てしなく気持ち悪い。

 

 また、少女が手を差し入れたと同時に崩れ落ちていく。

 腐り落ちる木のようだ。


 

 ────見つけた!



 理解の及ばない中、やっとの思いで少女はそれを握った。

 子鹿のように震える足に精一杯力を込めて、引き摺りだす。

 一歩、二歩。

 三歩、四歩と後退し続け、怪物の身体が完全に崩れ落ちたと同時にそれは引っ張り上げられた。


 怪物の残骸に濡れながらも、輝きを宿す麦穂色の金髪。

 信じられないとでも言うように見開かれた、黄昏色の瞳。

 少女より年上であろう女性。

 怪物から生まれるように救われた彼女は、掠れた声で言葉を紡ぐ。



 ────……貴方は、誰?



 問い掛ける女性。

 彼女の顔に掛かった残骸と髪を払いながら、少女は自分の名を告げた。



 ────私は、■■■■■。

 貴方に呼ばれてここにやって来た。



 落陽が映り込んだ天青色は、酷く美しかった。

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