十九節〈君との愛、君との幸福〉

 そこは、一面青が広がる瑠璃唐草ネモフィラの花畑。快晴の空も相まって、視界全てが青色に染まっていた。


 

 ────ねえ、■! 見て、凄い綺麗!



 風が春の匂いを運ぶ。

 ひらりとスカートを靡かせ、■■は道を軽く駆け出した。



 ────確かに、とても綺麗だ。でも、走ると危ないよ。



 ■がそう注意すると、振り返った■■は頬を膨らませる。



 ────分かってます!

 ■こそ、お花に気を取られ過ぎて転ばないようにね!



 花より、君の方が綺麗だよ。

 なんて言おうとした口を閉じて、■はゆっくり■■を追う。

 彼女の笑顔を見られただけでも、少し遠出をしたかいがあるものだ。


 二人が訪れたのは、とある国営の海浜公園。

 緩く緩急の付いた丘に広がる花畑は、国内有数のネモフィラの名所であった。


 春休みの時期であるのも相まって、平日の午前だというのに、かなりの人が訪れている。

 休日の正午あたりは、想像を絶する人だかりになっているに違いない。



 ────行くなら早めに行っておけ。丁度誕生日なんだろう?

 お前たちのバカップル生活を終わらせてこい。



 そう言って予定を合わせてくれた雇い主に、■は再三の感謝をした。

 お土産を期待していると言われてしまったので、その辺りの売店で何かを買っていかなければ。


 学生ながらも企業を経営する、かの御曹司は忙しい。

 猫の手も借りたいほどだろうに、身内には馬鹿みたいに優しいのだ。


 横暴で傲慢だけれど、有能で優しい皇帝様。

 反逆を起こす気は、■には無かった。

 今は、という補足が入ってしまうけれど。


 偶に入るデスマーチは、そんな彼を殴り飛ばしたいくらいに辛い。

 アルバイト、つまり正規雇用でない段階でこれなのだから、数年後が思いやられる。


 少人数による経営という仕方ない点はあるが、それにしてもアルバイトにやらせる業務ではないものまでやらせるのはどうなのだろうか。

 『どうせうちに就職するんだ、問題はない』と彼は言うが、問題がないのなら背後にいた秘書の不服そうな顔は何なのだ。

 彼のことだから、反対する彼女を強引に捻じ伏せて納得させた、なんてことだろうが。


 ■は首を振る。

 出先に来てまで仕事を考えてやるものか。


 上着のポケットに手を入れる。

 そこには小さな箱が入っていた。

 中身は、ダイヤモンドが嵌め込まれた指輪。


 そうだ。

 ■は今日、この花畑で────■■に、婚約を申し込む。


 付き合い始めてから、早二年三ヶ月八日。

 互いに成人を迎えた────■は本日で二十歳────ばかりであるし、まだ時間はある。

 つい数か月前まで、■は呑気にそう思っていた。


 しかし、聞いてしまったのだ。

 友人と飲みに行き、泥酔してしまった彼女を介抱していた時。

 ■■の本音を、心からの願いを。



 ────■はさあ……いつ『結婚して』って言ってくれるのお……?

 私もう待ちくたびれちゃったよお……。



 呂律の回らない口で、確かにそう言った。

 驚き過ぎて一瞬宇宙にまで精神が飛んでいってしまったが、一言一句聞き届けていたのだ。


 ■■は基本、泥酔しているときの記憶は憶えていない。

 だから、この言葉を明日憶えているわけがない。


 けれど、けれども。

 ■は知ってしまったのだ。

 己が求婚することを待たれているのだ、と。


 当時、■は酷く混乱していた。

 泥酔した彼女が、無防備に自分に抱き着いていて。

 更に、先程の発言。

 混乱しない方が難しい。


 理性を保ったまま狂った■は、助言を貰うことにした。

 現在時刻も考えずに。

 

 スマートフォンの電源を付け、電話帳から選択したのは邪智暴虐の御曹司。

 彼なら間違ったことは言うまい。


 何回かのコール音の後、彼の声が聞こえた。



 ────今何時だと思ってやがる、十二時過ぎだぞ。日付越えているんだが。



 至極当然の文句を言う御曹司。

 だが、そんなことを気にしている暇はない。

 ■は、早急にこの問題を解決しなければいけなかった。



 ────■■さん。■■に『早くプロポーズして』って言われたんですけど、どうしたらいいと思いますか?



 電話越しに分かるほど、とても大きな溜息が聞こえた。

 そして、机か何かに拳を叩き付ける音と共に、彼は叫んだ。



 ────俺が知るわけないだろ、一回寝て冷静になれ!



 そのまま、ぶちっと通話は切られる。

 怒りながらも、今の■に適切なアドバイスをするところは流石といったところか。


 彼の言う通り一度■■と共に寝て、彼女よりも先に起きてから、■はまた改めて思考した。


 プロポーズをするべきなのか、と。


 ■は、■■を愛していた。

 彼女の家族にも負けないほど。

 いや、それ以上に。


 しかし、それとは別に不安だったのだ。

 自分は彼女を幸せに出来るのか、と。


 ■は、決して償い切れない罪を背負っている。

 忘れることは赦されず、生涯を掛けて償うことが約束されている。



 ────それでも、私は君が好きだよ。



 鮮明に憶えている。

 あの月明かりの下で、自分の全てを受け入れると言った■■の姿。

 とても美しくて、とても愛おしかった。 


 金色の髪を撫でる。

 眠ったままの彼女は、少し嬉しそうに微笑んだ。


 

 ────……悩む必要は、ないか。



 そして、■は決意したのだ。

 来る四月一日。

 己が二十歳を迎える日に、■■に結婚を申し込むと。


 そこからの行動は迅速だった。

 それとなく彼女の指の幅を測ったり、友人たちの協力の元指輪を選んだり。

 雰囲気の出る場所を迷いに迷って、やっとのことで探し当てたり。


 そうして、約二か月後。

 今に至るというわけだった。



 ────■、早くこっち来てよ!



 十メートルほどだろうか。

 先行していた■■が、ある場所で立ち止まっていた。

 どうしたのだろうと小走りで追い付くと、彼女は道端に座り込んだ。



 ────これ、凄い綺麗。白いネモフィラなんてあるんだ。



 そう言って指し示したのは、青の中に咲く一輪の白。

 よく見なければ分からないほど紛れているが、確かにそこに存在していた。


 

 ────よく見つけたね。



 ■は■■を褒める。

 自分なら絶対に見逃していただろうから。

 

 胸を張って誇る彼女。

 こういう少し子どもっぽいところが、何とも可愛らしいのだ。

 褒美に撫でろ、という■■の頭を優しく撫でた。


 白いネモフィラを通り過ぎ、二人は並んで先に進む。

 ■は談笑の途中に、彼女に頼み込んだ。



 ────……ねえ■■、手を繋がない……?



 それを聞いた■■は、くすっと笑う。



 ────そういうのは、訊かないで自然にやるものでしょ?

 ……仕方ないんだから。



 呆れながら、左手を差し出す彼女。

 手を握った。

 ■の指と■■の指が絡まり合う。

 互いの熱が伝わっていく。

 何度もしたことがあるというのに、今日はいつもより気恥ずかしかった。


 そうして二人は、一番高い丘を目指して登っていく。

 そこは広場となっていて、海を一望することが出来た。


 大きく息を吸って、大きく息を吐いて。

 潮の匂い、花の匂い、春の匂い。

 混ざり合っているのに、不快にならないその香りは、■の精神を落ち着けさせた。


 さあ、ここからは一世一代の大勝負。

 失敗は赦されない。

 高鳴る鼓動を抑えて、■は穏やかに語り始める。



 ────……四年くらい前、君と初めて会った時のこと。僕はまだ、はっきり憶えている。



 あまり良くない出会い方だった。

 イギリスから一人で留学に来て、下宿先を探していたところ。

 柄の悪い輩にナンパされていた。

 

 でも、彼女は強かった。

 辿々しい日本語で、けれど確かに強い意志で彼らに刃向かったのだ。


 ただ、運が悪いことにその輩は短気で、逆らう■■を強引に連れて行こうとする。

 ■が介入したのが、その時だった。

 『僕の彼女です』なんて見え見えの嘘を吐いて、見知らぬ少女の手を取って走り逃げる。

  トラブルに巻き込まれることは多く、慣れていたから、自分でも鮮やかな手口だったとは思う。


 そうして助け出して、改めて少女を見た瞬間。

 『なんて綺麗なんだろう』と見惚れた。


 夜明けの太陽のような淡い金色の髪。

 珍しい紫色の瞳。


 絵本のお姫様がそのまま飛び出して来たかのような少女に、■は有り体に言えば────『一目惚れ』してしまったのだ。


 そんな心情を悟られないように隠して、お礼がしたいと言う彼女から逃げるように立ち去った。

 まあ、その後自分が通う高校の交換留学生だったと判明するのだが。


 そして、そこから一年と半年以上の月日が経ち。

 十二月二十四日、クリスマスイヴ。

 ■とって、呪いの日でもある救世主の生誕祭。

 

 ■は、■■に告白した。

 イルミネーションの光を反射して輝く彼女の涙は、宝石よりも美しかった。


 二年三ヶ月八日。

 長くも短いその月日を経て、今日。

 ■は、一歩を踏み出す。


 ■■の足元に跪く。

 ポケットから取り出すのは、小さな箱。

 それを大切に両手で包み込み、開いた。



 ────僕と、結婚してください。



 一文字一文字に想いを込めて。

 ■は、愛を伝えた。

 

 途端、■■が崩れ落ちる。

 その身体が地面に倒れ込む前に、抱き留めた。



 ────……嬉し過ぎて、腰抜けちゃった。



 申し訳無さそうに呟く彼女。

 軽く細い身体を支えながら、何とか二人で立ち上がる。


 海と空、ネモフィラを見ながら、箱から指輪を取り出す。

 それは、銀の輪に青いダイヤモンドが嵌め込まれていた。


 ■■の靭やかな指に、そっと通す。

 隙間もなく綺麗に嵌る指輪。

 採寸はぴったりのようであった。



 ────……返事、まだだったよね。

 決まっているんだけど、ね。



 泣きそうになりながら話す彼女の肩を抱いて、返答を待つ。

 どんな答えが来るか分かっていても、緊張してしまう。

 数秒、或いは数分。

 静寂の後、その音はしかと耳に届く。

 


 ────はい。



 菫青石アイオライトが見上げていた。


 真正面から抱き締める。

 離さないように、包み込むように。

 彼女の温度がじんわり伝わって来る。


 少しだけ緩めれば、■■は目を閉じて■に顔を向けた。

 そういうこと・・・・・・だろう。

 同じように目を瞑って、互いの息が溶け合う距離まで顔を近付ける。


 そして、躊躇わず重ね合わせた。

 時間はそれなりに長かったと思う。

 愛を確かめるかのように、限界までしたのだから。


 自然に唇が離れる。

 二人とも息は絶え絶えで、頬は紅潮していた。



 ────……もう、真っ赤だよ?



 そう言って頬に触れる■■の手を取って、君もねと返す。

 間抜けなその顔に、同時に笑いが溢れた。


 幸せなんだ、君と共に生きるこの時間が。

 大好きなんだ、君のことが。


 愛と幸福で繋がれた二人。

 蒼穹に浮かぶ月が祝福していた。

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