十八節〈美しき月よ、希え〉
宵闇の帳の中、少女は一人泣き叫んでいた。
もう、この世界に居ない少年の名前を。
愛する人の名を呼びながら。
けれど、声が聞こえることはない。
死んでしまったのだ。消えてしまったのだ。
真っ白な光の粒に変わって。
宛ら、春の訪れと共に溶ける雪のように。
少女はまた、愛する人を喪った。
一度目はここではないどこか。
灰色の建物が建ち並び、神秘の欠片も感じられない平和な世界で。
『私』は『君』を遺して死んでしまった。
喪ったのは『君』の方かもしれないけれど、『私』からすれば『君』を喪ったも同然であったら。
そうして、二度目。
今、この瞬間に。
今度は自分の腕の中で、
正真正銘、愛する人を喪ったのだ。
心にずっと雨が降っている。
あの少年の瞳のような青空は、どこにもない。
少女は、床に広がったままの
少年の生きていた証、生命の象徴。
ふと思い付いて、少女は髪を解いた。
少年から貰った空色の
白い糸で水晶花の刺繍がされている。
少女はそれを、血の海に沈めた。
空色を正反対の緋色で染め上げるように。
青空を一つも残さないように、
両手も、
少年に包まれているようだ。
しかし、そんなことをしても少年が帰ってくることはない。
彼の存在全てが消えてしまったことを再び認識し、また涙が零れた。
滴る雫が手に持つ緋色に落ちる。
雨だ。血濡れた大地に降る雨。
それは恵みであり、慈しみであり、そして哀しみでもあった。
少女は首を掻き毟る。
胸元の飾り結びを解いて、素肌の首を。
ずっと隠していた。
親の言いつけを守っていた。
だから、これはレイフォードもテオドールも知らない。
首から胸元に掛けて刻まれた────聖印のことを。
少女は、祝福保持者であった。
二年前の春の日、神に幸福を願い、与えられた祝福。
しかし、その性質は未だ不明。
何かを創り出すわけでも、何かを操るわけでもなく。
記録上にない、全く新しい祝福であったのだ。
「……ああ神様、聞こえていますか。
何が祝福なのです。何が幸せなのです。
私は喪いました、喪ったのです。
大切な人を、愛する人を」
それは懺悔などではなく、訴えであった。
与えるばかりで救けることのない、神への。
「聞こえているならば、どうか聞き届けてください。
私の願いを、私の想いを」
嘆くように、叫ぶように少女は言葉を紡ぐ。
「彼が再び、この世界に生きられるようにしてください。
彼を、この世界にまた創り出してください。
それさえ叶えば、私は何でも差し出します。
魂も、肉体も、記憶だって!」
少女は希う。
そこに居るはずの神に。
星月のない空、天空の果てに御座す神に。
「私に、彼を救わせてください」
神はいない。
神とは、人の望みにより創られた存在だ。
都合の良いように、零から創り出された概念の一つ。
紛れもない
けれど、長い時。
それこそ、永遠に
それはやがて、
神秘、神の奇跡。
神は人が創り出した存在。
ならば、神の奇跡を人が起こせない道理はない。
己が神に成れば良い。
少女は手を伸ばす。
糸を手繰り寄せるように。
幾つもの不可能の中から、一つの可能を見つけるように。
緋色の指先が糸に触れる。
透明な糸は、徐々に緋色に染まっていく。
それこそ、運命の糸であった。
少女は、それをぐっと掴む。
絶対に手を離さないように。
そして、引き抜いた。
ただ一つの運命を。
刹那、少女の脳裏に記憶が掛け巡る。
それは、『私』の記憶だ。
とある霧の街の、月が綺麗な夜に生まれて、家族と暮らし。
大きくなって、世界一平和な国へと学びに行き。
そこで、運命に出会った。
愛して止まない彼に、『君』に出会ったのだ。
────世界で一番、君を愛している。
ああ、やっと思い出せた。
『私』を、『君』を。
『私』は、■■・■■■■■■。
『君』は、■■■。
あの花畑の中、『君』が笑っていた。
あの桜の下で、『君』が笑っていた。
少女は微笑み、そして決意した。
『私』でなくなることを。
胸の前で手を重ね、祈る。
望むのは、愛する少年の笑顔。
代償は、『私』の記憶。
そして、君の生きた証。
私は、『私』を忘れる。
私は、『君』を忘れる。
その果てにある私は、何者であるのか。
それは、分からない。
もしかしたら、私でなくなっているかもしれない。
でも、それでいいのだ。
それで君が救えるなら、私は何も惜しくはない。
「────《再構》」
それは、一度壊れたものを再び創り直すこと。
時間の遡行ではない。
また、創り出すこと。
本来ならば、再び構築されたそれは元のものとは違う。
声も、形も、全て同じだとしても。
記録上は異なる存在である。
しかし、
贋作ではない、奇跡ならば。
世界の法則にすら、逆らうことが出来る。
だが、ただ『同一存在の複製』をしただけでは彼は存在できない。
何故なら、元の彼は『
御子、神の形代。
本来想定されていない挙動。
それは、『修正』されるに決まっている。
つまり、消失という現象の正体は、世界という名の
そして、
修正された彼を複製しても、
神秘的記録体を読み込んで、再構する。
正しく神の御業。
零から一を生み出す行為。
「────さようなら、『私』」
忘れていく。
あの世界を、『君』を。
でも良いのだ、これで。
私はユフィリアであって、『私』ではない。
君はレイフォードであって、『君』ではない。
これは、過去との決別。
縋りついて来た過去から、未来を創り出すこと。
しかし、過去が無くなるわけではない。
過去は未来に変わるだけ。
ずっと、在り続けるのだ。
それこそ、永遠に。
少女は代償を捧げる。
『私』の記憶と、君の生きた証。
それらは、光の粒子へ分解された。
そして、創り直されていく。
光の粒子が一つに集まり、少年の形になっていく。
魂も、肉体も、過不足なく。
君はそうして、『人』に成った。
『人形』でも、『御子』でも、『形代』でもない。
ただの人に。
壊れた神は堕とされた。
人の手によって。
人の分際で神の御業を、奇跡を起こした者の手によって。
「……お帰りなさい、レイ」
ユフィリアは、レイフォードの身体を抱き締めた。
暖かくて、明るくて、生きている。
その額に口づけをした。
宛も、神の祝福のように。
美しき月よ、希え。然すれば望み、叶うだろう。
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