十節〈澄んだ空と架かる虹は貴方を愛していた〉

 自分は、異端である。

 

 シルヴェスタは、幼い頃からそれを理解していた。

 一を知れば十を学び、十日の努力に一日で追い付く。

 溢れ出るばかりの才能に努力を重ねれば、どんな物事でも可能だったのだ。


 祝福こそ無いけれど、神に与えられた才。

 

 だが、そんな才とは裏腹に対人能力は人並み以下。

 脆弱と言っても過言でなかった。


 知人以外とはまともに会話を続けること、相手の理解も出来ず。

 歳と見合わない強大な力を恐れられ。

 更に、表情も基本変わらないものだから、周囲は気味悪がって、或いは嫌気が差してシルヴェスタから離れていく。


 だからこそ、シルヴェスタはいつも独りぼっちであった。

 自分が悪いと分かっているから、周りに訴えられない。

 直そうと思っても、改善するどころか改悪にしかならない。


 シルヴェスタは膝を抱えた。

 こんな力を望んでいたわけではないのに。

 自分だってこう成りたくてなっているわけではないのに。


 父は、優しかった。母も、優しかった。

 使用人たちも皆、優しかった。


 だが、シルヴェスタの苦しみを心に理解してくれてはいなかった。

 一歩間違えば、誰かを傷付けてしまうかもしれないという恐怖を。

 人と相対したとき、呼吸すら出来なくなってしまう苦痛を。


 なまじ、シルヴェスタが心配を掛けさせないよう平静を演じ続けていたからか、彼らがそれに気付く気配は毛頭なかった。


 暗い部屋の中で一人、掛け布シーツを被って咽び泣く。

 どうして自分は『普通』に成れないのだろう。

 どうして自分は彼らの輪に加われないのだろう。


 疑問ばかりが湧き上がり、それはやがて罵倒となる。


 どうしてお前は『普通』に成れないのだ。

 どうしてお前は彼らの輪に加われないのだ。


 未使用の書刀ペーパーナイフを右手首に当て、震える手で薄く傷を付ける。

 じわりと血が滲んだ。

 こうして自傷することで、少しは心が軽くなる。


 この行為に意味が無いことは分かっている。

 それでも、止められなかった。

 

 『死にたい』なんて思っても、シルヴェスタには死ぬ勇気がない。

 刃を縦にする勇気も、首に刺す勇気も、何も無い。

 少し血を流して、死へと一歩だけ近付くことが精一杯。


 『自分はこんなに可哀想なのだ』と憐れんで、それを愚かだと蔑んで。

 ぐるぐる、ぐるぐる思考が巡り続ける。



 ────救世主なんて、何処にも居ない。



 掠れた声で、呟いた。



 ────確かに、救世主なんて大層な奴はいないかも知れない。



 驚くより先に、被っていた掛け布シーツが剥がされた。

 いつの間に、とか。どうして、だとか。

 そんなことを言う暇もなかった。

 


 ────でも、困っている弟を助ける兄は居るんだぜ?



 空色の双眸と目が合う。

 にこりと、彼は微笑んだ。


 ただ一人、ずっと蹲っていたシルヴェスタを見つけた者。

 “眼”を持たずに生まれ、次期領主の地位を奪われても尚、弟を愛し続けた者。


 誰にでも頼られて、格好良くて、優しかった。

 本当に領主と成るべきなのは、兄なんだといつも思うほど。


 だが、そんなことを言ったら、彼は決まって『シルの方が良いに決まっている』と頭を撫でた。

 心からそう願っている、満面の笑みで。


 彼が居たから、シルヴェスタは折れないでいた。

 自分が自分じゃなくなっても、彼は『シルヴェスタ』を肯定してくれた。

 クラウディアと出会えたのも、ディルムッドと友に成れたのも。

 皆と共に居られたのも、全て彼が居たからだった。


 閉ざされた雲の隙間から、照らしてくれた光。

 とても、優しい人。


 ────だから、死んでしまった。


 あの戦場で、シルヴェスタを庇って。

 彼は死んだ。


 なのに、それなのに。

 目の前で、彼の最期を見ていたはずなのに。

 彼の声を、顔を覚えているはずなのに。

 シルヴェスタは、何も憶えていなかった。


 忘れてしまったのだ。消されてしまったのだ。

 この記憶を、彼を憶えているままでは。

 この先、シルヴェスタは生きていけないと。






 微睡みの中、誰かの声が聞こえた。



 ────シル、そんなところで寝ていたら風邪を引くぞ。



 誰かが自分の名前を呼んでいる。



 ────こら、あんまり身体が強いわけじゃないんだから。

 この前だって、サーシャに散々叱られていただろう。



 柔らかくて、温かい声。

 とても、落ち着く声。



 ────仕方ないなあ。けど、まあいい。

 俺は、お兄ちゃん・・・・・だからな!



 『兄』を名乗る男。

 とてもとても、大切だったはずの人。


 でも、知らない。憶えていない。

 シルヴェスタの記憶に、そんな者はいない。


 ああ、貴方はいったい誰なのだろう・・・・・・






 はっ、と目が覚めた。

 痛む頭を抑えて起き上がる。

 そこは、記憶の最後にあった執務室ではなく、自室だった。


 衣服は緩められ、丁寧に掛け布シーツが掛けられている。

 大方、執務室で意識を落としていたシルヴェスタをここに運んだのだろう。

 最近、やらなければいけないことが多すぎて寝る暇もなく働き続けていた。

 その無理が祟った結果がこれ。

 クラウディアにも、オズワルドにも、サーシャにも。

 叱られることは、確定だった。


 だが、今は仕事をしなければ。

 あの子の望みを叶えなければ。


 重い身体を引き摺るように立ち上がる。

 眩暈が酷く、また倒れてしまいそうだ。


 よろよろと千鳥足で、何とか扉の前に辿り着く。

 これで扉の先に誰か居たらお笑い────



「……ねえシル、何をしようとしているの?」



 扉を締める、速攻締める。

 外には鬼が居た。シルヴェスタが決して勝てない、鬼が。


 こんこん、扉が小突かれる。



「……クラウディアです、入っていいかしら?」



 沈黙。シルヴェスタは察していた。

 開けてしまえばただでは済まない、と。


 ならば、籠城するしかない。

 入れなければ、彼女も諦めてくれるはずだ。

 多分、きっと。



「……聞こえないのかしら?」

「すみませんでした」



 だが、その考えは儚くも打ち破られた。

 どれだけ歳を重ねても、妻には逆らえない。



「あら、どうしてそんなところにいるの?

 何でここにいるか、分かっているはずよね?」

「……重々承知しております」



 微笑みと見合わない圧力。

 有無を言わさぬその態度に、シルヴェスタは萎れた花のようになる。



「なら、どうするのがいいかしら?」

「……休みます」

「よろしい」



 まるで、首輪を繋がれた犬。

 飼い主の命令には逆らえない従僕だ。


 寝具ベッドに舞い戻ったシルヴェスタ。

 その脇に座るクラウディア。



「その、クラウ?

 そんなに心配しなくても俺は大丈夫だぞ……?」

「嘘ね、本当に下手くそなんだから。

 大体、何年の付き合いになると思っているの?

 貴方の事は全部分かっているわ。

 寝るまで、ここにいるからね」



 何も反論できず、シルヴェスタは押し黙る。

 情けないことに、根を詰め過ぎてクラウディアに強制的に休ませられることは数え切れないほどある。

 クラウディアは自分の限界値を把握して、要領良くやっているからそんなことはないのだが。



「もう、本当に仕方のない人」



 呆れて笑いながら、クラウディアはシルヴェスタの頭を撫でる。

 癖っ気のある、白銀色の髪。

 気を許した相手には、大人しく撫でられる彼の姿。

 本当に犬みたいだと、何度思ったことだろうか。



「……なあ、クラウ」

「どうしたの?」



 伏せていた白と青の瞳が、緩く開かれる。

 隠されていたそれは、揺らいでいた。

 迷っているのだろう、本当に話していいのかと。



「……いいのよ、話して」



 抱え込み、思い詰め過ぎる彼のことだ。

 頼れるときに頼ってほしい。

 壊れてしまってからでは、もう遅いのだから。



「……俺の兄は。

 ルーディウスは、どんな人だったんだ?」



 クラウディアの動きが、石のように止まる。

 何か言おうと口を動かして、だけれど何も言えなくて。

 数秒の後、一言。



「優しい、人だった」



 それだけ、話した。


 シルヴェスタは兄について、記録上のことしか知らない。

 ルーディウス・アーデルヴァイト。

 シルヴェスタたちより三歳上。

 中央の高等学校に入学し、騎士科を卒業。

 その後、王都騎士団に入る。

 門番を務めるセリアーノは、彼の同期で友人だったと聞く。


 そして、十六年前の厄災討伐戦において殉職。

 享年二十一歳であった。



「……みんな、ずっとそれしか言わないな」



 こうやって、彼のことを問うのは初めてでは無かった。

 兄がいたと知ったとき、シルヴェスタは父や母、彼を知るであろう人々に只管ひたすら聞き込みをした。 

 彼はいったい何者なのか、と。


 だが、帰ってくる答えは決まって『優しい人だった』とだけ。

 それ以上、話すことはない。


 恐らく、口止めされているのだろう。

 当時の状況を知る者に。



「あの時、何があったんだ?

 どうして俺は、忘れているんだ?」



 憶えていなければいけないはずなのに。

 知らなければいけないはずなのに。



「……ごめんなさい」



 やはり、望む答えは得られなかった。



「……そうか……仕方ない、な」


 

 シルヴェスタは目を瞑る。

 これ以上、彼女を拘束してはいけない。

 不快にさせてしまった分、取り返さなくては。


 クラウディアは俯いたまま、語り掛ける。



「……いいの?」

「……ああ。

 君が隠すということは、それ相応の理由があるのだろう。

 俺にだって君に言えないことがある。

 ……だから、お互い様だ」



 シルヴェスタだって、大切なことをクラウディアに伝えていない。

 レイフォードの運命を、決断を。

 その先どうなるかを、何一つとして。


 シルヴェスタも、クラウディアも互いを責める権利は無かった。



真実ほんとうを教えられたなら、どんなにいいことか……」

「……ままならないものだ。割り切るしかないさ」



 そこから十数分、二人は無言で居た。

 ただ静かに、ただ側に。

 

 やがて、規則正しい寝息がクラウディアの耳に届く。



「……ごめんなさい」



 彼の顔に掛かった長い髪を払って、クラウディアは立ち上がる。


 もどかしい。

 全てを知った上で、何も伝えられないというのは。







 あの日、あの戦場で。

 クラウディアは、ルーディウスの命が潰える瞬間を見ていた。


 切っ掛けは、ある魔物。

 それらは転移能力を有しており、自他を移動させることができた。

 前線で騎士が戦っていた大群。

 その一部が一気に後衛に雪崩込んだ。


 当時、後衛に居た者の殆どは怪我人や志願兵。

 正規兵は、十人ほどしか居なかった。

 勿論、シルヴェスタやクラウディアもここに居た。


 突如現れた魔物たち。

 どうにか野営基地には通さないように、戦える者たちは善戦した。

 幸運だったのは、現れた位置は基地から離れており、また事態にいち早く気付いた騎士の一団が後衛に戻ってきたことだ。

 ルーディウスは、その一団の一人だった。


 想定していたよりも被害は小さく、死者は出ずに済んだ。

 そう、思われていた。


 大量の魔物。

 その本当の目的は、陽動だったのだ。

 強敵を押し退けたと油断した人々を、背後から刺し殺すための。


 鮮明に憶えている。

 結界を張り直そうと一人でいたシルヴェスタ。

 手伝おうと声を掛けたクラウディア。

 彼が声に応じて振り向いた瞬間、背後に現れた魔物たち。


 危ない、と叫んだ。

 間に合わない、と嘆いた。


 そして、魔物の攻撃がシルヴェスタの首を刎ね────なかった。


 視界が真っ赤に染まる。

 ばたりと何かが倒れて、ころりと何かが落ちた。

 それは、シルヴェスタが最もよく知るもので、失い難いものだった。

 


 ────あに、うえ?



 呟いた声は、もう届かない。

 だって、彼は。

 ルーディウスは、死んでしまったのだから。


 シルヴェスタは、それを理解してしまった。

 だから、呑まれてしまった。

 彼を殺した魔物を殺せと叫ぶ激情に。

 恩讐の炎に、心が焼かれてしまったのだ。


 そこからは、一方的だった。

 何度も何度も魔物が送り込まれ、何度も何度も白い炎が灼き尽くす。


 どれだけの時間が経ったのだろう。

 気付けば、厄災はイヴの手によって討伐されていた。

 

 結果的に、死者は百八人。

 戦闘規模に対しては、かなり少ない被害だ。


 けれど、シルヴェスタの心には深く傷が付いてしまった。

 本来、彼は戦場に向かう立場ではない。

 それでも彼があそこに居たのは、その強大な力を有用とされたからだ。

 でなければ、次期領主というシルヴェスタはそこに居られない。


 つまり、ルーディウスが死んだのは。

 全て、シルヴェスタのせいだった。


 彼がそこに居なければ、ルーディウスは死ななかった。

 今もまだ、生きているはずだった。


 ルーディウスを殺したのは、シルヴェスタなのだ。


 終戦後、彼は度重なる自傷を見兼ねられ拘束されていた。

 自殺ほど酷く無いとはいえ、このままではいけない。

 クラウディアは、シルヴェスタと幾度も会話を試みた。

 

 だが、返事はない。

 ずっと虚ろな瞳で、俯いたまま。

 ある意味、自我喪失状態だったのだ。


 それから、一月ほど立った頃だろうか。

 『シルヴェスタの、ルーディウスに関する記憶を消去する』と、ヴィンセント王太子殿下から直々に書状が届いたのは。


 ヴィンセントは、シルヴェスタやクラウディアと親しかった。

 だからこそ、摩耗したシルヴェスタの姿を見て、心を痛めていた。

 自分に何かできることはないのだろうか、と。

 

 何度も話し合いを重ねた。

 記憶を消す以外の方法は無いのか、なんて皆が口々に言った。


 だが、全て駄目だった。



 ────全責任は、私が負う。



 ヴィンセントは前を真っ直ぐ見据えて、そう話した。



 ────いいえ、ヴィンセント殿下。

 私たちにも背負わせてください。

 これは、皆で負わなければいけないものなのです。


 

 そして、その翌日。

 シルヴェスタの中から、ルーディウスという存在は消えた。






 雨がざあざあ降っている。

 少し分かりにくいけれど、硝子の外には夕闇が広がっていた。

 星は、今日は見えない。

 厚い雨雲に覆われていて、光が地上に届かないのだ。


 窓に触れる。

 手の熱で暖められた箇所が外気で冷やされ、白く曇った。

 そのまま、こつりと額を当てる。


 冷たい。硬い。

 思い出してしまう、彼の温度を。

 

 震える喉。微かに息を吐く。

 似ているのだ、レイフォードは。

 シルヴェスタよりも、彼に。

 ルーディウスに。

 

 性格とか、見た目とか、そういうことではなく。

 『在り方』が似ていた。

 自分の大切な人のためなら、命を懸けることも、手段も厭わない。

 そんな在り方が。


 シルヴェスタは知らない。

 ルーディウスがずっと、彼のために何だってしていたことを。


 シルヴェスタは知らない。

 ルーディウスがクラウディアに掛けた言葉を。



 ────なあ、クラウディア。

 俺は、シルのためなら何だってできる。

 『お兄ちゃん』だから。

 でも、ずっと一緒には居られない。

 いつか、終わりは来るものだ。



 星が輝く真夜中。

 緊張で眠れなかったクラウディアと、夜番だったルーディウス。

 二人だけしか知らない約束。


 

 ────もし、俺がいなくなったら。

 あいつを、よろしく頼む。



 そう言った彼の目は────『死』を決意していた。


 クラウディアは知っている。

 レイフォードが近い内に息絶えることを。


 クラウディアは知っている。

 シルヴェスタが、あの時の自分たちのように、レイフォードに関する記憶を消そうとしていることを。



「……忘れたく、ないよ」



 ああ、でも。

 これは、罰なのだ。

 自分たちがシルヴェスタにしたことが、そのまま返ってきただけなのだ。

 自分たちの都合で、『ルーディウス』という彼の大切な人を奪ったことへの。

 

 

「……私たちは、どうすれば良かったの……?」



 どれだけ訊いても、答えが帰ってくることはない。

 静かな廊下に、ただ声と雨が響くだけだった。


 雨が上がることはない。

 だから、空が澄むことはない。


 雨が上がることはない。

 だから、虹が架かることはない。


 澄んだ空シルヴェスタ架かる虹クラウディア

 二人の罪が赦される雨が上がる日は、いつ来るのだろう。






 愛している。愛していた。

 どれだけ異端であっても、二人は愛し続けていた。


 シルヴェスタと同じ、白と青の異色虹彩ヘテロクロミア

 クラウディアと同じ、淡い金色の髪。

 どこから見ても、誰が見ても。

 それは、二人の子どもだった。


 喩え、異端であっても。

 本当の・・・自分の子でなくても。

 我が子を愛さない理由にはならなかった。

 そもそも二人だって、どちらかと言えば異端側であったのだから。


 ああ、愛しているのだ。忘れたくないのだ。

 死んだことも、悲しかったことも。

 全て、憶えていたいのだ。


 だが、その声はもう届かない。

 いや、口にすることが出来ない。


 何故なら、開演中は私語厳禁。

 ただひたすらに、演者を見ることしか許されていないからだ。


 感想は終幕後に。

 その演劇を憶えているとは限らないのだけれど。

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