十一節〈君を救うために〉
────■■。
長めの黒髪、温和そうな顔。
自分と違って純日本人である青年が、愛おしそうに名前を呼ぶ。
────世界で一番、君を愛している。
強く手をにぎって、下手くそな笑顔で彼は言った。
それがこそばゆくて、でも心の底から嬉しくて。
女はめいいっぱいの笑顔で、こう返した。
────私も、■のこと。世界で一番愛してる!
暖かい、春の日だった。
美しい桜が舞う、春の日だった。
世界で一番愛する君と、やっと一つに成れた日だった。
『私』は、『君』を愛していたのだ。
嘘偽りなく、本当に。
でも、どうしてだろう。
どうして私は、
『君』を思い出せないのだろう。
ただ、憶えているのは。
『私』は『君』を遺して、死んでしまったということだけだった。
目蓋を開ける。
部屋は暗いながら少しだけ明るく、まだ太陽が登りきっていないのだということが分かった。
もう一度寝ようにも何だか眠れなくて、ユフィリアは立ち上がって窓を開けた。
夜風が身体に染みる。
ぐちゃぐちゃになっていた思考が整理されていく。
ユフィリアは、『夢』を見ていたのだ。
あり得ない世界。ここではない何処か。
そこで、『私』と『君』が幸せに暮らしている。
だが、詳しいことは何一つ分からない。
『私』の名前も、『君』の名前も。
二人がどんな日々を送っていたのかも。
ただ漠然と、二人が愛し合っていることくらいしか分からなかった。
そして、『私』は『君』を喪った。
『君』も『私』を喪った。
幸せな日々は瞬く間に壊されて、哀しみの海に沈んでしまった。
名も知らぬ『君』。
なのに、『君』を喪った哀しみをユフィリアはずっと抱えていた。
生まれたときから、ずっと。
己という機構を構成する歯車の一つが失われているようだったのだ。
しかし、それは長くは続かなかった。
アリステラ王国暦一四〇五年、創造の月十五日。
穏やかな春の日。
ユフィリアは
月光色の髪。
その美しさに、儚さに心が奪われた。
同時に満たされた。
失われていた歯車が嵌め込まれ、ユフィリアという機構が動き出したのだ。
彼と出会ってから、ユフィリアは変わった。
今までの不完全な自分から、完全な自分に移り変わった。
だが、この変化を気付いているものはいない。
見た目も、性格も変わっていない。
変わったのは、ユフィリアという少女の心だけ。
恋心。いや、愛。
そうだ、ユフィリアは。
レイフォードに恋をしていた。
そんなこと、関係なく。
彼を、愛していたのだ。
空に手を伸ばした。
黒が青色と紫色に侵食されていくように、明るくなっていく。
淡い残星、微かな光だけが届いていた。
ユフィリアは、一人廊下を歩く。
気味が悪いほど靴音が響いた。
人っ子一人いないわけではないのに、やけに静かだ。
いや、ユフィリアが気にし過ぎなだけかもしれない。
普段ならば、気にも留めない音が強く耳に残っている。
それもこれも全部、元はといえば彼のせいだ。
────レイフォード・アーデルヴァイトは後一月も持たずに死に絶える。
脳裏に浮かぶ言葉。
それを聞いてから、今日でもう半月が経った。
あれから、レイフォードからの連絡はない。
毎週届いていた手紙も、ぱったりと来なくなった。
ディルムッドに聞いても、全く話を取り合ってくれなかった。
初めから、彼にも手を回していたのだろう。
そうでなければ、ユフィリアを溺愛するディルムッドが彼女の意見を蔑ろにするわけがないのだ。
そんなディルムッドから、ユフィリアは呼び出されていた。
『大事な話があるから』と。
「お父様、ユフィリアです」
「ああ、入ってきてくれ」
扉を叩いて、彼の声が聞こえてから入室する。
机に腰掛けるディルムッド。
机上には大量の書類が散らばっていた。
「いや、ごめんねユフィ。
色々忙しくて」
「いいよ、お父様が忙しいのは分かってるから。
……それで、どうしたの?」
ディルムッドは立ち上がり、長椅子に座る。
その対面にユフィリアも腰を下ろした。
「イスカルノート公爵家が主催する、東部貴族家の新年会。
その招待状が今回も届いてね。
覚えているかな?」
ユフィリアは頷く。
アリステラ王国五大公爵家、その一つであるイスカルノート公爵家。
東部で一番の都市であるティムネフスを主に、最も広い領地と権力を持っている。
イスカルノート公爵家は毎年、遊戯の月中旬に新年会を主催している。
ユフィリアも去年の末に初めて参加したが、東部の貴族が一同に集まるのは壮観であった。
年明け前に執り行う理由は、年明け後一月は基本どこの領地も忙しいかららしい。
「それがどうかしたの、今年も参加するんでしょ?」
「それは……そうなんだけど……」
ばつが悪そうにディルムッドは言葉を濁す。
大方、昨年の
「私は大丈夫だよ。もう気にしてないし」
「でも親としては、ね? ちょっと不安だなあ……って」
昨年の新年会。
そこでは、ユフィリアを中心にちょっとした騒動が巻き起こった。
北東部に位置するエクスワンズ侯爵家。
その長男オスカーに、端的に言えば『一目惚れ』されてしまったのだ。
────とても可愛らしいな、貴方は。
五歳の子どもを口説きまくる八歳。
貴族の子であるならば早熟であるのは当然のことだが、少々度が過ぎた。
ディルムッドとしても注意してやりたかったが、生憎相手の家は同格。
更にエクスワンズ侯爵家の現当主は口が良く回る男だ。
下手に手を出すと、あの手この手でやり込めかねられない。
最悪、婚約まで取り付けられる可能性まであった。
そのため、『子どものお遊び』として処理できるように、子どもたちの間で解決してもらおうとした。
ユフィリアとしても、一目惚れくらいならば気にすることもない。
言葉巧みに交わして、いなせば良いと思っていた。
ただ、問題が起こった。
ユフィリアが咄嗟に、オスカーの頬を引っ叩いてしまったのだ。
────仕方ないではありませんか、気持ち悪かったのです。
普通、明らかに嫌がっている少女の手を不躾に取って、
いや、しないでしょう。
紳士たるもの、相手を尊重するのは当然のことです。
とは、ユフィリアの弁だ。
申し訳無いとは思うが、相手に非があるのだから私が責められる理由はあるか。
そう思っていた。
結果的に、責められることはなかった。
寧ろ、責められたほうが心情的には楽だったかもしれない。
打ったことで、悪化したといえばしてしまったのだから。
────……面白い少女だ。
やはり、私が見初めただけある。
気障に微笑み、打たれた頬を愛おしそうに撫で。
ユフィリアに手を差し伸べ、彼は言い放った。
────私の妻になれ、ユフィリア。
そんなことを言われたって、ユフィリアが『はい』と言うわけがない。
その前に、ユフィリアには心に決めた人がいる。
返答は至極当然だった。
────申し訳ございませんが、その申し出は受け入れられません。
私には……私には、心に決めた方がいるのです。
オスカーが、岩のように固まった。
────……すまない、よく聞こえなかった。
もう一度、言ってもらえないだろうか。
滝のような汗を流す彼。
断られるとは、万に一つも思っていなかったようだ。
────ですから、私には心に決めた方が……好きな方がいるのです。
その人以外と結婚するつもりはございません。
伸ばした手で、顔を覆う。
そして彼は乾いた声で、気味悪く笑った。
────なるほど、なるほどな。
その男より私が魅力的になれば、君は私を見てくれると。
そういうことだな?
前向きにもほどがある。
彼の論理に突っ込みをいれたかったが、藪を突いて蛇を出すわけにもいかなかったので、取り敢えず無視をする。
────……一年後、また会おう。
そう言って、オスカーは手を振りながら去っていった。
────なんだったの、あれ……?
困惑するユフィリア。
同じく困惑する、傍観していた貴族たち。
ユフィリアの想い人という情報に、気が気でないディルムッド。
騒動自体は一先ず収まったが、一年後である今回の新年会。
また、かの嵐が到来するのはほぼ決まっていることだった。
「ね、だからさ……今回、ユフィだけでも残ってもらえないかなあと」
「嫌。というか、本当の理由そっちじゃないよね?」
「……あ……ええ……?」
「分からないわけ無いでしょ。
お父様もレイも、嘘吐くの下手なんだから」
ユフィリアは見抜いていた。
ディルムッドがユフィリアを新年会に連れて行きたくない本当の理由を。
理由の四割くらいは、それなのだろう。
だが、主たるものは『レイフォードと合わせたくない』のはずだ。
「来るんだよね、レイ?」
「……いやあ、オレは知らないなあ……」
「誤魔化さないでよ。
何企んでいるのかは訊かないから、それだけは教えて」
ディルムッドは狼狽える。
溺愛する娘のお願いを叶えるか、彼らとの約束を果たすか。
ただ、経験則的にもう少し押し込めディルムッドは陥落する。
上目遣いに猫撫で声、おまけに少し瞳を潤ませ、お
「……教えて、くれないの?」
「……ああ、すまん二人とも。
オレは娘には勝てないよ」
ディルムッドは天を仰ぐ。
勝った。
「来るよ、レイフォードくん。
先方からのお願いでね。
彼は必ず出席しないといけないんだ」
「……それ以上は教えられないと」
ディルムッドは頷く。
これ以上は彼らの計画に接触するのだろう。
口に手を当て思考する。
ユフィリアの目的は彼らの計画を最高潮の瞬間に破壊することだが、この新年会中に何か行動を起こすだろうか。
他の貴族の目もある以上、派手な行動は起こさないはず。
しかし、仕事が忙しい彼らが交流できる時間だってあまりない。
今回は絶好の機会でもある。
さて、どうするべきか。
計画の全貌とはいかなくとも、一端は知っておきたい。
悩むユフィリア。
その姿を見て、ディルムッドは口を開く。
「……なあ、ユフィ。
どうしてお前は、会おうと思うんだ。
嫌な想いをしただろう。酷いことをされただろう。
それでも尚、彼に会うというのか?」
先までの胡乱な雰囲気が消え去り、ディルムッドは真剣な表情で詰め寄ってくる。
彼の言うことは最もだ。
レイフォードは、本当の理由は何であれ、ユフィリアと仲違いした。
『全部
それは、今も赦していない。
自分勝手に縁を切って、自分と関われなくして。
『自分のことなんて、嫌いになっているはずだ』と傲慢に高をくくって。
ユフィリアの気持ちを無視して。
だから、仕返しをしたいのだ。
「私、レイに伝えたいの。
何をしても、私は君が大好きだって」
悪夢に苛まれる君の目を醒ませるくらい、目一杯の愛で。
「……辛い思いをするとしても?」
「うん。私の気持ちは、変わらない」
ディルムッドは大きく溜息を吐く。
諦めたように。しかし、安心したように。
「分かったよ、ユフィの好きなようにすれば良い。
オレたちはもう、行く末を見守ることしかできないから」
「……ありがとう、お父様」
立ち上がったユフィリアは退室しようとする。
その背後で、ディルムッドが呟いた。
「……これは、独り言だ。
オレたちは、何も出来なかった。
あの子を救うことも、支えることも何一つ。
だから、誰かがあの子を救ってくれるなら、それ以上に嬉しいことは無いんだ。
……オレたちは、諦めてしまったから」
ばたん、と扉を締める。
あれは、懺悔だ。
彼が、レイフォードを救えなかったことへの。
レイフォードがユフィリアを遠ざける理由。
それは恐らく、自分の死を辛くさせないため。
ユフィリアがレイフォードという存在を捨てて、幸せな世界で生きていけるようにするため。
髪を結んでいた
彼の瞳と同じ、空色に染められて。
白で水晶花の刺繍がされたそれは、レイフォードから贈られたものだ。
強く、胸の前で握る。
水晶花の花言葉は『永遠』、『変わらない愛』。
彼がその意味を知って贈ったかは分からないけれど、ユフィリアにとっては最高の贈り物だったのだ。
ああ、
もう時間が無いとしても、このままでは終わらせてやらない。
レイフォードが描いた計画を壊して、悪夢から醒まして。
そして、共に幸せに生きるのだ。
彼の最期の一秒まで。
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