二節〈時間切れ/強制終了〉
少年が目覚めると、そこは暖かく明るい空間だった。
自分以外誰もいない部屋。
この場所に見覚えはなかったが、何故か安心できた。
掛け布団を取り払って
記憶の中よりも視線が低い。
三歳ほど離れているのだから、当たり前ではあるのだが。
どこを見ても、どれだけ探しても血の一滴すらない。
死体なんて見当たらない。
あれは、ただの
確かにあった現実だった。
しかし、今はもう
この世界に起きた事件ではないのだから。
少年は部屋を出ようと扉へと歩み寄る。
何だか少し、身体が重い。
だが、些細な問題だ。
半ば引き摺るようになりながらも、気にせず歩を進めていく。
小さな手が取手に掛かり、内開きの扉を手前に引いた。
ただ、それだけだったはずだ。
やけに軽く開いた扉に、不意を衝かれた少年は体制を崩す。
「ごめん、大丈夫?!」
正面から安否を求める鈴のような声が聞こえた。
聞き慣れた声の主は少年の目の前に膝を付き、座り込んだ少年の顔を覗き込む。
夜明けの空を映した
花のように踏み躙られて、飛び散って。
血の臭いがする、血の味がする。
手が真っ赤に染まっている。
瞠目したのが、自分でも分かった。
手の震えが収まらない。
それが何故かは分からない。
いや、違う。全て分かっている。
だから、こんなにも自分は怯えているのだ。
それは
守るために殺した、守れなかったから殺した。
あの日撃ち抜いた脳髄と、あの日貫いた心臓。
響く悲鳴と怒号。
ずっと、生命を奪った感触が手に残り続けている。
生命が潰える瞬間の声が耳に残っている。
全てが
皆みんな
見たくない。
もう目を背けてしまいたい。
でも、できない。
逃げてはいけないから、忘れてはいけないから。
息が吸えない、脳に酸素が回らない。
世界が暗くなっていく。
何度も彼の名前を呼ぶ。
それを錨として深海から持ち上げるように、何度も何度も。
────レイ!
何十回も繰り返して、声はやっと少年へ届いたのだった。
「ユ、フィ……?」
掠れた声で、少年レイフォードは少女ユフィリアの名を呼んだ。
白と蒼の瞳が虚ろにユフィリアを見上げている。
まるで、ユフィリアではない誰かを見ているように。
事態を飲み込めないまま狼狽えるレイフォードに手を差し伸べて、彼を
ここは来客用の部屋。
レンティフルーレ領シューネにあるユフィリアたちが住む屋敷の一部。
そう説明され、レイフォードは徐々に記憶が蘇り始めた。
そして、ユフィリアは問うのだ。
「……憶えてないの? どうして、ここにいるか」
アリステラ王国歴一四〇六年。
契約の月も下旬の過半を過ぎ、遊戯の月を目前に控えた日だった。
冬も終わりが見えてきたというのに、野山や町を覆い尽くすほど降った雪。
それらが作り出す銀世界の中、レイフォードはユフィリアの屋敷へ来訪していた。
馬車から外に出ると、冷たい風が吹き荒ぶ。
吐いた息は白く、凍ってしまいそうだ。
いくつかの人影が玄関先にある。
その中の一人、一段と小さな人影。
寒空の下、雪に混じってしまいそうな白髪の少女が手を振りながらレイフォードに駆け寄る。
「レイ、久し振り! 元気だった?」
「うん、元気だったよ。ユフィは?」
「勿論元気、風邪の一つも引かなかったもの!」
ユフィリアは自慢気に張った胸を叩いた。
相変わらずだと思いつつ、レイフォードは彼女の冷たくなった手を握る。
それは氷のように冷たく、赤くなっていた。
「大分待たせちゃったね、寒かったでしょ」
「私、冬好きだから。平気平気」
そう話すユフィリアの鼻は赤い。
無理をしているようには見えないが、寒いのは確かなのだろう。
レイフォードは、自身の熱で温めるように白く細い手を包み込んだ。
「どう? 温か────」
「はいはい、いちゃいちゃしない」
後ろからテオドールが、レイフォードの背中に雪を差し入れた。
思わず甲高い悲鳴を上げ、冷感を放つ雪を服と肌の隙間から取ろうとする。
だがしかし、厚着をしていることが負に働き、うまく取ることができない。
レイフォードはテオドールを非難する。
背後から不意を衝くとは何事だ、と。
「いや、こんなところでいちゃいちゃしないでよ。
寒いんだから」
「そうかもしれないけどさ!
もうちょっと……なんかこう……手加減というか、段階を踏むべきじゃないかな!」
「そうだそうだ!」
レイフォードに続き、ユフィリアも口々に反論した。
やれ横暴だ、卑怯だと罵る。
が、テオドールは意にも介さない。
何を言われただろうと何処吹く風。
目を閉じ腕を組み、仁王立ちして佇んでいる。
そして、彼は大きな溜息を吐いた。
突如動き出した石像の如きテオドールに、二人の間に緊張が走る。
おずおずと臨戦体制を取るレイフォードとユフィリア。
少し離れた場所へと歩き出し、屈み始めるテオドール。
彼は足元に積まれた雪塊に触れ、両手で掬った。
掌を丸め、圧縮する。
そうして、彼の手により拳大ほどに整形された雪。
否、雪玉。
「そんなに寒い方がいいなら……」
テオドールは、腕を振り被る。
「雪に、沈め!」
思いのまま、彼は雪玉を投げ付けた。
「逃げるよ、ユフィ!」
「テオが怒ったあ!」
隣の少女の左手を掴み、レイフォードは走り出す。
降雪の中を掻き分けて、真っ白な世界を駆けていく。
背後から襲いかかる雪玉を避け、怒る鬼から距離を取った。
二人と一人の距離はおよそ
ただ我武者羅に投げるだけでは届かない距離だ。
これならば、とレイフォードは振り返る。
テオドールは雪玉を作り出していたため、その場から動いていない。
今も作るために屈んでいるから、近付いてこない。
そして、下を向いているから、こちらを認識できていない。
絶好の機会だった。
ユフィリアと目を合わせ、二人は同時に動き出した。
「────反撃開始!」
レイフォードはテオドールよりも手早く雪玉を作る。
昔から姉に鍛えられていたお陰で、雪玉作りに関しては職人程度の業を持っていたのだ。
鉛直方向弧を描いて投げられた雪玉は、テオドールの数歩前に落下する。
ぼすりと沈んだそれに反応して、テオドールが顔を上げた。
遂に逃げるのをやめたか、今度こそ脳天に打ち当ててやろう。
そう構えた瞬間だった。
ふと、違和感に気付く。
視界に入っているのはレイフォードだ。
隣に居たはずのユフィリアはどこにも見えない。
これは────
額を衝撃と冷たさが襲った。
ぱらりと落ちる雪片。
柔らかく握られていたため、痛みはほんの僅かしかない。
「やった、当たったよ!」
「良し、そのまま追撃だ!」
少女と少年の声が響く。
テオドールは、二人にまんまとしてやられたらしい。
大きく息を吐いた。
冷たい空気が肺に染み込み、凍り付いてしまいそうだ。
だが、そんなことは起きない。
何故なら、今のテオドールの心は彼らへの怒りという名の業火が燃え盛っているのだから。
「覚悟しろよ、謝るまでやめないからな!」
叫びを合図に三人は走り出す、手に雪玉を持って。
一見争っている雰囲気────争ってはいる────だが、皆の顔には笑顔が輝いていた。
その様子を見守る者が二人。
「元気がいいなあ、子どもたちは!」
ユフィリアと同色の瞳を持つ彼女の父、ディルムッドは屈託なく笑いながらそう言った。
二年ほど前まで友人なぞ一人もいなかった娘に、仲の良い友人が二人もいる。
親として歓喜に震えると共に、それが永遠でないことが心苦しかった。
「……どうして、あの笑顔を守り続けることができないんだろうな」
口を閉ざしたままの親友に、ディルムッドは語り掛けた。
何より、一番辛いのは彼なのだ。
彼、シルヴェスタはレイフォードの父親である。
愛想のないこの男が心を開く数少ない相手。
家族と親しい友人ほどしかいないその集合の要素一つが、今当に消えようとしていた。
「……俺は無力だ」
ぽつりぽつり、シルヴェスタは心の音を吐き出す。
あの春の日から約二年間、皆で手を尽くしたのだ。
《精霊石》を使用した源素の貯蔵も、《精霊術刻印具》を使用した外部からの操作も、大人数の干渉も。
ありとあらゆる手段を試した。
だが、その全てが塵に還った。
何一つとして、効果がなかったのだ。
あまりにも大きな力の前に、皆が膝を付いた。
もう無理だ、と手を上げた。
誰もその力に抵抗できず、降伏したのだ。
無情にも、また春の日が来る。
そうすれば、レイフォードの肉体は空に解けて消失してしまうだろう。
現にシルヴェスタが視る彼の魂は、今にも壊れてしまいそうだった。
「……救えなかった。
どれだけ力があっても、守れなければ意味がないというのに。
俺は、俺は────!」
慟哭するシルヴェスタの頭を、ディルムッドは押さえ付けるように撫でた。
髪が乱れるのも構い無く、彼の哀しみが少しでも和らげばと思って。
「どれだけ嘆いても、オレたちにはもうどうにもできない。
できることは、あの子の願いを叶えることだけ。そうだろう?」
声も出さず、シルヴェスタが頷く。
これが彼らの最期の時間だ。
レイフォードの肉体は、徐々に衰弱している。
彼は誤魔化しているが、あと数日もすれば最初期のような状態になることは明白だった。
ユフィリアは勘が鋭い。
衰弱したレイフォードの姿を見れば、その後どうなるかなど想像に容易いだろう。
だから彼は、レイフォードは────
「全く、誰に似たんだか」
瞳から零れ落ちる雫が、凍ってしまいそうだった。
あ、と口から間抜けな声が出た。
力が抜けた右足、空振った指先。
前を走っていたレイフォードが目を見開いている。
ああ、やらかした。
そんな思いのまま、ユフィリアは剥き出しの氷に突っ込んだ。
慌てたレイフォードが、直ぐさま駆け寄り屈む。
背後からもテオドールが異変に気付き、雪玉を投げるのを止めて近付いてきた。
「どうした……って、氷で転んだのか」
「そうみたい。大丈夫、ユフィ?」
レイフォードは痛みに呻くユフィリアの手を取り、起き上がらせようとする。
表面上は、ただ手を取っただけだった。
ぬるり。生暖かいものが二人の手の間にある。
「────なに、これ」
レイフォードが手を離すと、そこには真っ赤な液体が付着していた。
鉄の匂い、
冷たくなった手であったからこそ、強調される暖かさ。
レイフォードはそれが何か知っていた。
「あれ……あ、氷の破片で切れちゃったみたい」
「やっちまったな、包帯貰って来ないと……レイくん、どうした?」
それがレイフォードの手にある。
ユフィリアの血が、レイフォードの手にある。
大切な者の血が、自身の手にある。
両手が真っ赤に染まっている。
レイフォードは、否■■■はあの日を覚えている。
忘れるわけがない、忘れてはれてはいけない。
どうして今まで思い出せなかった。
『死』を忘れていた、『罪』を忘れていた。
幾度も銃声が聞こえる、幾度も悲鳴が聞こえる。
大切なものを守るためには、何かを犠牲にしなければいけない。
それがどんなものであっても■は犠牲にできる。
■は────守るためなら、誰かの命すら奪える。
人を殺せる。
「……なんで、忘れていたんだろう、なあ」
乾いた笑いが口から漏れた。
どれだけ人を演じたところで、レイフォード・アーデルヴァイトを演じたところで。
その本質は
人になんて成れやしない。
「そうだ、そうだったんだよ」
足元の雪と氷を踏み締めて、少年は立ち上がった。
もう、人の振りをする理由なんてない。
終わっていたんだよ、初めから。
「ユフィリア・レンティフルーレ。
君に伝えたいことがある」
────レイフォード・アーデルヴァイトは後一月も持たずに死に絶える。
「残された僅かな時間。精一杯、楽しんでね」
にこりと最大級の笑顔で、少年は言い放った。
視界が暗転する。
少年が最後に見た少女の瞳は、信じられないほど見開かれていた。
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