三節〈夢は醒めて、夢を叶えて〉
「ああ、そうだった。覚えているよ。うん、憶えている」
がらり、と人が変わったかのようにレイフォードは話し始めた。
声も顔も彼のものだというのに、彼のように感じない。
レイフォードなのに、レイフォードではない。
『別人』を演じているようだった。
「……おかしいよ、レイ。
熱でもあるんじゃないの……?」
「そうだね。
ずっと嘘の僕を見ていた君からしたら、今の僕はおかしく見えるはずだ」
何を言っているのだ、彼は。
そう考えるユフィリアは、目の前のレイフォードに抱えていた疑問を吐き出した。
レイフォードが意識を失う前に告げた言葉。
『全て
それはいったいどういう意味なのか、と。
それが分かれば、今のおかしな態度の理由も分かるかもしれないと思いながら。
「……なんだ、そんなことか」
一瞬安心したような顔をして、レイフォードは肩をすくめた。
「言葉通りだよ、全部
君と交わした言葉も、過ごした時間も、ね」
「……どう、いうこと?」
理解できない、とでも言いたげな表情でユフィリアは問う。
「僕はずっと演技していたんだ、君と仲の良い『友達』の」
そう言いながら、レイフォードは立ち上がった。
ふらりと身体に力が入っていない歩き方をして、ユフィリアに向かって両手を広げる。
「僕は君を友達なんかと思ったことはない。
面倒だったよ、君との『友達ごっこ』。
毎週毎週手紙を書いたり、遊んだり、笑ったり……全部」
「……冗談は辞めてよ、面白くないよ」
息が詰まる。
喩え冗談だったとしても、レイフォードの口からそんな言葉が放たれるのは聞くに耐えない。
だから、嘘だと言ってくれ。
冗談だと笑ってくれ。
そう願いながら、ユフィリアは膝の上で拳を握った。
だが、その願いは儚くも打ち破られる。
「冗談だと思っているの?
……それこそ冗談にしてよ。
何度も言っているじゃないか、君との時間は全部
心臓がばくばく音を立てている。
呼吸が浅くなる。苦しくなって心臓を抑えた。
右手におった切傷が痛みを主張している。
「……何でそんなこと言うの?
おかしい、おかしいよ。
だって、今までずっと一緒に────」
「────もう、夢を見るのは終わりにしてよ」
道化のような雰囲気を捨て去って、一気に空気が張り詰める。
レイフォードが稀に見せる『奈落』。
それがはっきりとこちらを見ている、深淵が覗いている。
本能的な恐怖が体中に駆け巡った。
深く息を吐いて、吸って。
少年は静かに叫ぶように、吐き捨てた。
────君が嫌い、だから。
ずっとずっと……嫌いだったから、この関係を終わらせるんだ。
「────え?」
素っ頓狂な言葉が口から漏れた。
今、レイフォードは何と言っただろう。
『君が嫌い』『嫌いだった』。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。
レイフォードが
半狂乱になりながら、ユフィリアは彼の言葉を否定した。
しかし、待ち受けているのは残酷な現実だけだ。
「……本当だよ。
憶えているよね、二年前の約束のこと。
『
やめて、やめて。
それ以上聞きたくない。壊さないで、醒さないで。
耳を抑えて、誰の声も聞こえないようにして。
でも、それでも。
レイフォードの声だけは聞こえてくる。
「これが僕の
────君が嫌いだ。
世界が壊れる音がした。
耐え切れなくなった涙腺が水滴を零す。
一度零れて仕舞えば最後、大粒の涙が溢れ続けていく。
少女は嗚咽を垂れ流しながら、少年を見つめることしかできない。
脳が彼の言葉を受け入れるのを拒否している。
なのに、なのに、どうして。
そして、どうして君はそんな顔をしているのだろう。
少女は無意識に手を伸ばした。
ぎゅっと顔を歪ませて、泣くのを我慢している少年に向けて。
だが、その手は届かない。
届く直前で払い除けられてしまったから。
たった
無限にも思えるほどに。
払い除けられた右手を見た。
包帯に薄く血が滲んでいる。
ああ、彼がおかしくなったのは、これを見てからだったか。
「……一つだけ、教えて」
呼吸を整え、少女はただ一つの疑問を投げかけた。
どうして、君は私と友達になってくれたの、と。
「……それ、は……」
少年は右手首を握って、数歩後退る。
そして視線を彷徨わせた後、絞り出すように口にした。
「────君が大切だった人に似ていた、から」
それは突発的な感情だった。
右手を握り締めて、また開いて、少年との距離を一瞬で縮めて。
そして、頬を打った。
破裂音が静かな部屋に反響する。永遠のような刹那を超えて、少女が一言。
「────嘘吐き」
瞳には涙が溢れていた。声は震えていた。
少女は逃げ出すように駆け出す。
この空間から一秒でも早く逃げ出すために。
少年は酷く小さな背中を、唖然と眺めることしかできなかった。
独りぼっちになった部屋で、少年は倒れるようにへたり込んだ。
そのまま背を床につけて空を仰ぐ。
そこには澄んだ蒼い空ではなく、閉塞感のある天井しかない。
それから目を逸らしたくて、手で覆った。
「……これで、良かったんだ」
誰にも聞こえない呟きが宙に溶ける。
少年は、レイフォード・アーデルヴァイトは嘘吐きだ。
いつからだっただろう、ユフィリアの前でも
生存が絶望的になってから、それとも
それは、レイフォード自身でも分からなかった。
「……ごめん、ユフィ」
謝罪は彼女に届かない。
届いてしまえば、全部無駄になってしまうから。
だから、これはただの自己満足だ。
少しでも、自分の罪を軽くするための。
もう止まれない、引き返せない。
幕は上げられたのだ。
一度上げられた幕は、
だから、最期まで演じ続けよう。
何を犠牲にしても、君が笑っていられる世界にする。
そう、あの美しい月に誓ったように。
夢の終わりはもう直ぐに。
終幕までの
息を切らして、行く宛もなく少女は駆ける。
どうして飛び出したのか、どうして走っているのか。
自分の感情も思考回路も分からない。
ただ
薄暗い廊下。
窓から差し込む光は淀んでいて、外は雪がちらついている。
しかし、涙で朧気な視界では、そんなことは些細なものでしかなかった。
差し迫る曲がり角。
焦っていたこと、見通しが悪かったこと。
その二つを理由にして、少女は何かと打つかった。
弾き飛ばされるように少女は体制を崩す。
受け身も取れずに床に身体を打ち付けた痛みで、更に涙が溢れ出した。
大声を出して泣きたいというのに、喉が引き攣って声が出ない。
嗚咽が止まらない。
そんな少女に、謝罪の言葉と共に手が差し伸べられた。
「……何か、あったんだろ?
俺のできる範囲でなら手伝うよ」
夜空に輝く流星、蒼天を飛ぶ自由の翼。
そこに居たのは
ことり、と置かれた紅茶をゆっくりと啜る。
心が暖まり再び泣き出してしまいそうになるのを堪え、ユフィリアは事の仔細を話し始めた。
あの雪の中、レイフォードが放った言葉。
彼と描いた軌跡は、『全部
「────でも、私解るの。解っちゃったの。
それこそ
ユフィリアは理解していた。
理解できないわけが無かった。
あんなに共に遊んで、笑って。
長い時を共に過ごした友人の心を。
そして、理解していたからこそ分からなかった。
何故、そのような
雪の中で人が変わったかのように話し始めた時から、レイフォードはずっと
物語の悪役のような性根の悪そうな態度で、ユフィリアを遠ざけようとしていたのだ。
底意地が悪いのは、彼の話したことは
嘘を吐くなら真実を三割ほど混ぜると信憑性が上がるとは言うが、それにしたって趣味が悪い。
全て嘘だ、と叫べたほうが良かったのに。
レイフォードはユフィリアに
それは、事実である。
二年前に出会った頃から、彼はユフィリアに隠し事をしているようだった。
それも一つではなく、いくつも。
ユフィリアだって大人しく騙されていたわけではない。
踏み込もうとしたことだってある。
しかし、あの『奈落』は。
底の見えない暗闇は、どうしたって尻込みしてしまうのだ。
踏み込んでしまえば、もう戻れない。
だから、ユフィリアは知らない振りをしていた。
ずっと、レイフォードと友人でいられる世界に居たかったから。
だが、その望みは打ち破られた。
他の誰でもないレイフォードによって。
「ねえ、テオ。
レイの言う『大切な人』って、誰なんだろうね」
「……さあ?」
肩をすくめてテオドールは首を振った。
腕の中の縫いぐるみを抱き潰して、ユフィリアは不満を顕にする。
「直接訊いてみれば?」
「絶対はぐらかすもん。
そういうの、答えてくれないから。
というか、前訊いた時はそうだったし」
「ですよね……」
レイフォードの『大切な人』。
彼が時折見せる寂しそうな顔は、大抵それについて考えているときだった。
レイフォードの
『ユフィリアを大切な人に重ねている』こと。
二人が初めて出会ったあの日、彼はユフィリアがその者に似ていると話していた。
鏡写しのように瓜ふたつで、とても懐かしい気分になるのだ、と。
そこまで大切な者の名前を、何故覚えていないのだろう。
ちょっとやそっとじゃ忘れるはずがない。
ならば、何かきっかけが。
何か原因があって、忘れてしまっているのだろうか。
ぴきり、と頭が痛む。
まるで、それ以上考えてはいけないと肉体が止めているように。
「ユフィ、どうしたんだ?」
ゆらゆらと揺れていたユフィリアが、突如固まったことを不思議がったテオドールは様子を伺った。
頭を振ってなんでもない、と平静を装う。
静寂が空間を包んだ。
重苦しい雰囲気が漂っている。
ちらりと抱き締めた縫いぐるみからテオドールを覗いた。
居心地の悪そうに俯いて、何か話そうと顔を上げるが話せない。
それを何度か繰り返している。
「……やっぱり」
その目線、その態度。
抱いていた疑問が確信に変わった。
────テオドールはレイフォードの共犯者だ。
彼はレイフォードが用意した、ユフィリアの
テオドールの存在は、あまりにも都合が良過ぎる。
大方、話し終わった
テオドールは、先程からずっとユフィリアを気にしている。
レイフォードに盲目的に付いて行く雛鳥のような彼が、目覚めたレイフォードの元に行かず、ユフィリアと話しているのが一番の証拠だった。
そんなことするくらいなら、初めからしなければいいのに。
ユフィリアは肩の力を抜いた。
恐らく、レイフォードにとって、ユフィリアが気付いていることは計算外だ。
考えてしまっては全てが成り立たなくなるから、意図的に考えないようにしていると言った方がいい。
気付かないことが前提で、この計画は作られている。
そこまでして、レイフォードは何を隠している。
何を知られたくないのだ。
あの秘密主義で排他的な男を、少し恨めしく思った。
外に吹く風の音が良く聞こえる。
しんしんと雪が降り出し始めた。
春も近く、そこまで大雪にはならないはずだが。
そんな余計なことを考えていれば、ずっと口を噤んでいたテオドールがやっと話し始めた。
「……ああ、えっと……そうだなあ……」
「言うなら言うで、はっきりしてよ」
「分かってるから!」
喝を入れるようにテオドールは頬を叩いた。
そして、ユフィリアに問う。
「ユフィはさ、レイくんのことどう思う?」
「どうって……」
随分と大雑把な質問だ、と文句が出そうになる。
だが、改めて言われると考えさせられるものだ。
レイフォードと描いた二年の軌跡、長く短い夢の日々。
夢は醒めるものだ。
生命あるものは、永遠には眠れない。
永遠に眠ることは、即ち『死』を意味するから。
刹那の空想、存在しない
それでも、永遠を願わずにはいられない。
夢を現実に、
「……『悪い人』だとは思うよ。
嘘吐きだし、大切なこと何一つ言わないし、隠し事も多いし、自分勝手だし!」
何度だって言ってやりたい。
自分勝手に世界を
だけど、今彼はそれを望んでいない。
計画を、ユフィリアに気付いて欲しくない。
それは、ユフィリアを守るためのものだから。
「……でも、それ以上に。
優しくて、暖かくて、誰かのために生きている」
本当に馬鹿だ、レイフォードは。
行き当たりばったりのお粗末な計画で、どうやってユフィリアを守ろうとしているのだろう。
しかし、それでもいいだろう。
乗ってやろうじゃないか。
彼が描いた未来に沿って、動いてやろう。
そして、君にとっての最悪な
ユフィリアはレイフォードの
君を愛する、この世界に生きる『人』だ。
ああ、そうだ。
ユフィリアは彼をレイフォードのことを
初めて逢った時から。
いや、生まれる前からそんな運命だったのだ。
どうあがいても、どう生きても、どんな世界でも。
もう、夢は醒めた。
何一つ変わらない
これから先は、ありとあらゆる事象が
だから、終わらせない。
永遠の幸福だって叶えてみせる。
ここに宣言しよう、ユフィリアの意志を。
変わらない想いを。
────この世界で誰よりも、私はレイを愛してる。
「だから、テオ。私は諦めないよ」
喩え、レイフォードが願っていることでは無かろうと、必ず願いは叶える。
それが、ユフィリアの精一杯の仕返しなのだから。
鐘の音が鳴る。
雪は晴れ、淡い日光が部屋に差し込む。
「ああ、もう! 面倒くさい、君らは!」
彼の多難は、まだ始まったばかりであった。
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