八節〈愛に何と名を付けようか〉

 筆記具ペンを紙に走らせる。

 こつりと机に当たる音、紙に引っ掛かる音が静かな執務室に響く。

 何枚目か分からない書類を書き上げ、誤字も脱字もないことを確認してから端に避けた。


 一息吐こうと紅茶茶碗ティーカップの中に入れられた茶を啜る。

 ここまでゆっくりと過ごしていると、数日前の事件が夢のように思えてくる。

 そんなはずなく、全て現実であったのだが。


 王宮に提出する書類を作成し始めて早数時間。

 終わりの見えない作業に嫌気が指しながらも、領主として与えられた仕事は熟すしかなかった。


 早く終わらせて研究結果を纏めたい。

 積み上げた実験記録の山が、今にも崩れ落ちそうだった。


 シルヴェスタは痛む頭を抑えて、書き出すべき概要、つまり今回の騒動の要旨を改めて整理する。


 首謀者は異国の男。

 しかし、証拠を含めて跡形もなく吹き飛んでしまったため、まだ断定材料が揃っていない。

 決定的に成り得るであろう証言をできるレイフォードは、未だ目覚めていなかった。


 異国の男だと解ったのは、同じく異国から来た少年と人質として捉えられていた少女。

 そしてイヴの証言からだった。


 曰く、黒一色の外套ローブを身に着けた浮浪者のような男で気色悪い笑みを浮かべているのだ、と。

 身体的特徴だけで何も分かるはずがなく、然るべき処置をして彼らからの聴取は終わった。

 少女は親元へ戻り、身寄りの無い少年は屋敷で保護されている。

 イヴも既に家に帰っていた。


 レイフォードに訊かなければいけないことは沢山ある。

 首謀者の目的や人種、所属組織。

 侵入方法や思想。

 そして────あの魔物たちのこと。


 新種と、イヴが目撃した『人を元にした魔物』。

 前者は兎も角、後者に関しては確実に関係している。

 人が魔物へ変性する事例は過去にいくつかあれど、それらは魔物の血による汚染状態を長時間維持し続けたことによって起こったものだ。

 今回のように、即座に魔物へと変性した事例はない。


 要因は恐らく、短剣に塗られていたという黒色の液体だ。

 魔物の血を何らかの方法で加工し、濃縮したものと考えるのが妥当だろうか。


 溜息を吐いて天を仰ぐ。



「情報の無い状態で、考察をしても意味がない……か……」



 レイフォードの証言自体でいくらでもひっくり返せる。

 彼が起きない限り、脳内議論は進まない。

 早く目覚めてくれないか、と願ってしまう。


 だがシルヴェスタとしては、レイフォードの父親としてはあれほどの怪我を負ったのだから、まだ当分眠っていてほしいと考えていた。


 全治三か月。

 手足に何らかの障害が出ることは間違いなく、今後まともに歩けるか分からない。

 レイフォードの治療を担当した医師は、そう言った。


 神秘を使用して治療できれば、そんなことはないのだが、レイフォードはそうすることができない。

 自身の治癒力に頼る他なく、治癒力だけでは限界がある。


 外部からの干渉を受けられない体質というのは、こうも面倒なものなのか。

 幼き日を思い返しても、シルヴェスタはここまでではなかった。

 精々、精霊術の師を探すのに苦労したくらいだ。


 我が子が苦しんでいる。

 だと言うのに、自分は何もできやしない。

 不甲斐なさと、もどかしさに苛ついてしまう。


 視界の端に、レイフォードのために買った手袋が入った包装箱が目に付く。

 右手の聖印を隠せるように、と特注オーダーメイドで作らせたそれは、穢れを知らぬ純白だった。


 人は自分とは違うものを排斥する性質がある。

 それは、シルヴェスタ自身が見を持って経験していた。

 

 聖印────祝福保持者なんて、同世代に両手で数えられるほどしかいないのだ。

 羨望、嫉妬、恐怖。

 抱かれる感情は大体予想が付く。

 祝福保持者でないシルヴェスタが、その能力の高さで向けられていたくらいだ。

 彼らに向けられるものは、それ以上だろう。


 義務教育が始まり初等学校に通うことになれば、レイフォードはどうなってしまうのだろうか。

 いや、その前に過剰症は治るのだろうか。


 過剰症が治らない限り、レイフォードは普通に生きることができない。

 幾許かの生命を浪費することしかできないのだ。


 後二年、それも最大値であり実際にどれくらい時間が残っているかは分からない。

 シルヴェスタは、レイフォードが恐ろしく不安定で崩れ落ちそうな舞台に立っているか、改めて知った。


 一歩でも動けば奈落の底に真っ逆さまになるというのに、助けられない。

 無力さを嘆いても何も変わらなかった。


 がちゃりと無遠慮に扉が開かれる。



「どうした、オズワルド」



 旧友であり、執事であるオズワルド。

 ある用件を伝えにやってきたという。

 別の書類を書き始めていた手を止めて、彼に向き直った。

 オズワルドが口を開く。


 ────レイフォードが目覚めた。


 それは、願ってもない朗報だった。






 レイフォードが次に意識を覚醒させた時、事は既に終結していた。

 眠っていたのは冷たい石の上ではなく、暖かな寝具ベッドの上。

 目を開けて見えた景色も真っ暗な夜空ではなく、見慣れた天井だった。


 上手く回らない頭を抑えて、起き上がろうとする。

 が、全身に走る痛みに妨げられてしまう。

 思わず、口から小さな悲鳴が漏れた。


 恐らくその声を聞き取ったのだろう。

 勢い良く扉が開かれ、ある女性が飛び込んで来た。



「レイフォード様、お目覚めになったのですか?!」

「……ああ、うん。おはよう」



 年若い使用人は興奮し慌てふためきながらも、レイフォードが覚醒したことを上位使用人へと伝えに行く。

 無表情なことが多い彼女がここまで慌てるなんて、とても心配をかけてしまったようだ。


 起き抜けに溌剌さを直視したため、少し目眩がする。

 いったい、自分はどれくらい眠ってしまっていたのだろう。


 やがて帰ってきた先程の使用人、セレナはレイフォードのほぼ全身に巻かれた包帯を取り外していく。



「……うわ」

「分かります、分かりますよその気持ち」



 ちらりと見えた傷口は、肉と肉が繋がり合おうと必死で藻掻き、結果的にとても奇怪グロテスクな見た目となっていた。



「これ、何日くらいで治るの?」

「傷が癒えるのは大体三ヶ月程度のようです。

 機能回復リハビリテーションも含めると、半年掛かるかもしれないとも。

 足、動きますか?」



 セレナの問いに答えるように足を動かそうとする。



「……これ、は……」

「……どうなのでしょう」



 両者の間に微妙な空気が流れる。

 年季が経った時計のようにぎこちなく動く足。

 一応動きはするが、重い足枷が付けられているかのように上手くいかない。

 痛みもあるため、セレナが確認すれば直ぐに止めた。



「頑張りましょう、きっとどうにかなりますよ!」

「そうかな……そうかも」



 濡れた多織留タオルで身体が拭かれ、清潔な包帯を巻き直されていく。



「そういえば僕、何日くらい眠っていたの?」

「三日ですね。

 中々お目覚めになりませんので、旦那様も心配なさっていました」

「……三日……三日かあ」



 机の上に置かれた手紙は真っ白。

 匙も持てなかった手で猛特訓して書けるようになった文字は、ただの一文字も書かれていない。


 ユフィ、絶対に怒っているよなあ。

 一週間前に交わした約束を早速破ってしまったことに対して、レイフォードは申し訳無さで胸が一杯だった。

 『忘れたらお仕置き』などと釘を刺されていたこともあり、どうするべきか頭を悩ませる。



「ああ、あのレンティフルーレのお嬢様に向けての恋文ラブレターですか?」

「うん……いや、恋文ラブレターじゃないよ?!」


 

 机に置かれた手紙をじっと見続けていると、セレナが唐突に爆弾発言を打ち込んできた。

 その衝撃に思わず声を荒げてしまい、傷に響く。



「え、違うんですか。

 折角巷で人気のおまじない便箋買ってきたのに」

「貴方に買い物を任せた僕が悪かったのか……逆に何でそう思ったの?」

「……そりゃあ、まあ……ねえ……」

「濁さないでよ、気になるんだけど」



 もごもごと口ごもりながら視線を逸らすセレナに詰め寄る。

 両手を挙げて、観念しましたとでも言うように語り出した。



「儀式の日からずっとレイフォード様、かびみたいな雰囲気漂わせていたじゃないですか」

「仮にも雇用主の子どもを喩えるときに使う言葉じゃないけど、そうだね」



 歯に衣着せぬ言い様は、時々上司に叱られているそうだが直すことはない。

 『反省しているが後悔していない』とは、いつも説教を食らった後のセレナの弁だった。

 これでいて、対外的には基本真面目なのが厄介である。



「なのに、あの子と会った後から急に明るくなっちゃって。

 どんよりしていた空気がぱあっと清浄されちゃって。

 これはもう初恋・・しかないでしょ!』って感じですかね」

「待って、皆って何?」



 あ、やべ。

 セレナはそう呟いて再度視線を逸らす。

 口笛まで吹いて。



「どこからどこまでそう思ってる?

 ちゃんと答えてよ。

 目を見て、こっちを向いて、しっかり」

「あはははは。

 じゃあ水とお食事を持ってきますので、少々お待ちください」



 レイフォードがまともに動けないことをいいことに、セレナは逃げ出した。

 彼女の現在業務は既に終了しており、呼び止められる正当な理由もなく、立ち去っていく。



「あっそうだ、私は応援してますからね!

 口滑らしたこと言わないでくださいよ!」



 なんて捨て台詞を吐きながら。


 一人になった空間でレイフォードはゆっくり息を吐き、そして頭を抱えた。


 ────ユフィのことを好きだ、と思われている。恋愛的に。


 断じて違う。

 と言い切れるわけではないが、今のレイフォードがユフィリアに抱く想いは『恋愛』ではなかった。

 どちらかというと『友愛』や『家族愛』のような方面だ。


 何と言い表せばいいのか、レイフォード自身も分かっていない。

 ただ、『恋愛』ではないという心自体は明確にあったのだ。


 そして、セレナと入れ替わるように人が入ってくる。



「元気なようで何よりだ、レイ」

「父上……」



 白銀の長髪を緩く編み、垂らした男がレイフォードに近付く。

 手には包装された箱といくらかの紙、そしてペンを握っていた。


 寝具ベッドの端にシルヴェスタは座り込み、レイフォードに問い掛けた。



「身体の調子はどうだ?」

「全く、でしょうか。精々右腕と首しか動きません」



 辛うじて座れるほどの気力はあるが、寝てしまえばもう一度起き上がれないだろう。

 元々過剰症で本調子ではなかった身体が、負傷により更に不調となってしまったので、仕方のないことなのだが。



「そうか」



 シルヴェスタは淡々と相槌を打つ。

 聞く前からそう言うと分かっていたように。


 相も変わらず石像の如き面だ。


 しかし、纏う雰囲気は落ち込んだ、若しくは哀しげであった。


 そこで会話が止まる。

 シルヴェスタは床に視線を向け、俯いたまま動かない。


 心配に思ったレイフォードが覗き込むと、彼は重苦しく結んだ一文字を解いた。



「……すまない」

「どうして謝るのですか?

 父上は何も悪くありませんよ」



 唐突に告げられた謝罪の言葉に、レイフォードは動揺した。

 その意味は今回の騒動についてなのだろうと推測できても、シルヴェスタが何故謝罪する必要があるかが分からなかったからだ。



「その怪我は、俺がもっと早く襲撃に気付いていれば。

 手を打っていれば負うことはなかった」

「これは僕が勝手に動いて、勝手に作った傷です。

 父上が気に病むことはありません!」



 レイフォードは即座に反論する。

 夜中に抜け出して森に行ったことも、魔物と出会ったことも、大通りで戦ったことも。

 全てがすべて自分で選択したことだった。

 そこにシルヴェスタの非はない。

 


「それでも、守るべきものを守れなかったことは事実だ」



 それでも、シルヴェスタは譲れなかった。

 今回の件は自分の力不足が招いたものだ、と。


 確かに大半の住民は守れたかもしれない。

 

 だが、少しでも被害が出てしまっているのならば、それは自身の力が及ばなかったということになる。


 シルヴェスタは完璧主義であった。

 一縷の不備でもあれば、結果がどうであれ考え込んでしまう。

 もっとできたはずだ、もっと上手くやれたはずだ。

 悶々と思考を巡らせてしまう。


 万能感か、それとも劣等感からか。

 その悪癖は治ることはない。

 三十年以上抱えてきたものを、落とすことはできなかった。



「俺は何もできやしない。

 どれだけ武力を、精霊術を扱えたとしても。

 守れなければ何の意味もないんだ」



 懺悔するように、シルヴェスタはレイフォードの手を握る。

 恐ろしく小さな手であった。

 丸みを帯びた、柔らかな手。

 剣を握ったことも、ましてや生物を殺めたこともないような手。


 だが、レイフォードは正しくこの手で魔物を殺した。

 マチェットと短剣を握っていた。

 守りたいものを守るために。



「……お前は強いな。

 こんなにも小さいのに、俺よりずっと」

「……そんなことはありません」



 シルヴェスタとクラウディア、父と母の面影を織り込んだ少年。

 とても大切で愛おししい我が子。

 レイフォードは再び、シルヴェスタを否定した。



「僕は強くなんかありません。

 命を掛けることしかできないから、それしかできることがないから。

 一生懸命、手を伸ばすことしかできません」



 ぽつりぽつり、少年は語る。



「そこまでして、やっと守ることができます。

 でも、それで守れる人なんて片手で数えられるくらいなんです」



 強く手が握られる。



「父上は違います。

 貴方は何千人もの人々を守りました。

 凶悪な魔物に立ち向かい、責務を果たしました」

「……だが」



 納得できない、飲み込めない。

 頑張ったからと言って、取り零してしまっては意味がない。


 今回は運が良かったに過ぎなかった。

 イヴが偶然レイフォードを見つけ救ったからこそ、今生きている。

 後少しでもずれていれば、レイフォードはもうここにはいない。



「余り、自分を卑下し過ぎないでください。

 僕は貴方を敬愛しています。

 父としても、人としても」



 蒼と白。シルヴェスタが顔を上げるとその色が目に入った。



「父上は人なのです、何と言われようとも。

 だから、間違うこともあると思います。

 ですが、それに思い詰めすぎてはいけません」



 子どもだとは思えないほど成熟している。

 まるで、子どもの皮を被った大人のように。

 

 だが、レイフォードは紛れもなくシルヴェスタの子で、先日五歳になったばかりの幼子だ。



「間違えたなら直せばいい。

 一人でできないのならば皆でやればいい。

 母上だって、そう言っていたでしょう?」



 とある日、陽だまりの中で掛けられた言葉を思い返す。



 ────シルには私がいるじゃない。

 一人で何でもできるなんて嘘よ。

 間違えることなんかない、というのもね。

 だって、私たちは人なんだもの。

 だから────



「ああ、そうだ。そうだった」



 深く呼吸をする。

 霧が晴れていくように悩みが消えていく。



「ありがとう、レイ。

 そして、すまない。

 情けない姿を見せてしまったな」

「いいえ、父上はずっと格好良いですよ」

「お世辞か?」

「心からに決まっています」



 向かい合って微笑む。

 レイフォードの笑顔を見たのは随分久し振りだと感じた。

 

 やっと、シルヴェスタは置いていたものを手に取る。



「本来の目的を果たす────前に、小さな勇者への餞別だ。」



 包装箱を差し出す。

 恐る恐るレイフォードが封を開けると、中には二組の手袋が入っていた。



「もっと早く渡すつもりだったのだが……少し時間が掛かってしまった。

 それの意味は分かるな?」

「はい。これを隠すため、ですね」



 右手から上腕に掛けて刻まれた聖印を指差す。



「良し。

 屋敷の中は付けなくてもいいが、外に行くときは必ず付けるように」



 少し触っただけでも、レイフォードは手袋の質の高さに気付いていた。

 精霊術による刻印までされたそれは、汚れにくく壊れにくい。

 用意に時間が掛かったというのも納得だった。



「ありがとうございます」



 レイフォードがそう言うと、シルヴェスタは照れ臭そうに顔を背ける。

 彼の感情を探るには顔を見るより行動を参考にするのが一番、とクラウディアが教えてくれたことを思い出した。



「……事情聴取に移る。

 覚えていることを嘘偽りなく教えてくれ」



 平常心を偽って、シルヴェスタはペンと紙を持つ。

 そうして、長い戦いの記録を取るのだ。






「大丈夫、みたいね」



 クラウディアは壁に背を預けて立っていた。



「入るのは、もう少し待った方が良いと思うわよ」

「承知いたしました、奥様」



 食事を運んできたセレナに待機を命じ、その場を立ち去る。

 一時はどうなるかと思ったが、どうやら二人の仲は拗れずに済んだようだった。


 全く手の掛かる夫と子どもだ。

 そうだからこそ愛しくもあるのだが。


 レイフォードが大怪我をしたと聞いた時、クラウディアは心臓が止まったかのような感覚に襲われた。

 また、大切な人が自分の手の届かない場所に行ってしまうのではないか。

 そんな不安が頭を過ぎったのだ。


 それはレイフォードが難病を患ったことを知った時もだった。


 子が命の危険に晒されている。

 親として、それ以上に怖いことはない。

 そしてクラウディアは、レイフォードとシルヴェスタの関係も危惧していたのだ。


 二週間ほど前から、二人はぎくしゃくしていた。

 距離を測り兼ねているようだが、それ以外にも別の要素があると見受けられた。


 気に掛けるシルヴェスタと、遠避けるレイフォード。

 どうしてそうなったか。

 原因は不明であったが、煮え切らない二人にずっとやきもきしていたのがクラウディアだった。


 昔のシルヴェスタと、クラウディアの関係と重ね合わせていたのかもしれない。

 あの男はへたれで及び腰であるため、無理矢理にでも詰めてやらないと会話すらままならないのだ。


 そうだからこそ、相性が悪かった。

 前はそうでもなかったというのに。


 帰ってきてからのレイフォードは、人が変わってしまったかのようだった。

 きらきら輝いていた目は光を遮り、知を求めていた好奇心はなりを潜め、人との関わりを絶つようになった。


 病気を患ってしまった。

 そう宣告されたからという可能性もあった。


 だが、親の勘なのだろうか。

 その要素も孕んでいるが、本質は違うところにある。

 恐らく、レイフォード本人も自覚していないところに。


 しかし、それを問い質すことはできなかった。

 そもそも殆ど寝たきりであったし、無理に近寄ることでレイフォードの中で保たれている均衡が崩れてしまうかもしれなかったからだ。

 

 まだ時間が足りない、もう少し経ってから。

 そう思っていたところで、あの少女が来た。


 ユフィリア・レンティフルーレ。

 ディルムッドと、その妻カシムの子だ。

 

 彼女は何も知らないが故にレイフォードと深く触れ合い、その心の檻を開けることができた。

 無知は罪、というがこの件に至っては功であったのだ。


 レイフォードはユフィリアと出会い、また変わった。

 元に戻ったわけではない。


 だが、一人きり閉じ篭もっているよりは良い変化だったはずだ。

 何より、『初めての友達』となったようであるし。

 それがいつか、『初恋』になるのだろうけれども。


 くつくつと、セレナに届けてもらうことにしたレイフォード宛の手紙を思い出す。

 中身は見ていないが、あの二人の様子を見る限り微笑ましい内容なのは間違いない。


 

「私も、できることはやらなきゃね」



 大きく伸びをする。


 目下の心配であった二人の仲は修復された。

 ならば、後はあの大きな壁を打ち砕く準備をするべきだ。


 クラウディアは果たさなくてはいけない。

 愛しい我が子が、ずっとこの世界で笑っていられるように。

 この世界で生き続けていられるように。


 自身の全力をもって、あの子を救う。

 たった二年、されども二年。



「やってやろうじゃない!」



 怪我も治す、病気も治す。

 握り込んだ拳と意志は固かった。






 走らせていた手が止まる。



「これで一先ず終わりだな」


 

 レイフォードの知る情報は、王国を揺るがすものだった。

 特に、侵入者が所持していたという魔物の血を濃縮した液体、仮に《《濃縮黒血のうしゅくこっけつ》とする。

 そんなものがあれば、国中の混乱は避けられない。

 摂取すれば即座に魔物になってしまうなど、浄化術式使用者が周囲にいなければ死を避けられないからだ。


 魔物を人に戻すことはできない。

 黒血こっけつは生物の身体を破壊し、死に至らしめる。


 そして、その死体を変性させ魔物へと成る。

 その過程に『死』がある以上、魔物から人への変化はできないのだ。


 唯一ある可能性として『蘇生』があるが、眉唾に過ぎない。

 死者を蘇らせるなぞ、神にしかできないのだから・・・・・・・・・・・・


 もう一つ、重要な情報があった。

 レイフォードの祝福の詳細だ。

 魔物を消失させる力、《浄化》。

 研究が進めば、更なる対抗策が生まれるかもしれない。


 情報を書き留めたシルヴェスタは筆を置く。

 かたり、その音を起点に一瞬にして空気が張り詰めた。



「最後に、お前に言って置かなければいけないことがある。

 今回の件について、他人に話すことは許されない」

「それは、どういうことですか……?」



 レイフォードは息を飲む。

 先程までの真面目であったが和やかな空間が一変したことにより、肌がひりついていた。


 シルヴェスタが口を開く。

 それは、信じられないことであった。



 ────俺やお前、イヴなどの特例を除き、国民の記憶を抹消したからだ。



「どうして、そんなこと……」

「国を守るために必要なことだ」



 国を守るために記憶を消す。

 そんなことが許されていいのだろうか。


 シルヴェスタは言葉を紡ぐ。

 本来ならば、レイフォードも記憶抹消対象であったこと。

 異常な源素量による干渉力の差により、実行できなかったこと。

 緘口令が敷かれていること。

 不都合な部分は辻褄を合わせていること。

 一連の流れは国家主導であること。


 そうして、彼は疑問を呈した。



「お前は、何をそんなに気にしているんだ?」

「だって……許されるわけが」



 理解できない、とでも言うようにシルヴェスタは言い放った。



「知らない方が幸せなのだから、そうする方がいいだろう?」



 レイフォードの中で二つの感情が渦巻く。

 シルヴェスタの論を肯定するものと、否定するものが。


 おかしい、はずなのだ。

 人為的な記憶の操作は、自然の摂理から飛び抜けている。

 忘却は悪いことではない。

 辛い記憶を忘れたいと思うことは正当である。


 しかし、それを外部が強制的に行うのはいけないことだ。

 意思が歪まされていることになる。


 だと言うのに、レイフォードは肯定しようとしている。

 否定しなければいけないはずなのに。


 いや、違う。

 否定しようとするほう・・・・・・・・・・・・・・・がおかしい・・・・・のだ。

 レイフォードの中の倫理観は影響を受けている。

 記憶の中の、■■■の影響を。



「よく分からないが、何かあったらいつでも来てくれ」 



 そう言ってシルヴェスタは寝具ベッドから立ち上がり、部屋を退出する。

 入れ違うようにセレナが食事を運んで来た。



「どうしたんです、レイフォード様?」

「……ああ、いや。何でもない」



 冷たい水と擦り下ろされた林檎。

 悩みも共に流し込むように飲み下す。


 この国アリステラにおいて、レイフォードの方が異常なのだ。


 愛故に歪む。愛故にいびつになる。

 全ては愛ある故に、守るために歪んでいく。


 永遠のアリス理想郷テラ

 代償の無い永遠の理想なんて存在しない。

 歪めて円環となることで造られた永久機関。

 

 絶対的な法則ルールに守られて、今日も平和は守られ続ける。

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