六節〈流星煌めく夜空〉
少年は一人座り込んでいた。
大通りにいる者たちから見えないように、曲がり角に身を隠して。
不明瞭な会話が聞こえてくる。
顔を出さないように気を付けて覗けば、一人の男と二人の少女────と思っているだけで、実際は少年と少女である────がそこにいた。
少女のうち、金色掛かった白髪の方は少年の命を救った者であった。
名も知らぬ少女。
自分とそう年も変わらぬ子ども。
『神様』とも思えた強さを誇るその少女は今、両足を貫かれ地に伏せている。
少女は、それほどまでに弱かっただろうか。
いや、違う。
もう一人の少女を人質に取られているから、彼女は下手に動くことができないのだ。
凶悪な怪物をも討ち果たした少女が成す術も無く、されるがままとなっている。
絶体絶命の状況。
誰もが助けようと思うだろう。
誰もが立ち上がろうと思うだろう。
しかし、少年はできなかった。
助けることも、立ち上がることも。
座り込んだまま動けない。
恐怖。
ただそれだけが、少年の心を支配していた。
身体が震える、背筋が凍る。
ずっと膝を抱えて蹲っている。
情けないとは分かっているのだ。
でも、身体が動かない。
動きたくても動けない。
あの少女はこの恐怖に打ち勝って、少年を助け出したのだろうか。
偉大な背中が目に焼き付いている。
自分の手を牽いて暗い森の中を駆けていく背中が。
少年は、あの少女が囮となっているうちに町へ辿り着くことができた。
森を抜けて、血の滲む足で草の禿げた道を走っていると、大きな外壁が目に入る。
その壁の上は火が灯っており、人影がいくつもあった。
それらは少年を捕捉すると、外壁から飛び降りて少年の元へと駆け寄ってきた。
僅かな鎧を着けた者たちが少年を取り囲んでいる。
帯剣しているところから、騎士なのだろうと推察できた。
彼らは口を動かして言葉を発しているようだが、少年にはその意味が分からない。
使用している言語が違うからだった。
少年は見て分かるほど外の住民だ。
髪は夜空と流星を、瞳は抜き身の剣を思わせる。
特徴的な腕と腰の二対の翼は髪と同じ色で、膝から下は鳥類と同様の逆関節。
耳はなくただ穴が空いているのみ。
少年は大陸に少数存在する種族、《翼人族》であった。
翼人族は王国には存在せず、王国と外では使用している言語がかなり違う。
それこそ、生きている世界が違うほどに。
それはその者たちも承知していたようで、数分もすれば理由は分からないが、互いの言葉の意味を理解できるようになったのだった。
「君、どうしたんだい?」
優しい声色で、大人のうちの一人が目線を合わせて少年に問い掛ける。
焦りと疲れで渇ききった喉と不自由な語彙で、少年は一生懸命言葉を紡いだ。
「……襲われた、森の外。
走って逃げた、追い付かれた。
助けてもらった、女の子」
「……その女の子はどこに?」
森を指差す。
未だ、あの少女は戦っている。
少年を逃がすために。
騎士たちはざわついた。
少年の言っていることが本当であれば、まだ領域の中に誰かいるということになる。
一刻も早く救出しなければいけないが、上官の指示も無しに動くことはできない。
彼らができるのは、傷付いた少年を保護し、治療することだけだった。
「そうか、教えてくれてありがとう。
ここまでくれば安心だ。
安全な場所に連れて行くよ」
驚くほどに軽い少年の身体。
骨と皮だけとも言っていい貧相な肉体を抱え、騎士たちは町へと戻る。
この少年の治療と、不可侵とされている精霊領域に踏み入ったその『女の子』の情報を持ち帰るために。
抱えられた少年は、安心したからか身体からすっと力が抜けていった。
同時に意識が遠くなっていく。
極度の緊張状態から緩めば、休息状態になるのは当然のことであった。
まだ幼い少年の場合は尚更だ。
何週間も寝られていなかったはずなのに、どうしてかすんなり寝ることができる。
それどころか、死の大地に入り込んだときからずっと調子が良いのだ。
肩の荷が降りたような軽さ。
負傷し、疲労していても分かるそれの理屈は未だ不明であった。
しかし、調子が良いから眠らなくていい、というわけではない。
腐乱臭も
寧ろ、積極的に寝たい。
目蓋が降りていく。
心地良く揺れる騎士の腕の中で、少年は眠りに就いた。
数時間後、少年の性能の良い耳は微かな物音に反応し、意識を覚醒させた。
隣にいる誰かが動いているらしい。
眠りたいという願望と確認したいという好奇心の狭間で揺れ動いていると、その者は立ち上がって外に歩いていく。
ふらついた足音から、どこか怪我しているのだろうと見当が付いた。
鼻をつく薬草らしきものの臭いからしても、ここは診療所なのだろう。
足音は段々遠ざかっていく。
少年がやっと目を開けた時には、その主は既に出入り口に手を掛けていた。
ぼんやりした視界が捉えたのは小さな背中。
少年の手を牽いてくれた少女の背中。
見間違えるわけがなかった。
少年は飛び起き、少女の後を追う。
足裏の傷が痛むが、気にしている暇は無い。
木製の床を蹴り、外開きの扉を開ける。
相変わらず外は真っ暗で、街灯の僅かな光しか存在しない。
少女はふらふらと壁に寄り掛かりながら、どこかを目指しているようだった。
話し掛けようにも言葉が伝わらないことを思い出した少年は、ただ後を追うことしかできない。
そして、
手も足も出ず嬲られ続ける少女。
彼女はまた、人を救けようとしている。
自分を犠牲にしてまで。
少年は動けない。
恐怖という名の糸に雁字搦めにされて。
震える身体は
あるべき
何も見えない暗闇に閉じ籠もって、脅威が去るのを待っている。
どうすれば、自分は強くなれるのだろう。
自分とそう変わらない少女のように、強くないのだろう。
理由は何となく分かっていた。
結局のところ、必要なのは『勇気』だ。
どんな壁でも立ち向かえる勇気。
少年にはそれが無い。
情けない、意気地なし。
少年は、そうやって自分を罵る。
首に嵌まった鉄の輪がやけに冷たい。
ぐっと締め付けられている。
締め付けられているから息ができない。
息ができないから苦しい。
苦しいから辛い。
ずっとずっと、負の要素ばかり。
正の要素なんてものはなく、延々と零から引かれ続けている。
銀でなければいけない翼は黒く、顔には悪魔の印が刻まれ、身体は異形に近過ぎる。
『呪い子』で『悪魔憑き』。
そう貼られた
だが、だが。
そのまま閉じ籠り続けて良いのだろうか。
逃げ続けていいのだろうか。
否、良いわけがない。
変わりたい、こんなに醜い自分から。
欲しい、彼女のような強さが。
「君には消えてもらう」
男の声が聞こえた。
少女に対する殺意と悪意が込められた声が。
少年は手を伸ばす。
大きな
希うは力。
ある少女を助けるための力。
それは、少年の腕と背にあった。
できる、今の自分ならば。
少年は確信していた。
流星輝く夜空を目一杯広げれば、小さな身体は容易く宙に浮き、天高く舞い上がった。
眼下に見える脅威に身体が震える、心が怯える。
しかし、もう少年はそんなことで挫けることはない。
決めたのだ、この手と翼に。
少女に牽かれた手と、自分の象徴たる翼に。
────今度は君を助けてみせる、と。
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