三節〈英雄は遅れてやってくる〉
右手に伝わる、温かな熱。
繋ぐ手の主が生きていることを証明する温度。
大丈夫、生きている。
彼は死なない、死なせない。
レイフォードは、そう自分に必死に言い聞かせて全身の震えを抑えようとする。
思い出す、ある二人の最期。
撒き散らされた脳漿と臓物。
砕かれた脊髄と幾千もの骨。
撒き散らされた緋に染まった世界。
遺ったのは、握っていた彼女の手だけ。
臭いが、音が、景色がこびり付いて離れない。
また、繰り返すのは嫌だ。
誰も失いたくない。誰も奪わせない。
今度こそ、絶対に。
そうして、暗闇の中を走って────視界の端に何かが横切った。
少年を引き寄せ、押し倒すように突き飛ばし姿勢を低くする。
刹那、頭上を通る風切り音。
それは、鞭を素早く振った音に酷似していた。
また新たな魔物か。
そう考えたレイフォードは起き上がり、周囲を見渡す。
しかし、どこにもその姿はない。
気のせいだったのか。
いや、そんなことはない。
確かにあれは殺意と質量を持った攻撃だった。
決して幻覚、幻聴などではない。
現に、この空間に魔物のいる気配がしている。
走っているときは感じ取れなかったが、確実に周囲にいる。
ならば、何故見えないのだろう。
その答えは直ぐに導き出された。
「……そこ、か!」
レイフォードの右斜め前、二時の方向の空間が歪む。
その歪みの中心には朧気な球体────魂があった。
そこを狙い、踏み込んで右手に持った
はっきりと感じる手応え。
同時に不可視であったそれの姿が顕になった。
大凡人型だ。
魔物の特性である真っ黒な全貌。
眼孔が露出し、長い二つの突起がついた頭部。
刃物を模して鋭く尖った手足。
特筆すべきは体長の倍ほどある尾だ。
円錐状の先端は槍のようであり、至る所に付いている返しは、刺さってしまえば抜くことは難しいだろう。
反撃を喰らう前に後退し、少年の近くへ移動する。
人型ならば知性も相当に高い。
昔読んだ魔物の図鑑には、そう書かれていた。
だが、倒せないことはない。
動きを止めれば、レイフォードの勝利は確定する。
時間は掛かるだろうが、魔物を殺すこと自体は難しくないのだ。
難点は、少年を守りながら戦うことだ。
前の魔物は挑発すればレイフォードだけを構っていたが、この魔物はそうはいかないはず。
明らかに戦闘能力があるレイフォードと少年、どちらが狙い易いかなんて分かりきったことだった。
このまま、ただ戦っているだけでは、やがて少年が殺されてしまう。
もしくは魔物の大群に追い付かれてしまう。
そうなってしまえば、意味がない。
かと言って、不可視の魔物を即死させることもできない。
深呼吸して、思考を落ち着かせる。
レイフォードの今の目的は、少年を生かすことだ。
ならば、やるべきことは一つだった。
「
足元の少年を叩き起こし、森の出口を指差して捲し立てた。
森を出れば、直ぐにクロッサスが見える。
そこまで少年が逃げ切れば、門番や住民が助けてくれるはずだ。
少年はレイフォードのことを気にして、立ち上がっても直ぐに走ることができない。
言語が通じなくても二人の意思疎通はできていた。
示した先が目指す道であること、一筋の希望であることは解っていたのだ。
そして、レイフォードが足止めをして少年を逃がそうとしていることも。
その隙を逃さず魔物は再び攻撃を繰り出す。
今度は手足による切り裂き。
レイフォードへの意趣返しのように、一直線に向かってくる。
刃を寝かせ、勢いをいなす。
受け流せても手が痺れた。
まともに受ければ、腕が持っていかれるだろう。
「
レイフォードは、翼の生えた背を押す。
少年は一瞬振り返るが、意を決して走り出した。
獲物が逃げた、とでも言うように魔物は少年を追い掛けようとする。
みすみす、許すわけにはいかない。
「お前の相手は、こっちだ!」
魔物の手足は、切断力を上げるためか非常に薄い。
当たればこの
問題はどう当てるか、だ。
透明化能力は“眼”があるから無視していい。
集中すれば体内に巡る源素も視える。
最大の長所を潰せば、残るのはあの手足のみ。
長い手足は遠距離にいる相手には丁度良いが、近距離の相手では些かやり難い。
自分をまとめて斬ってしまう可能性があるからだ。
だからこそ、至近距離では攻撃し難いはず。
恐らく
意表を突いて、あの胴体に
一回だけなら、多少の無茶も許容範囲だ。
殺してしまえば、それで終わる。
再び向かってくる手足をいなし、魔物に肉薄する。
泥濘んだ土を蹴って、姿勢を低くしつつ
────いける。
魔物が腕を振る速度、それよりもレイフォードが刺す速度の方が早かった。
人であれば、心臓のある位置を刃が貫く。
そして、祝福を発動させた。
浮かび上がる光の粒子。
瘴気を滅する浄化の光が、魔物の身体を灼く。
金切り声を上げたそれは、最期の悪足掻きに自分をも顧みず手足を振り回した。
時間にして三秒。
たったそれだけの短い時間だが、人の軟な身体を傷付けるには十分だった。
レイフォードの右頬に深い切創が刻まれ、血が流れ出す。
一瞬の攻防だったにも関わらず、ここまで深く傷を付けるのは、流石魔物といったところだろうか。
「……死んだ、か」
魔物の全身が光となり、跡形もなく消失する。
そしてまた、ことりと透明な石が落ちた。
強靱な怪物であっても、条件さえ揃えばレイフォードのような小さな子供でも殺せる。
余裕の勝利までとは言えないが、できるものはできるのだ。
一対一に限った話ではあるのだが。
「……追いい付かないと」
レイフォードは、今にも崩れそうな脚で少年が向かった方向へと歩み出す。
彼はどこまで遠くに行ったのだろう。
そうやって、安心していた。
一つの戦闘が終わり、命の危機は去ったと誤認していた。
こんな身体でも二体倒せた、と油断していたのだろう。
だから、魔物が本当に一体であったのかも、増援の存在も確認しないまま背を向けた。
戦場で的に背を向けることは死と等しいというのに。
────死角から、太い尾が鳩尾にめり込んだ。
肺の空気が全て抜ける。
宙へ浮き上がった小さな身体は勢いそのままに吹き飛んで行き、木の幹に打つかって停止した。
激しい振動、痛み、衝撃。
意識を手放しそうになるも、歯を食いしばって耐える。
「……な、んで」
何が起こった。
揺れる視界で見えた先には、倒したはずの魔物が立っている。
いや、あれは確実に倒した。
消滅だって確認した。
きちんと核も落ちていた。
つまり、あれは増援。
もう一体の魔物なのだ。
見えていなかった、視ようとしなかった。
自分の短絡的な思考に嫌気が刺す。
だが、後悔していても意味は無い。
今はどう切り抜けるかが大事だった。
指先は動く、目も見える。
しかし、身体が動かない。
もう、レイフォードの肉体は限界だったのだ。
先程の攻撃による怪我、無茶な動きをした脚、千切れかけの左腕。
たった五歳の子どもが耐えられるわけがなかったのだ。
喩え、狂い壊れていようとも。
起き上がれない、動けない。
木に寄り掛かったまま。
それは、長い手足を引き摺って近付いて来た。
にたにた、笑いながら迫ってくる。
草木を踏み分けて、大人の身長を優に超える大きな身体が目の前に聳えられた。
ゆらりとそれが刃を構え、薄く鋭い刃が心臓を見据えた。
レイフォードがそうしたように。
凶刃がゆっくり迫ってくる。
世界が段々とゆっくり進み始める。
ここで、死ぬのだろうか。
静かな暗い森の中で心臓を抉られ、死に絶えるのだろうか。
脳裏に浮かぶのは守りたい、愛したい人々の顔。
父、母、兄、姉、使用人たち。
そして、とある少女。
暁の瞳を持つ少女。
レイフォードが死ねば、彼女が哀しむ。
手紙の約束もまだ果たせていない。
彼女にだけは嘘を吐きたくないのだ。
あの少女の笑顔だけは、絶対に守らなくてはいけない。
だから、まだ死ねない。
まだ生きなければいけない。
ここで死ぬわけにはいかないのだ。
数
掴んでいる手に刃が食い込み、血が流れる。
それでも、この手は放さない。
この手を放すことは、即ち生を諦めたということになる。
しかし、徐々に刃は心臓へ歩を進めていく。
決死の力と言えど、瀕死の子どもが出せる力など限られていた。
どうしたらこの状況を切り抜けられるだろう。
魔物本体は遠く、足は動かない。
腕も上がらず、浄化の力も上手く働かない。
なら、何だったらできるというのだ。
レイフォードの手札は、もう無かった。
時間切れだ、と刃が胸を突く。
今にも突き刺そうとする。
死は直ぐそこにあった。
今にもレイフォードを連れて行こうと、手足を、首を、心臓を掴んで放さない。
あるべき眼球が存在しない眼孔を睨みつける。
縦に裂けた口がにやりと弧を描いていた。
魔物は油断していたのだ。
この獲物は確実に殺せると。
自身より遥かに小さく、か弱い生物が反撃できるわけがないと。
それ自体は正しい思考だ。
レイフォードには、魔物を殺せる手段は残っていない。
ただひたすら死ぬまでの時間を延ばすことしかできなかった。
だが、逆に言えば時間を稼ぐことはできるのだ。
歴史は繰り返すものだ。
一度犯した罪を何度も犯し、それを直そうとしない。
加えて、因果応報や自業自得などという言葉だってある。
自分の行動はやがて自分に返ってくるのだ。
つまり、魔物は先程のレイフォードと同じだった。
「────間一髪、か」
黒い液体が宙に舞う。
心臓を狙っていた手足は両断され、地に落ちた。
一拍遅れて響く、魔物の叫喚。
ありえないとでも言うような悲鳴。
闇夜に輝く、魔物の血液に濡れた銀剣。
飾り気のない無骨なそれを握る人影。
「やあ、キミ。遅くなってごめんね」
凪いだ湖の水面のような青み掛かった白髪と、燃えるような赤い瞳を持つ、隻眼隻腕の女性。
レイフォードは彼女を知っていた。
寧ろ、この国で知らない人は殆どいない。
彼女の名はイヴ・サルクウォント。
王国史上最大であった十四年前の厄災討伐戦。
その最前線を張り、《厄災》を討ち滅ぼした英雄その人だった。
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