二章【翼無き鳥希う夜空】

一節〈鏡花水月、雪上加霜〉

 冷たい。寒い。


 そんな感情を抑えつけて、少年は濡れた木製のタイルから焦点を離さない。目を隠すように伸ばされた長い黒髪から、埃っぽい水が滴っていた。


 周りには同年代の少年少女が十数人。中でも数人は、掃除で使用した冷水入りのポリバケツを持っていた。そのうち一人が振りかぶり、水ごとポリバケツを投げつけた。五リットルほどの質量が少年を襲う。


 俯いていた少年は投げ出されたバケツに気付くのが遅れ、運悪く頭部に直撃してしまった。当然中身も撒き散らされ、埃と汚れに塗れた水で再度ずぶ濡れになる。


 脳を直接揺らされた衝撃で、少年は床に伏せた。世界が廻って、身体に力が入らない。


 残りの数人も次々と少年へ向けて投げつける。ばしゃりばしゃりと水飛沫の音、からんからんとバケツが落ちる音が鳴った。


 横たえた少年の頭を誰かが踏み躙る。大きな足に力を込め、側頭部を押し潰すように。その恵まれた体格から繰り出される力は、少年を苦しめるには十分過ぎた。


 だが、少年は何も反応しない。死体のように何も声を上げない。口から微かに漏れる吐息が、少年が生きていると証明するただ一つの証拠だった。


 反応を見せない少年に飽きたのか、それともずっと踏み躙り続けてもつまらないと思ったのか、今度は鳩尾を狙って抉るように足を振り抜いた。

 少年が他人よりいくらか小柄だったことに加え、蹴る力が強過ぎたことにより、少年の体は吹き飛んで背後にあった棚に激突した。


 棚ギリギリに配置されていた本棚からいくつもの本が落ちて来る。中には図鑑などの大きく厚い本もあった。

 何度も蹴られ殴られた痕に本の角が打つかる。少年は誰にも聞こえないほどに小さく、くぐもった悲鳴を上げた。


 無様な少年の姿に群衆は嗤い出す。けらけら、けらけら。そんな声しか耳に入らない。止めようと思う者は誰もいない。


 蹴り飛ばした少年が、足を踏み鳴らして近付いてくる。襟を掴んで引き摺るように持ち上げ、泥のように濁った少年の瞳を一瞥すると、ある言葉を吐き捨てた。



 ────なんで、お前はまだ生きているんだ。


 

 ぼくだって知りたい。なんでぼくがまだ生きているのかって。


 少年は分からなかった。どうして自分がまだ生きているのか。どうして彼ら彼女らが死ななくてはいけなかったのか。教えてくれる者は誰もいなかった。






 幾許か乾いた服で、少年は帰路に就く。施設では少年の妹が帰りを待っている。両親を亡くした二人にとって、お互いが唯一の肉親であった。


 玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、いつも妹が待っている遊び場へと向かう。ぼろぼろのランドセルを背負って、少年は妹の名を呼ぶ。

 だが、その声は届かない。そもそも音として成立しなかった。理由は単純明快、少年は口を開閉させるばかりで喉を震わすことができなかったからだ。驚愕とも絶望とも取れる心の中、少年は一直線に駆け出した。


 閉ざされていた扉を開けて目に入った光景は、少年が懸念していた事態だった。


 何人かの子どもが少女を取り囲み、心無い言葉を浴びせている。いくつかの言葉は分かっていないようで幼い少女は首を傾げていたが、それでも自分に向けた言葉の意味を理解していた。

 目を潤ませ、口を横一文字にして膝を抱え込み続ける。助けに来てくれるであろう兄を待って。じっと、耐え続けて。


 一際強い言葉を浴びせていた少女が遂に大きく腕を振り上げて、縮こまった少女を打とうとする。

 そこで間一髪、少年が駆け付けた。振り下ろされる手と妹の間に割り込み、代わりに打たれる。長く伸びた爪が頬を切り裂き、そこから微量の血が滲み出す。


 そんなことを気にもせず、直ぐさま少年は妹ばかり気に掛ける。泣き出す妹を腕の中に隠し、怪我がなくて良かったと安穏した。


 自分たちを除け者にするような、そんな態度が気に入らなかったのだろう。学校と同じように、施設の子どもたちは少年に暴力を振るう。自分より年上でも、自分より年下でも、構わず怒りをぶつけ続ける。



 ────お兄ちゃん、大丈夫?



 そう心配する妹を宥めるように、少年は優しい声で返答する。何も憶えていない少女が思い出させないように、知らせないように、耳を塞いで。


 自分だけが知っていればいい。自分だけが憶えていればいい。罪を背負うのは自分だけで十分なのだから。






 暗闇の中、鏡を見ながら裂かれた頬を消毒して絆創膏を貼る。化膿したら妹が悲しむから、と少年はきちんと手当をしていた。誰もしてくれるわけがないから、一人で。

 ここ一か月ほどで随分と上手くできるようになったものだ。いつになっても貼るのが下手くそで、よれよれになってしまう少年の代わりに貼ってくれていた母はもういない。


 葬儀も終わり、四十九日も過ぎた。世間を騒がせた大事件はもうニュースになることはない。あと十か月と少しが過ぎて一年経てば、一周忌だとでも言ってまた穿り返されるかもしれないが。


 今日はバレンタインということもあり、浮ついた空気がどこでもあった。少年が来た途端に霧散してしまうが、それでも大多数の空気は幸せそうなものであったのだ。


 恋人、友達、もしくは家族でチョコレートを贈り合い、その甘さに舌鼓を打つ。少年とは今はもう殆ど無縁なものだ。強いて言えば、妹に小さなチョコレート一つを上げたくらいだろう。


 真っ暗な空間を、音を立てないように歩いていく。子どもたちが寝静まり、人気のない深夜にしか少年は手当をすることができなかった。

 部屋に鏡はないし、部屋から一歩外に出てしまえば悪意に晒される。無用な争いを防ぐためにも少年は部屋に篭り、誰もいない時間に動くことにしていたのだ。


 ふと、廊下の先を見れば、非常用の電灯による明かりしかない空間に強い光が指している。短針が十二を越えたこの時間は、職員も子どもも基本床についているはずだ。子どもが起きているわけないだろうから、職員の誰かだろうか。


 ゆっくりと光源に忍び寄り、壁に寄り添って聞き耳を立てた。光が点いていたのは食堂の一角。廊下よりの机の真上であった。

 聞こえてくるのは男女二人の職員の話し声。他愛もない会話を、食いそびれたらしい夕飯を咀嚼しながら続けていた。


 なんだ、と拍子抜けした少年はその場から離れようとした。その単語が聞こえるまでは。



 ────あの兄妹、本当目障りで仕方がないわ。妹だけならまだ良いのに。



 呼吸が止まる。女性の言った兄妹は自分たちのことだ。この施設には自分以外には兄妹はいない。いても姉妹だった。

 いや、しかし別の兄妹の可能性だってある。職員たちの世界は、この閉じた施設の中だけというわけではないのだから。


 少年は愚かにも居続けてしまった。まだ、ここで生きていいという安心感を得るために。そんなものないと分かっていたはずなのに。



 ────人殺しと一緒に生活するなんて、気が狂いそうだ。だって、いつ殺されるか分かったもんじゃないだろう。



 男性の恐怖と嫌悪が滲んだ声がはっきり耳に入る。小さく開いた口から乾いた笑いが漏れた。やはり自分のことだったのだ。

 音を立てることを構わず、少年はその場から逃げ出した。


 扉の外から聞こえた音に、職員たちは慌てて扉を開けた。暗い廊下を走り去って行く小さな影が一つ。目指しているのは玄関であるようだった。






 心の底で誰か分かってくれるかもしれないと思っていた。大人だったら自分たちの事情も分かってくれるかもしれないと、あるはずのない希望を抱いていた。だが、その希望は叩きつけられた硝子の如く砕け散る。


 サイズの合わないスリッパが足から抜け落ちた。そんなこと知るものかと裸足で駆け出して行く。

 建付けの悪い引き戸を勢い良く開けて、少年は外へと飛び出した。降り積もる雪を蹴って、宛もなくどこかへ向かっていく。


 今夜は電車も止まる大雪だと、先程の会話の中で職員がぼやいていた。その通り十センチメートル以上、つまり足首上まで積雪していた。未だに大粒の雪が振り続け、厚い雲が空を覆っている。


 冷気が容赦なく襲った。薄着で裸足という、真冬に外に出る格好ではない少年は、直ぐさま凍え始める。

 だが、足を止めることはなかった。止めてしまえば、再び歩き出すことはできないと直感的に分かっていたから。


 十分以上走り続けた。息も切れて、足は霜焼けて、遂にばたりと倒れ込む。柔らかな新雪が少年を包んだことで、倒れた衝撃は殆ど来なかった。体温によって融けた雪が少年を濡らすことがなければ、良い寝床になっただろう。


 このまま寝てしまえば、死ねるのだろうか。


 感覚が無くなっていく指先を見つめて、少年はふとそう思った。目蓋を閉じて、呼吸を止めて、雪に身を任せれば自身は永遠の眠りに就けるのだろうか。


 少年は試してみることにした。目を瞑り、息を止め、雪に沈む。冷たい。寒い。痛い。

 でも、それらが自分を救ってくれる要素だと考えれば、不思議と怖くはなかった。


 あと、もう少し。そんなところである音が聞こえてきた。何かが流れる音だ。

 どうしょうもなく気になって、目蓋を開けてしまう。呼吸をしてしまう。

 音の方向を探せば、丁度この下に川が流れているようだった。少年は気付いていなかったが、ここは橋の上であったのだ。


 放り投げていた足を引き摺り、立ち上がる。橋の柵に手を掛けて、身を乗り出した。

 水面に夜空が映し出されている。大きな月が朧気に揺らぎ、時折宝石のように光輝いていた。


 見上げれば今日の空はとても美しかった。冬は空気中の水蒸気や塵が少ないから、空が綺麗に見えるんだったか。昔父が話していたことを思い出し、感傷に耽る。


 鏡花水月。鏡に映る花、水面に映る月のように決して触れられないものの喩え。儚い幻想のこと。


 今の少年にとって、もう会えない家族との思い出がそうだった。






 最期の思い出は、皆で過ごしたクリスマスイヴの夜。あるショッピングモールへケーキを買いに行った時。たくさん悩んで選んだホールケーキを抱えて、さあ帰ろうと出口を目指した。

 幸せ、だったのだ。大切な人と日々を過ごすことが、隣で歩くことが、宝物だったのだ。


 その幸せも、一瞬にして奪われてしまった。一発の銃弾。それは少年たちの横を通って、ある女性の脳漿を貫いた。

 その女性は、少年たちの知り合いであった。同じクラスのある、体格の良い少年の母親。


 血飛沫を上げて女性は倒れ込んだ。後に聞いたところ、即死だったらしい。

 事態をいち早く理解した人々は叫び声を上げる。その凶弾の主から逃げようと、一目散に出口を目指した。

 だが、逃げられなかった。何らかの方法を用いて、出口は完全に固定されていた。窓も、非常口も全て。地獄から逃げることは不可能だった。

 

 そこからはワンサイドゲームだ。次々と放たれる凶弾に倒れ、数百人が死亡した。少年と妹だけを遺して、あの時ショッピングモールにいた者全てが。


 今でも人々の絶叫が耳にこびり付いている。



 ────穢れた人間という檻から直ぐに解き放ってあげましょう、我が主。



 そう、少年に語る顔が忘れられない。嗤って、叫んで、狂信者は引金を引き続ける。黒鉄が鈍く光っている。やがて、それが両親の脳を貫いて遺された妹に射線を向けた時、少年は────


 




 手が震える。寒さか、あの時の恐怖か、理由は分からなかった。


 震える少年の下で月は爛々と光り続ける。下にあるはずなのに、見下しているようなその妖しく美しい月に、少年は魅入られてしまったのだろう。

 こちらにおいで、と月が手招いている。星々が少年を迎えに来る。何の抵抗もなく、少年は招待状を受け取った。 


 低い柵を乗り越えて、雪の積もるコンクリートの端に立つ。一歩踏み出せば、身体は阻まれることなく落下していく。夜空に墜ちていくように。今なら空に手が届きそうだ、なんて滑稽なことを考えながら。


 刹那、零度に近い水流が少年を呑み込んだ。急な温度変化に意識が飛び掛ける。しかし、完全に飛ぶまではいかなかった。


 痛い。苦しい。


 足も付かない水の中、少年は沈んでいく。朧気な意識の中、水面に映る星月に手を伸ばす。

 だが、それは届くことはない。届くはずがないのだ。全て幻想であり、全て偽りなのだから。

 可笑しかっただろう。どうして星が見える。どうして月が見える。空は厚い雲で覆われて、雪が降り続けている。そんな環境で星月など見えるわけがなかったのだ。


 自分だけが見たかった幻想の空を見て、奈落へと沈んでいく。


 ■、■だけは幸せに生きられますように。


 無責任な願いと共に、少年は死へと誘われる。ただ一人の肉親を遺して、身勝手に。


 でも、もう少し。あと少しだけ生きられたら。


 幽かにあった生への執着。遺してしまった妹への未練。それらを見逃さない者がいた。

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