終焉のハキリアリ

夜渦

終焉のハキリアリ

「ハキリアリの歌ってあったな」

 ふとつぶやいた声が思ったよりも反響してしまい、私は慌ててあわあわと言い訳をするように手を振った。あまりに脈絡がなさ過ぎる。しかしすぐに今居る場所を思い出した。視界に人はいない。片側二車線の通りがひたすら伸びるばかりで、気兼ねをする必要などなかった。念のため立ち止まってぐるりと周囲を見渡してみるが、当然人の気配はない。おそらく視界どころかこの街区全体を合わせて生きた人間など一桁だろう。だってここは、現実なのだから。

 渋谷という名を持つこの街はかつては多くの人でにぎわっていたという。三十年前の記録映像では若者を中心に道を渡るのにも苦労するほどの人がいて、ビルの壁にも店舗の看板が所狭しと並んでにぎにぎしく、まるで街の空気自体がはしゃいでいるような街だった。実店舗を構えるブランドも多く、自分の足で買い物に行くのが当たり前の時代というのは何と楽しそうなのだろうと思ったのを覚えている。だがそれは過去の話で、今の渋谷にその面影はない。今目の前にあるのは無音の街だ。ところ狭しと並べられていた看板は全て取り外され、街路樹と呼ばれていたらしい植栽も全て伐採済み、建築模型のような街並みだけが残る。建物と道はかろうじて同じまま残っているが、もはや人を相手に商売をするものはおらず、信号も緊急事態用のがぽつりぽつりと立っているばかり。広い通りにはただ静寂だけがある。到底同じ場所とは思えなかった。

 そんな街を、一人歩いて行く。今日は神南のビルに拠点を置くコミュニティのシステム点検だった。この地区の担当者が仮想世界に転職してしまい、また担当地区が増えたのだ。黙々と街を歩く。仮想世界が生活の基盤となったといえど結局は現実にアンカーを打たねばならず、アンカーがある以上は人が手入れをせねばならない。皆の現実を支える働きアリのようなものだ。

「あ、珍しい」

 道の対岸に動く人影を見かけて、私は衝動的に手を振った。するとあちらもぺこりと頭を下げたようで、顔がほころぶのを感じる。灰色の作業着に大きなバックパックを背負った男性だ。この距離では所属までは見えないが、おそらく実地システムの保守点検業者だろう。同業者というわけだ。ずいぶん久しぶりに見かけた人の姿に、聞こえないのを承知で声をあげてみる。

「いってらっしゃーい」

「いってきまーす」

 片手を挙げ、答えてくれた。

 ただそれだけのことに、誰かがそこにいるということに、気持ちが高揚する。顔もよく見えなくて声も判別がつかないのに。

「今日はいい日だな!」

 足取りも軽くなる。この仕事に就いて半年ほどだが、やはり生きた人間に会うことは少なかった。実地労働者自体も数が減ったように思う。企業の拠点分散が進んでいるせいで、いくらかつての繁華街といえどここにコミュニティを置く理由がないのだ。今や人々の生活の基盤は仮想世界の中にあって、現実にあるのはシステムの保守拠点ばかりだ。自分のような現実に残って自らの足で仕事をする人間はいつの間にかマイノリティになっていた。あんなものは底辺の職業だと悪様に言う人さえいる。

 思わずため息がこぼれた。

 仮想現実の技術は恐ろしい速度で発達していったらしい。娯楽として始まったその技術は、やがて現実のあらゆる障害を超越する技術として受け止められるようになった。脳へ直接作用する経験、というのは強烈だったのだろう。仮想世界で触れる電気刺激の精度を上げれば現実と遜色がない、なんて話が本気で語られるようになった。十年も要しただろうか。人間一度そちらに流れができるとびっくりするほど流されていくものらしい。

「いや、その前は知らないけど」

 誰にともなくつぶやく。すっかり独り言が増えた。

 物心ついたときには外を出歩く人はほとんどいなかった。ちょうど有名企業が本社の機能を仮想世界へ移して、世間が現実を手放し始めたころに生まれた身だ。学校も親戚付き合いも、直接会うことの方が少なかった。

 人類の文明は肉体から解放されたのだ、と真面目な顔で語る大人がいた。生まれ持ったあらゆるしがらみをアバターなら手放せる、現実の距離を超えた交流が世界を動かす、とか何とか。そんな話を聞くたびに人間の精神性を高く評価しすぎなのではと思うし、今もそう思っている。仮想世界にダイブしたところで人は人だ。結局新しいしがらみを生み出していくだけだろう。だがあまり理解されないらしい。

 ──心を開くのに邪魔なものを取っ払うんだよ?

 相手の性別だとか人種だとか年齢だとか。人となりに触れるより先に差し込まれるバイアスを限りなくゼロにできる。友人は本気でそう信じているらしかった。

 首をかしげる友人はその日はかわいらしいピンク色の髪のアバターだった。性別設定はなされておらず、本来の顔よりも中性的に仕上げられていたように思う。実地職に転職したと言えば、きょとんとしていた。なぜわざわざそちらの仕事を選ぶのか理解できないというニュアンスだろう。少し言葉を選ぶ間があって、尋ねられた。

 ──どうしてそっちが好きなの?

 今や仮想世界は娯楽ではない。ダイブする、と表現されるだけの深い部分でつながることができる。視覚聴覚だけでなく嗅覚や触覚も直接脳が経験するため、現実のそれと同じだと言われていた。味覚だけは体が栄養を摂取する必要があるために置き去りにされているが、それもいずれ仮想世界に持ち上げてみせると研究者たちは息巻いているようだった。

 確実に世界はそちらへ動いている。人類の文明はいずれ物理を手放す。それはもはやあらがえない潮流となっているとわかっているのに、どうして自分は現実に留まろうとするのか。

「……わからないや」

 つぶやく。あのときの自分もそう答えたはずだ。

 本当にわからないのだ。この胸にあるひどく凪いだ感情が感傷なのかどうか。感性は数字じゃない、なんて言うつもりはなかった。仮想の体験も現実の体験も計測数値が同じなのだから同じ体験なのだと言われれば、そういうものかと思う。疑っているわけではない。ただ、今こうして目の前にある景色を手放すのがどこか惜しいような気がするだけだ。道の向こう側の、顔も見えなければ声も遠い誰かと交わす言葉を愛おしいと思う。隔たりを、彼我の間に引かれた明確な線を、私はきっと手放したくない。それは反骨精神でも無ければ根拠があるわけでもない、ただの何となくの衝動だ。人に到底説明しきれぬ何かだ。ゆえに。

 ──わからない。

 そっか、と困ったように言って友人はアポイントが入ったからと別のコミュニティへとダイブしていった。それを見送って自分はログアウトしたのだ。同期デバイスを外せばそこには無機質な現実が広がっていた。

 仮想世界にいる人間を馬鹿にするつもりは毛頭ないし、自分の方が正しいなんて言うつもりもない。ただ、変わってるねと言われればそうかもねと答えるだろう。変わっていることに対する負い目はなかった。

「いいんだか悪いんだか」

 ずっとそうだ。いつもブレーキがかかる。皆が一斉にそちらへ向いて歩き出そうとしているのに自分はその一歩を踏み出せぬまま、川中に浮かぶ岩のようになる。

「見たことないけど」

 この辺りを流れる川は暗渠か一級河川で、岩がぽつりと浮かぶようなものはない。ただ漠然とそういう川も存在するらしいと知識で知っているばかりだ。昔は遠足という行事で皆そろって出かけたと言うが、自分の世代はもはやそういった行事は残っていなかった。仮想世界で行われた子供向けのイベントで異国の子供たちと一緒に遊んだ。事前に送られてきた初めて聞く名のお菓子を食べながらその国の仮想エリアに行って、これが異国ですよと先生がにこにこ説明してくれた。

「あれ、何て国だっけ」

 思い出せなかった。ちゃんと空気の組成まで再現されていたのに。

 会社から支給されたキーを使って指定の建物に入る。玄関に賃貸募集中と書いた紙が貼られていて少し驚いた。生きた人間など通らない。

「ええと、何階だっけ」

 エレベーターはとうに動いていないので非常口から外階段を上がる。かんかん、と自分の足音が響いた。五階はさすがにしんどい。少し休もうと足を止めて面を上げれば、風が一陣吹き抜けて髪をさらっていった。

「ああ、誰もいないや」

 眼下に広がる街はやはり無音で、人も乗り物も通ることはない。白く色あせたような街は時が止まっているようだった。

 出生率は低下している。当たり前だ。出産は現実で行わなければならないし精神が未熟な赤ん坊を仮想世界に連れていくことはできない。現実に踏みとどまって子供を育てる、ということが今の人たちにはそう容易なことではなくなっていた。今更に政府が焦ってるそうだが、どうしてそんなことを想像できなかったのだろうと呆れさえ通り越して諦観するほかない。

「ああそっか。終わっちゃうのか」

 終わりとはゆるやかなものなのだと漠然と思った。一つの終わりが次の始まりになるかなんてわからないのだ。本当にただ、閉じていく。終わっていく。悲劇などなくともただただゆるやかに終息していく。その終息を自覚することなく、欠けたピースに気付くことなく、ならば代わりにこれを使いましょうと今あるもので補って、徐々に世界は終わりに向かっていた。

「ハキリアリの巣みたい」

 記録映像で見たことがある。高度に細分化された昆虫の社会はその中心に女王を抱いて回っている。女王を失えば滅びに向かうほかなく、その過程を丁寧に記録したものを見た。新たな働きアリが補充されないから今いるアリが本来の己の職分以外の役割を担っていく。今までと同じ日々を過ごしていく。けれど働きアリの数は減っていき、彼らの食料となるキノコ畑は崩壊していく。けれどその先にある終焉など知ることなく、アリたちが淡々と同じ日々を重ねていく姿はどこか物悲しく、しかし同時にそういう終わりもいいのかもしれないと思わされたのだ。彼らは終わりを知らない。ゆっくりと機能しなくなっていく世界に気づくことなくやがて眠りにつく。それは今自分がいる世界と何が違うのだろう。

 ──ならば。

 人類が失った女王とは何だったのだろうか。

 ふっと笑いが込み上げた。結局、わからないままだ。何かを失ったらしいとは思っても、その名を人類も自分も知らなかった。だからきっと、何も起こらないのだろう。ゆるやかに閉じていく世界で、葉を切り出して担いで、女王のいない巣へ運ぶ。同じ明日が来ると信じて今日も眠る。

「そうして」

 つぶやく。


 そうして人類は永遠の眠りについた。


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