寝ずの番
小川遼
寝ずの番
東の果てにそれはもう大層立派な街がありました。
金銀財宝。
豪華な食事。
舗装された道路。
豊かな自然に、やさしいこころを持った人たち。
その街は幸せに満ち溢れていました。
どうしてあの街はそんなにも栄えているのだろう?
近くの森の木こりさんがあるとき気になって街の大きな門を守っている番人さんに話を聞きに行きました。
すると、番人さんは。
「どうして栄えているかだって?そんなのは秘密に決まっているだろう。お前みたいなよそ者には教えることなど何もない。さあ帰って自分の生活に戻るんだ」
大きな体は天を衝くようで大人も泣き叫びそうな怖い顔。それに腹に響くような低い声でそんなことを言われてしまっては木こりさんはもうどうしようもできません。肩を落とし来た道を戻りながらそれでも心ではあの街のことが気になって気になって仕方がありませんでした。
あの門番の野郎が居ない時を見計らってこっそり街に入って幸せの秘密を、繁栄の秘訣を暴いてやろう!しかし今日はもう日も落ちている、しっかりと体を休めて明日は朝からあの門を見張ってやる!
朝が来て。
夜が来て。
木こりさんはあの大きな門の脇にある茂みに身を隠し、張り切ってその時をただじっと待ちました。
でも。
おかしなことに何時になっても門番さんは持ち場を離れることはなく、たまに門のそばにある小屋の中に引っ込んだと思うとすぐに出てきてさっきと何も変わらない顔で石のように持ち場につきました。どうやらそこが門番さんの定位置のようです。
木こりさんはめげずにまだ待ちます。
額の汗をぬぐいながら。
畜生。あの野郎、全然持ち場を離れやしねえ。仕方ねえ、もう少し待ってみよう。
朝が来て。
夜が来て。
朝が来て。
夜が来て。
地面のひんやりとした冷たさと滴る夜露で気がついた木こりさんどうやらぐっすりと眠ってしまっていたようです。
木々はざあざあと波うって。
真夜中の黒々とした森は嗤っているかのようです。
眠気まなこをこすりながら門の方を見遣ると、なんとそこに門番さんの姿は見当たりませんでした。門のすぐ脇の小屋に居る様子もなさそうです。まさに好気。このチャンスを逃せば次はない、そう思った木こりさんはぴょんと飛び跳ねそそそと門に近づきました。体に付いていた泥を払うことなく。
大きな門をほんの少しだけ開ける。
ぎぎぎ。
ずずず。
誰にもばれないように少しずつ。
やっと片目が向こう側を視認できるほどの隙間を開けると、木こりさんはまず誰かいないかを確認しました。誰かに見咎められては秘密を、秘訣を暴くことなどできないのでこの作業もまた慎重に慎重に。石橋を叩いて渡るが如く。
じーっと。
見るまでもなかったのです。
木こりさんが見た光景は不思議といえば不思議でありましたが、当然といえば当然なことでありました。富を増やすには、福を呼び込むには。当然のことを。この様な黒々とした森の中。そんな中にある街などそうするほか繁栄、栄華の道はなかったのです。
でもしかし、不思議でもあったのです。
この暗闇の中。
陽の宴はもう終わったのに。
再演にはまだはやいというのに。
街の人たちは確かに働いていたのです。
子どもから大人まで。
おにいさんもおねえさんも。
ただひたすらに、
みんな一生懸命に、自分達に割り振られた仕事をきっちりとこなしていました。誰ひとりとして夜だから眠ろうだなんてそういう素振りを見せる気配もありません。
人々は働き続け、森は嗤います。
ざあざあざあ。
ざあざあざあ。
木こりさんはこの異様な光景にギョッとしながらもまだ街を覗き続けます。そして広場の中央に位置する大きな噴水に目を遣り、その縁に腰掛けている男の人のことが気になりました。腰掛けた男の人は地面に置いていた鞄から鈍い光を放つ何かを取り出して栓を抜き口に当てました。どうやら空の瓶のようです。木こりさんは目を凝らします。男の人が何をしようとしているのかその目に焼き付けようとしました。
俺が暴いてやる。ここの連中がどうやって夜も休まずに働けているのかを。
男の口に当てた瓶は忽ち白く曇りました。
はあ。と息を吐いていたのです。
別におかしなところはありません。誰だって息は吐きます。吸って吐いて。吸って吐いて。その繰り返しが人を生かしているのです。
でも、どうして瓶に?
なぜ、こんな真夜中に?
息を吐く行為自体にはなんらおかしなこところはないのに、木こりさんはなぜどうしてが止まりません。
気になると居ても立っても居られない木こりさん。何か手掛かりはないかともう少しだけ門を開けて辺りを見回します。
小さな小さな隙間から大きな大きな秘密を覗こうと。
すると。
さっきまでうるさいほど聞こえていた森の嗤い声がぴたりと、止んだのです。
何かを感じて先ほどの噴水に視線を投じると。
瓶を持った男の人と目が合いました。
じっと。
ただ。じっと。
その目はうつろで、ふかいふかい黒が支配していました。鈍色の視線が木こりさんを貫きます。
木こりさんはなんだか怖くなってその場から逃げ出しました。どうしてもこの場所から逃げなくてはならないとそう思ったのです。すこし開けた門も閉めることなく、後ろを振り返らずにぬかるんだ道を自慢の脚で走り、小屋に向かいました。黒々とした森はまた嗤い始めます。
ざわざわざわ。
どうどうどう。
からからから。
無事小屋に転がり込んだ木こりさん、とても怖い思いをしたので体と心が震えて震えて仕方がありません。
そうだ。
明日は城下の食堂に行ってお気に入りのメニューを注文しよう。いつもは頼まないクリームソーダもつけよう、そうだ。そうしよう。あとは気の合う連中にもこの話を共有して怖さを薄めよう。うん。そうしよう、そうしないと、そうしないと俺はもう駄目になってしまう。
そうしよう。
夜が濃くなる。
段々と自分が薄くなる。
夜に混じり、夜と共に拡がっていく。
時と場所が移り行き、ここは城下の食堂。
木こりさんは大好きなオムライスを口一杯に頬張りながら一緒にテーブルを囲んでいる仕事仲間に言います。
「俺たちが普段仕事している森の奥、聞いたことくらいはあるだろ大きな大きな街があるんだが。何であんなに栄えてるんだってずーっと疑問だったんだよ。お前らもそうだろ?行ってきたのさ。いいや、中には入れなかったさ、あそこにゃおっかねえ門番のやろうが居やがるからな。ちょっとばかし覗いてきたんだよ。そう簡単には中は覗けなかったけどさ。そこはほら、木こりの意地ってもんさ、お前らにもあんだろうがよ。」
木こりさんはスプーンを振り回しながら聴衆の反応を窺いました。みな早く続きを話せと言わんばかりにふんぞり返ったり、ぶすっとした表情を浮かべています。
木こりさんは続けます。
「そこで俺は見たんだよ。何ってお前、そりゃあ街の栄えている理由だよ、秘訣だよ。俺だってびっくりしたさ、きっとお前らも腰抜かすぜ。」
そこまで話すと木こりさん、滅多に頼まないクリームソーダをぐいっと呷り口周りに付いた泡を綺麗とは言えない袖で拭いました。
「勿体ぶんな、話せ」
ふんぞり返っていた仕事仲間が催促を始めました。
「そう慌てんじゃあねえよ、物事には順序ってのがあるんだ」
けっそうかい、とぞんざいに返事をしてすっかり冷めたスープを不味そうに啜り、また背もたれに身を預けました。
「茶々が入っちまったがよ先に進めるぜ。俺はもうびっくりしちまってよ、何がってあの街の連中だよ。みんな働いてんだよ。夜中だぜ?月が大手を振って闇を広げてるんだ。太陽の威光だなんて一縷もねえよ。そんな時間に子供も大人も女も男も関係ねえ。みんなみんな働いてやがる。それに奴ら、寝てないぜ。寝ずに働いてやがる、眠るってことをしないから他の街の連中の何倍も働いて儲かってるんだ。一睡もしてねえ。目を見りゃわかる。」
「寝てねえってのも信じられんが、いくら寝まい寝まいとしてても人は夜が来りゃ眠くなるだろうがよ。そういうの睡魔が襲ってくるって言うんだろ」
「どうやって寝ずになんかいられるんだ。俺なんてよ一日十時間は寝ないとやってられんぜ」
口々に仲間たちが異を挟みます。
「あの街の連中は眠ることをしらない、睡魔を瓶の中に閉じ込めてどこかにしまい込んでいる。俺は見たんだ、間違いない。とにかく眠ることを知らないからあの街は栄えてるんだよ」
さて、食堂には木こりさんとその仲間以外にも様々な人たちが美味しい食事に舌鼓を打っていました。小さな円卓を囲んだ集団に、カウンターで一心不乱に掻き込む人。みな思い思いに食事を楽しんでいました。
そんな中、食堂の入口付近のテーブルに陣取った三人組は何やら不穏な面持ちです。彼らは食堂で美味しい食事と共に交わされる客たちの愉快な会話を一言足りとも聞き漏らさないように不愉快そうな顔をしていました。彼らがそんな顔をするにはちゃんと訳があります。木こりが仕事道具である斧を研ぐように、絵師が筆を整えるように。三人組が聞き耳を立てることは彼らの生業に直接繋がるのです。
彼らは盗賊でした。人のものを盗み、売り捌いた金で暮らしていく。それが彼らの生業でした。彼らは大仕事を終えた後でしたが懐は寂しいものでした。
その昔彼らが盗みに入った家はその土地の権力者のものでした。事前に聞かされていた話では屋敷にはそれこそ金銀財宝がたくさんあるとのことでした。完璧な仕事振りだったと思うのですが、運の悪いことに家主にまさに盗みの現場を見られてしまい窮地に陥りました。
もう駄目だ。しょっぴかれてしまう。
捕まることを覚悟したその時、家主である権力者が口を開きました。
愚かな盗っ人どもよ、喜べ、私がお前たちを救ってやる。
私との契約を今ここで結ぶか、しょっぴかれ罪を背負うか。
契約を無事履行できたのなら私の力で今までの罪を無かったことにし、お前たちはきれいな身分となるだろう。
それともしょっぴかれる事を選ぶのなら、今まで犯してきた罪に加えてでっち上げた罪を背負わせる。二度と外の空気は吸えないだろうな。
さあ、どうする。
その時の契約が今でも彼ら三人組を縛り付けているのです。
縛りは彼らに盗みを強要しました。
今まで自分達のためだけに盗みを働いていたのに、権力者との契約のせいで他人のために盗みを働かなければならなくなりました。三人にとってこれは非常に辛いことでした、早く完全に契約を履行して自由の身になりたい。日に日にそう願うようになりました。
なので三人は以前よりも周囲の話を盗み聞きする姿勢に熱が入っています。
しかし、いくら人が集まるからといってここはただの城下の食堂。そう簡単に金になりそうな美味しい話は転がっていません。
「オムライス大盛り、クリームソーダも付けて!」
大きな声で注文する人も出てくる始末。
もうずいぶん前に頼んだ蒸かし芋は冷めきっていますし、酒も温くなってとても飲めたものではありません。ここらで潮時か、そう思い席を立とうとしたその時。
眠りを知らない街の事を誰かが話しました。
盗賊三人衆のうち二人はもうここでは収穫なしと諦め、気を緩めていましたが、頭領らしき頭を丸めた男は例の街の事を聞き漏らすことはありませんでした。慎重に必要な情報だけ選別した頭領は若い衆二人にこう言いました。
「おい、馬鹿ども。耳の穴かっぽじってようく聞きやがれ。ここ張ってて本当に俺たちは運が良かった。次の獲物が決まったぞ、どうやら働きに働き金銀財宝をしこたま貯めこんでいる大層裕福な街があるらしい。今までは一軒一軒盗みに入ってたがもうそんなケチなことしなくてもいい、どかんと大きく街ごと盗むつもりでいくぞお前ら」
「そりゃあほんとですかい兄貴」
刺青の男が口を挟みます。
「兄貴が嘘吐いたことあるかぃ。ねえだろぉ。こぉの、すっとこが」
おかしな話し方をするこの男は顔中に傷が走っています。
「すっとこはねえだろ」
「うるせえ馬鹿ども。とにもかくにも、街規模で盗みの成果を挙げることができりゃあよ俺たちは晴れて自由の身だ」
気張っていくぞ。
そう言って盗賊の頭領は気前よく、釣りはいらねえと自分達が陣取っていた席に酒があと四杯は飲めそうな位の金を置いて食堂を後にしました。
三人が目指すは黒々とした森の奥。
空はすっかり帳を下ろして闇夜の鳥が奇怪な声で演奏をしています。
ぬかるんだ道を踏みしめ一行は進みます。
やがて、大きな門と門番小屋を遠くの方から確認できました。
門番の姿は見当たりませんが三人は大事をとって横道に逸れます。
人は滅多に立ち入らない獣の道。盗賊渡世はいつだって獣道、茨道。培った勘で侵入できそうな場所がないかしっかとした足取りで先に進みます。
門が遠くから見えたところで横道に逸れましたから十分程進んだ頃合いでしょうか、街と森を隔てる円状の防壁に行きつきました。その防壁に沿って更に進む事数分。門番に見つかることもなく、よじ登るのに然程苦労もしない部分を見つけました。まさに適地、侵入するに値する適地でした。用意していた道具を使い三人は壁をよじ登り、遂に街に侵入しました。
話に聞いてはいましたがここが深い森の中の街であることを忘れるくらいに、街並みは豊かで発展していました。実際その事実を知らない者にとって、この街の風景は森の中にあることを信じようとはしないでしょう。それくらい想像と現実が乖離しているのです。
壁によじ登る際に付いた汚れを払いながら、頭領は辺りを見回します。聞き及んだことが確かなら、深夜であろうとも労働している人たちで賑わっていると。
どこにも、いねえなぁ。
頭領がきょろきょろと見回している間、手下の二人は我こそは先に、手柄をあげようと動き始めようとしていました。そんな手下たちの勝手な行動を許すほど頭領は甘くはありませんでした。二人に喝を入れると、指示を出しました。
「おう、お前らようく聞け。食堂で聞いた話が確かならこの街の連中は、睡魔を瓶の中に閉じ込めててめえらが眠ることないようにしてるみてえだ。そこで俺は考えた、これ程までに豊かな街を作り上げるにはとんでもねえ時間がかかる。長い間そういう生活を送ってきたってことだ。ということは今までに閉じ込めた睡魔の瓶があるはずだろう。ってな」
「はあ、そいつぁ気づかなかった。さすがは兄貴」
顔の傷を掻きながら感心したように相槌をうちます。
「なら溜め込むなり処分するなりするわな。多分溜めて一気に捨てるんだろうよ。貯蔵庫があるはずだ、睡魔を閉じ込めた瓶の。そりゃあもう大量にあるはずだ、一軒の家に置いとける量じゃあないはずだ。だから考えられるのは地下だろうな。大きな蔵でもありゃ話は別だが」
「手がかりはあるんですかい?」
刺青の男は頭領の目を真っ直ぐ見据えながら聞きました。
頭領は街の北側を指差します。
「無えよ。手がかりなんざ。ただあそこが騒がしい、人がいる。それも何人もいるだろうよ。きっと仕事してんのさ。街の連中の得体が知れない以上、脅したりする手は使いたくない。だから、尾けろ。瓶を持った奴か鞄を背負った奴をな。そうすりゃ貯蔵庫に辿り着くだろうよ」
「そもそもなんで貯蔵庫を?」
「とにかく見つけろ、話はそこからだ」
「おぅい、兄貴が指差してた方、ありゃ噴水かぃ?あそこを基点にして目的のもん探すとしやすかねぇ」
「貯蔵庫が見つかったらどうします?」
「一度戻ってこい。場所はすぐ側にもう使われてない汚ねえ小屋がある。そこで落ち合おう」
頭領は防壁際の破れ小屋を指差してにやりと笑いました。
「俺には見える。宝の山がな」
三人は一度散り散りになりお目当ての貯蔵庫を探し始めました。貯蔵庫があるという話は全く聞いたことないのですが頭領には確信めいたものがありました。
手下二人が貯蔵庫を探している間、頭領も辺りを探索し始めました。しかし真剣に探している様子ではなく何かのついでのようでした。住人にばれないように盗賊特有の足の運びですすすと動き回ります。
僅か二十分ほど歩いたところで街の構造がある程度分かってきました。あの噴水を中心として六本の太い大きな道が放射線状に拡がっています。中心点から一本の大路に沿ってしばらく歩くと、同じく伸びていた大路とを繋ぐ一本の道が出てきます。どうやらその道はまた隣の大路に、そのまた隣の大路に繋がっているようで、確認はしていませんがぐるっと一周しているようです。一本の大路をそのまま真っ直ぐ、さっきと同じくらいの距離を歩くと横道が出てきました。放射線状に拡がっているので大路と大路を繋ぐ道の距離は少し伸びているのでしょう。確認はしていませんが。
要するにこの街は鳥が見下ろすと、円形の蜘蛛の巣の様な形をしているのです。
もし、もし、この街が蜘蛛の巣だとしたら三人は……。
やっと見つけたぜ。
頭領は探索の最中、目当てのものを見つけ出しました。
それは、貯蔵庫でも、宝の山でもなく。
瓶に睡魔を閉じ込めている最中の住人でした。
見世物小屋を覗き見る様な感覚。頭領は少し背徳感を覚えながらその行為を物陰に隠れまじまじと見続けました。
しばらく行為を眺めていると、遠くの方で騒ぎがありました。
人を呼んでこい。
助けてくれ。
馬鹿野郎。
一体何があったのかは杳として知れませんが、とにかく何かとんでもないことが起こったのでしょう。頭領が見続けていた男も何事かと振り向き荷物をその場に置いて騒ぎの渦中に向かって行きました。
その場に残されたのは、瓶でした。
頭領は辺りを見回してから瓶を手に取りました。中では白い靄が蠢いていました。
中身と呼べる白い靄のそのほとんどが男が向かっていった方角に偏っていました。まるで元いた場所に戻りたいかのように。
頭領はその靄の様子をただじっと見つめていました。
ただ、じっと。
体が、首が、目が、固定された様にびくともせずただじっと対象を見続けます。まさに食い入る様に、まさに穴が空くくらいに。
どれほどの時をそうして過ごしていたでしょうか。それほどまでに長い間釘付けになっていました。
こいつは使えるぞ。
「兄貴」
頭領のすぐ後ろで声がします。頭領は非常に驚き弾けるようにして後ろを振り向きました。その動きに音は伴いません。さすがは盗賊、といったところでしょうか。
謎の緊張、緊縛から解き放たれた頭領は、声の主が自身の手下の内の一人であることを認めると安堵しました。しかしまだ心臓はどくどくと脈を打っています。音が漏れ出てないか心配しましたが、そんなことはないと思い直し、強く拳で胸を叩きました。
「どうしたんです?兄貴。そりゃただの瓶でしょうよ、俺に見えねえだけでなんかあるんですかぃ?」
顔の傷が疼くようで、ひくひくと痙攣させています。
「どうしたも何も、この瓶はな……。まあいい。それよりも見つかったのか?貯蔵庫は」
「へえ、もちろん見つけましたや。あのオンボロ小屋で待ってやしたが兄貴、ぜぇんぜん帰ってこねえから心配になってそこら探し回ったんでさあ」
「そうか、心配かけたな。こっちにもう用事はねえ。急ぎ合流して貯蔵庫に向かうぞ」
オンボロ破れ小屋に戻ってきた二人は、刺青の男と合流して睡魔の瓶を溜め込んでいる貯蔵庫に向かいました。道中で仕事をしている住人を見かけましたが、熱中していたのでしょう、多少大胆に動いても気付かれることも、不審に思われることもありませんでした。
貯蔵庫の入り口はそれこそ付近にある小屋とそう変わりませんでした。軋む木製のドアを開け、中に入るとツンとした刺激臭が鼻を掠めます。小屋の両壁に立て付けられた棚には食材やら、酒やらが所狭しと乱雑に置かれていました。棚から落ちた酒もあり、そういうものは割れていたり、栓が抜けていたりして中身が流れ出ていました。古いものは辺りに染みと臭いだけを残しています。
刺青の男が板張りの床の一部を剥がしました。
ぎぃぃいと不気味な音を立てて床下への入り口は姿を見せました。
頭領を先頭に三人は秘められた床下へ階段を降りて行きました。階段は石をそのまま切り出して拵えたものになっていました。二、三分降ったでしょうか、真っ暗でほとんど何も見えないのですがそこは盗賊三人衆。夜目が効きます。平らで真っ直ぐな道が眼前に広がりました。通路の幅は決して広いとはいえず、大人の男の人が二人横並びになって歩くことは絶対にできないでしょう。盗賊三人衆に至ってはみな肩幅がしっかりとしていたので、己一人であっても狭苦しい通路でありました。また通路自体粗末なものだったのでところどころで壁から石が出っ張っていたり、地面には水溜まりが出来ていたりという有様でした。
そんな通路を五分ほど歩いて、先頭を往く頭領は木製のドアに辿り着きました。冷えた金属のドアノブに手を掛け、ゆっくりと回すと。
ぎぎぎ。
狭い通路に嫌な音が響き渡りました。
顰めっ面をしながら頭領はこれまたゆっくりとドアを押し開け、床下の貯蔵庫に忍び込みます。
部屋はそれほど大きくなく、かといって小さいこともありませんでした。ただ、所狭しと設置された棚の全てに、瓶が綺麗に整頓されて陳列されていました。
その全てが睡魔を閉じ込めた瓶だったのは言うまでもないことですね。
頭領は手下にこう言いました。
「瓶に入ってる白い靄は全部睡魔だ。街の連中が夜通し働いても眠くもなんともねえのはその睡魔を瓶に閉じ込めてるからなんだ。それはもうお前らも嫌ってほど分かってんだろ?」
「街を探索するときに気味悪いくらい見かけましたからね、もう流石の俺でも信じてますよ」
刺青を撫でながら返事をしました。
頷いて頭領は続けます。
「俺はここに来る前にある発見をした。この瓶に閉じ込められている睡魔は、おそらく吐き出した主人の元に帰りたがるって性質をな。その発見から考えるに、ここに置かれている睡魔もご主人様のところに帰りたがっているはずだ」
「だから、なんなんですかぃ?」
傷を叩きながら間の抜けた声を発します。
苛々しながら頭領は続けます。
「だからよ、ここにある瓶を全部ぶっ壊して、中身を元あった場所に返すんだよ。そうすりゃ街中眠りに落ちて、俺らは晴れて大手を振ってありとあらゆるところから盗み出せるだろうよ」
手下二人は少し見つめ合い、ぽんと手を打ちました。
そうと決まったのなら話は早い。二人は背負っていた荷物の中から小さな爆薬を大量に、それと長く細い糸を取り出しました。糸をそれはもう長く長く引き出して、これまた持っていた油を染み込ませました。細工をした糸に爆薬の導線を括り付けて計三本、簡易的な時限爆弾を拵えました。
棚と棚の間は人がやっと一人通れるくらいなもので三人は手分けして爆弾を瓶に一つ一つ巻きつけていきました。半刻くらいかかったでしょうか、全ての瓶が粉々に割れるように仕掛けることができました。それぞれの爆弾糸の始点を一本にし部屋の外まで伸ばしていた別の糸と結び、これにて仕込みは完了です。
ついに計画は実行されようとしていました。
頭領は手揉みをしながら。
「爆薬の量は必要最低限にしてある、爆発したところで音や衝撃はそこまで強くはない連中が気づくこともないだろう。だが、ここまでしたんだ念には念を入れよう。導火線を小屋の外にまで伸ばし火をつけよう」
「そうしましょう、そうしましょう。連中に気づかれちゃ仕事が台無しになっちまう」
「ばれっちまったらよぉ。いいんだよ暴力すりゃあ。そうすりゃ解決さぁ。兄貴も怖がっちゃってさぁ」
くくく、と頭領が珍しく笑いながら。
「確かに怖え、怖えがよ。俺が怖がってるのは、なんで安全にやろうとするのかはよ。睡魔だよ。ありゃ俺ら人間の領分じゃあねえや。だからできるだけ安全策でいきてえのさ」
「吸ったら駄目なんですかねえ、それとも触れちまったら……」
「どっちでもいいさぁ、さっさとやってぇさっさと儲けよぅ」
ちげえねえと頭領は言いながら、強い風のため何度か火が消えてしまいましたが、なんとかマッチを擦り風に乗った燐の匂いを嗅ぎながら、伸ばした糸に火をつけました。
油を染み込ませた糸はよく燃えました。
じじじと燃え往く火はあまりにも焦れったく、盗賊三人衆はどぎまぎしながら今か今かと瓶が割れるのを待っていました。
ふと、街に流れていた風が止みました。
びゅうびゅう吹いていた風が、月の眷属の夜の風が、止みました。
なにかが、くる。
三人は確信をもって身構えました。
小屋から出てきたのは頭領の目論見通り、白い靄。まさに睡魔でした。呪縛から解き放たれた睡魔は一斉に元いた人間に戻っていきます。
街の中心部、噴水広場付近で悲鳴が上がりました。
しかし騒動はそう長く続きませんでした。みなばたばたと次から次へと睡魔にあてられて眠りに落ちていきました。眠ってしまった者をなんとか起こそうと揺り動かす者もいましたが、眠りは相当に深いらしく、体を揺らす程度ではぴくりともしませんでした。やがて起こそうとする者も、忍び寄る睡魔に気付かぬまま眠りの監獄に囚われてしまいました。当然仲間を見捨てて逃げようとする者も中にはいました、が振り切れる者は誰一人としておらず、皆一様に睡魔にあてられることになりました。
盗賊三人衆が睡魔を解き放って十分もしないうちに、街の住人はみな過去に去った眠りの国の土を踏むこととなりました。
眠りの国を再び開国した張本人たちはこの結果に御満悦の様子です。これで街の住人に邪魔をされずにお宝を盗み出すことができます。
頭領は大声で笑います。
「笑いが止まらん。連中、全員寝ちまってもう起きやしない。これでこの街の宝は全部俺らのもんだ」
手下も釣られて笑います。
「そいつぁいいやぁ、どれちょいとばかし実験でも」
自身の顔に付いている傷と同じような傷を、噴水の縁に寄りかかって寝息を立てている男に付けました。
「ナイフを突き立てても起きやしねぇ、こりゃおもしれえ。どれもう一丁」
「つまんねえことやってんじゃあねえ、さっさと仕事を済ませるぞ」
ナイフで傷を付けても身じろぎひとつしないのはかなり気味が悪いですが、男たちはそんなことを気にしている様子はありません。
頭領は長年の盗賊生活で身につけたお宝への嗅覚を遺憾なく発揮して、次々と隠されているお宝たちを盗み出していきました。
鑑定に確かな自信をもっている刺青の男も目が飛び出るくらいの高額な宝飾品に、かなりの年月寝かされていて、現在莫大な価値のある年代物の酒、食べる宝石とまで言われた希少な部位で作られた生ハム。どれもこれもなぜこんな街にあるのか理解できないものばかりでした。これだけの規模の街に住む人間全員が一睡もせず、働いていればこれくらいの富は成せるのか、と頭領は呑気にもそんなことを思っていました。
本当にさまざまなものを盗み出しました。夢中になって何時間も何時間も動き続けていたので、三人はどこか目に入った家屋で酒を呷り、宴会を始めました。幸いにもここには上等すぎる酒もありましたし、これまた上等すぎる肴もありました。そんな宴会は永遠と思えるほど長い間催されました。
盗賊三人衆の楽しそうな声が家屋から聞こえます。
盗賊三人衆の楽しそうな声が街に響きます。
盗賊三人衆の楽しそうな声が森にこだまします。
悠久の時を過ごし、何かの視線を感じた頭領は窓の外を見ました。
そこには、
そこにはなにもありませんでした。
「気のせいか……」
「どうしたんでさあ、兄貴。外にゃなぁんにもいねえよぉ。だって俺たちがみぃんな眠らせちまったからなぁ。なんかいたんならそりゃ幽霊さ」
くくくと気味の悪い笑い声を発しながら傷の男も窓の外を見回します。
当然、そこにはなにもありませんでした。
「俺の勘違いなのか?」
頭領は釈然としません。
「そんなに気になるってんなら、俺が見てきますよ。ちょうど風に当たりたかったんだ。ついでにまたどっかから酒持ってきますよ」
「そんならよぉ、俺がやるよ。酒ばっか飲んでるとよう、駄目だ。出すもん出さねえとよぉ」
いってくらぁ兄貴、と手をひらひらさせて手下は、朝と夜の境界の只中にある街に繰り出しました。
頭領は未だ、釈然としません。
「兄貴はなにを気にしてるんですか?連中が起きたかもしれないって、そう考えてるんですか?」
「そうならそれで別にいいがよ。そいつが人なら、また眠らせるなりなんなりして黙らせりゃ済むからよ。でもよ、そりゃ人だったらって話だろ?人じゃなかったら?」
「人じゃないって、兄貴。そりゃ本当に幽霊じゃないですか。あの馬鹿みたいなこと言わないでくださいよ。俺は幽霊なんて信じちゃいませんよ」
「俺だってそうさ、でもそれを言っちまったらよ。この街のことでさえ俺は最初信じちゃあなかったぜ。街のことだけじゃあねえや、あの眠らない連中に、返りたがる睡魔。俺たちはもう信じられないことの渦中に呑まれてんだよ」
どん。
頭領は木製の壁を殴ります。
「じゃあ、頭領は。信じてるんですね?幽霊を。人間以外の何かを」
びっしりと刺青が彫られた腕で額の汗を拭いながら、もう空になった杯を呷り気を紛らわせました。
「俺は」
なにかが、こちらを見ています。
頭領たちはその視線に気づいていません。
じっと、ただじっと。
なにかは頭領たちを見据えていました。
ゆっくりとゆっくりと、緩慢な動きで距離を詰めていきます。
忍び寄り奪っていく者はなにも盗賊だけではありません。
いつも通りの彼らなら、気づいていたことでしょう。対策を講じていたでしょう。
ただ、その時はいつも通りではなかったのです。
空間は重苦しい空気で満ちていました。押し黙ってしまった頭領は床をただ凝望していました。そんな空気に耐えきれずに残った手下は口火を切ります。
「そ、それにしてもあの馬鹿、帰りが遅いですね。どこかで眠っちまってるんじゃあ……」
「睡魔にあてられたってことか?確かに考えられん話ではないな……。あの貯蔵庫に保管されていた瓶の数はそりゃもうとんでもなかったからな、それを俺たちが全て割った。全部の睡魔が漏れなく返ったかは神のみぞ知るってことか……。逸れている睡魔が居てもおかしくはないな」
「お、俺はそこまで考えてたわけじゃあないですけど、それが本当ならまずいですよ。こんなところにはもう居られない。あいつは馬鹿だが、それでも俺たちの仲間だ。探しにいきましょう、頭領が止めても俺は行きますからね」
「誰が行かねえと言ったよ。当たり前だ、俺も行く。さっさと見つけてこの街からおさらばするぞ。戦利品もこれだけありゃ俺たちは晴れて自由の身だろうよ」
二人は覚悟を決めて街に繰り出しました。
そんな二人を追いかける形で、なにかがその身を引き摺りながらその場を離れました。
二人は最初こそ声を上げずに足と目を使って仲間を探していました。しかしどこに行ったのやら、全く気配すら感じさせません。仕舞いには大声を上げて捜索を始めました。もう形振りなんて構ってられません。馬鹿だのなんだの罵倒していましたが、彼も立派な仲間なのです。盗賊に立派も何もないとは思いますがね。
空はもう夜の帷が上がろうとしていました。
朝の到来です。
太陽がもうすぐ顔を見せる頃です。
二人は焦っていました。そろそろ見つかってもいい頃合いだと。
そんな二人の気持ちが届いたのでしょうか、探していた者は呆気なく見つかりました。
大路の脇の草むらにうつ伏せに倒れ込んでいました。
二人は体を揺すり、声をかけながら仲間を起こそうとしましたが、起きようとしません。身じろぎひとつしないのです。もしや死んでるのではと頭領は思い、仰向けにした時目に入ったのは、今までに見たことのない安らかな表情でした。
すぅすぅと心地よさそうな寝息も立てていましたし、胸が上下していたのでひとまず安心しました。ですが、それは頭領の恐ろしい想像の裏付けでもあったのです。
逸れた睡魔がいる。
この街を眠りに沈めた睡魔の残党が、俺の仲間を眠らせた。
刺青の男は依然仲間に呼びかけ体を揺らしていました。時たま頬を打ち、叩き起こそうとしていました。一方頭領はその行為を横目で見つつ、内心無駄であると思っていました。睡魔に引き起こされた眠りであるのなら絶対に目を開けることはない。俺たちが、証明したことじゃあないか。と。
ふと。
妙な感覚に襲われました。
どこかから、
なにかに、
見られている。
例の視線を感じた頭領は辺りをあちこち見渡しました。
目を凝らす必要はもはやありませんでした。
二人の周りを無数の白い人型の靄が囲んでいました。
ゆらゆらと、ぬらりぬらりと。
煙が立ち上がるように、水面に波紋が広がるように。
蠢きながらじりじりと近づいてきました。
頭領は怖気立ちました、うなじの産毛が逆立つような感覚を覚えたのは最初で最後、この時だけでした。
逃げなくては!
頭領は叩き起こそうとしている男に事の重大さを説き、眠りに囚われている仲間を背負いその場を離れようとしました。
包囲網には隙間があり、そこを突破できれば逃げ果せることができると踏んだ頭領は一気呵成に加速しました。
刺青の男の方が脚が速く、頭領を先導しました。
疾走る。
疾走る。
疾走る。
脇目も振らずに走り続けました。
窮地に陥ったとき、人は今考えなければならない事を一旦横に置いて、比較的どうだっていい事を考え始めるものです。
まさにそれが今頭領に訪れました。
このまま逃げたら小屋に置いてきた宝はどうなってしまう?
窮地に余計な事を考えるのはあまり良い結果を齎しません。この時もそうでした。疲労が溜まっていた頭領は足をもつれさせ前のめりに転んでしまいました。幸い睡魔との距離は離れていたものの、もう一度眠りこけている仲間を背負って走れるような体力はもう残っていませんでした。先行く仲間に頼もうかとも思いましたが、もうずいぶん先に行ってしまっていましたし、それを遮るように睡魔たちがぞろぞろと脇道から現れてきたのです。
絶体絶命とはまさにこの事です。自分が少しばかりつまらぬ欲をかいたために、三人揃って街から出る機会を台無しにしたのです。
頭領は悩みました。悩みに悩み。そして。
頭領の目は冷徹な炎が宿っていました。
すっくと立ち上がり倒れ込んでいる手下に目もくれず、残る体力を振り絞ってただひたすらに走り続けました。
がむしゃらに走り、この街に侵入したときの防壁にたどり着きました。刺青の男はもう壁の中ほどまでよじ登っており、天辺で頭領に手を差し出し引き揚げました。
「選択は間違っていなかったと思いますよ。俺だってあの状況じゃああいつを見捨てていた」
「俺は別に後悔なんぞしてないさ」
「そう思うことにしたんですね。ほら、兄貴。街を見てください。白い靄で、睡魔でいっぱいですぜ」
頭領はその場で振り返り街を見下ろしました。防壁のすぐ下には睡魔が大量に群がっていてうねうねと揺れていました。
嫌な景色でした。自分が無能だと教えられているかのようで。
嫌な景色でした。自分が仲間を見捨てる薄情なやつだと突きつけられているかのようで。
じっと眺めていると気分が沈んでいきそうになったので、森に視線を移そうとしたそのとき。
なにかが、聞こえました。
「……む……」
「…むれ……」
「………む…」
「……ねむれ……ねむれ……」
睡魔に口はありませんし発声器官も当然ありません。それでも人なら口がある場所がもごもご動いていました。
眠りの街を後にした二人はその後一切話すことなく、黒々とした森を抜けて城下の宿に転がり込みました。
頭領はあの街で起こったことは全て忘れようとしました。あの街には何も無かったし俺たちは元々二人組の盗賊だと、思い込むようにしました。
刺青の男も頭領と同じように全てを忘れようと努力しました。
宿で落ち着くと緊張の糸が切れて、途端に眠気が昔からの友人のように優しく語りかけてきました。
二人は不思議な夢を見ました。
夢の中で二人は眠りに落ちた街の中心部、噴水広場に立っていました。
噴水広場には頭領と刺青の男の二人だけでした。二人はお互いに会話をしようと思い立っても口を利くことができませんでしたが、身振り手振りはなんとかできたので何かをお互いに伝えようとしましたが、全く要領を得ないやり取りしかできませんでした。やがて二人は意思疎通を諦めて、各々付近を探索することにしました。
しかし、二人とも噴水広場から抜け出すことはできませんでした。現実の街と同じ六本の大路に沿って、まっすぐ歩いていてもいつのまにか噴水広場に戻ってきてしまっていました。どこかで曲がっていれば広場に戻ってくるのは分かるのですが、さすがは夢の中の世界、現実の道理は通らないみたいです。
二人もそのことに気づいてやがて歩くこともやめました。
どれだけの間そうしていたのかはわかりませんが、とにかく夢の中で流れる時間が現実と同じく、規則正しく流れているものと仮定するのなら、大体二時間くらいでしょうか。約二時間ほど経ったくらいで声が聞こえました。
姿形は確認できませんでしたが、声だけははっきりと聞こえました。聞こえてきたのはどこからなんだろうかと二人はきょろきょろと辺りを見回しますが、声の発生源は特定できませんでした。そうしている間に声の音量が上がったかのように感じました。
もしくは、対象が近づいてきたか。
それでも視認できませんでした。対象がなんなのか全くわかりませんでしたが、二人は耳にした声をしっかりと覚えています。
ねむれ。
頭領ははっとして目を覚ましました。寝巻きが、寝具が汗をびっしょりと吸っていて気分が悪くなりました。隣の寝具で寝ていた仲間も同じ夢を見て、同じ目に遭った、と軽い食事をしながら話しました。
不思議なこともあるものだと、頭領はそう思おうとしましたが、あの街で最後に見聞きしたこともあったので単なる夢であると、切って捨てることはできませんでした。夢が何か関係しているとするのなら、今後自分たちの身に災いが降りかかることもあるかもしれないと、そんな思いを強めることになりました。
刺青の男も内心穏やかではありませんでした。上手くいけば自由の身になれていたはずが今度は人ならざるものに脅かされています。俺たちはなにを間違えてしまったのだろう?あの街を獲物にしたことか?深く考えることもなく、睡魔を閉じ込めていた瓶を全て割ったことか?あいつを置いてきてしまったからか?それとも、それとも、もっと根本的なことなのか?盗賊渡世なんかに身を窶してしまったからか?大量のなぜ、どうしては彼の頭を占領してしまいました。
二人はその日から盗みを働くこともなく、かといってまともな商売を始めたわけでもありませんでした。ただひたすらに毎日をやり過ごしていました。やり過ごすような生き方しかできなくなってしまったのです。あの日以来、眠りにつけば毎度必ず例の夢を見ました。全く同じ夢というわけではなく、ある部分が変わっていました。
ある部分、それは、徐々に声が近づいてくる、というものでした。音量が上がる、ではなく、確実にそれは二人に近づいていました。眠るたびにあの声が近づいてくる、いつかはなにかと触れることになるのでしょう。
二人はそれをひどく恐れてひどく質の悪い睡眠しか出来なくなりました。夢を見ないように二人でお互いに細心の注意を払って、それでもたまに油断して夢を伴う睡眠をしてしまうこともありました。
ゆっくりだが、確実に近づく声に二人は恐怖に慄きました。
もう、二人ともまともな思考はできなくなっていましたが、頭領は輪にかけておかしくなってしまいました。
こんな状況になったのは一体誰のせいだ?俺は契約に則って街で儲けようとしてこんな目に遭った、ふざけるなよ。そもそも俺はどこであの街のことを知ったんだ?思い出せ、思い出せ、思い出せ。……そうだ、あの食堂だ。食堂で飯を食ってた、そのときだ。そのときに聞いたんだ。一体誰に?……思い出したぞ。あの木こりだ。あの木こりが俺たちを嵌めやがった。許せねえ、許せねえぞ。
解決の糸口を無理矢理他人に見出した頭領は、覚束ない足取りでぶつぶつと何かを言いながら、あの日食堂で食事をしていた木こりさんを探しに彷徨い始めました。
何日も経って頭領の動きを不審に思った刺青の男は、頭領に問いただすと常軌を逸した意見に同調し二人で木こりさんを探し始めました。
木こりさんは先日食堂で食事をしてからより仕事に精を出していました。あの街で覗き見た不可思議な景色、眠らない人々、嗤う森。そういったものを見聞きすると真面目に働く以外、健やかに生きていく方法などないということを知ったからです。
働き、食べて、寝る。
働き、食べて、寝る。
このサイクルで人はできている。そのことを知ったのです。
今日もしっかりと仕事をしてその出来を親方に報告するために城下に来ていました。
効率も悪くなく、てきぱきと適切に動けているから今日は給金が多く貰えるかもしれないと、わくわくしながら石畳の裏道を歩いていると。
右肩をいきなりぐいっと引っ張られました。
「いきなり何しやがるてめえ!」
そう言って木こりさんは全身の血が引くのを感じました。
異貌、悪相、怪相。
人とは思えぬ顔をした頭領がついに木こりさんを発見しました。隣にはこれまた人を逸した形相の刺青の男もいました。
「やっと見つけたぞ。お前だな。あの日あの街の話をしてたのは」
掠れた声で頭領は木こりさん相手に凄みます。
「な、なんのことだか……」
木こりさんの鳩尾にみっしりと刺青の入った腕がめり込んでいます。
「ぐぅ」
「答えろ」
「街ってなんのこった……俺が何をしたってんだ……」
今度は顔に向けて拳が飛んできます。
「眠ることを知らねえ奴らが住んでるあの街のことだよ!」
頭領は倒れ込んだ木こりさんに唾を大量に飛ばしながら、問いただしました。
「お前があの街のことを話してたせいで俺たちが今、ひどい目に遭っている。そんなのおかしな話だろう?お前が話さなきゃこんなことにはならなかったんだよ!おい、責任取れよ。俺たちに詫びを入れろ!」
頭領は中空を見つめながら一気に捲し立てて、木こりさんの腹に蹴りを入れました。刺青の男はもう興味を失ったみたいで、左腕の蛇の意匠を撫でています。
「俺は、知らねえ、何もしてねえ。なんであんたらにこんな目に遭わされてるのかもわかんねえ、許してくれよ。頼むよ。あんたら何で苦しんでいるかはわかんねえけどよ。金なら渡す、渡すから許しておくれよ」
木こりさんは蹲って頭を腕で守りながら、呻くように暴力が去るのをただひたすらに待っていました。
「し、し、知らねえだと。わからねえだと?俺らが何で苦しんでるのか!」
もう一度蹲る木こりさんに蹴りを入れた頭領は続けました。
「あ、ああ、教えてやるよ。俺らが受けている責苦を。夢だよ。夢を見るんだ。場所はいつもあの街の中心。あの趣味の悪い意匠の噴水広場だ。そこで何もできないからただ時間が過ぎ去るようにやり過ごしていると、声が、声が聞こえるんだ!ねむれ、ねむれって。それも夢を見るたびに近づいてくるんだ!もう沢山だ!このまま夢を見続けたらいつかは、いつかは。いつかは」
頭領はついに我を失い、泣きながら暴れ回りました。その隙を見逃さず木こりさんは弾けるように逃げ出しました。刺青の男は捨てられていた万年筆で左手の手のひらを刺し、新しい意匠のつもりでしょうか、インクを流し込んでいました。
血と、涙と、インクが流れる城下の裏道はまさしく異界の様相でした。
「夢に苦しんでいると聞いたが、それは本当かね」
暴れ疲れ呆然としている頭領の目の前に姿を見せたのは、白髪の老人でした。
「眠りの街に忍び込んだか」
ここは裏道を抜けた先にある古民家。白髪の老人が暖かいお茶を二人に差し出し、飲むように促します。どうやらここは老人の住まいのようです。
「少しは落ち着いたか?怪我をした木こりが血相を変えてあの裏道を抜けるから何事かと思い、治療がてら少し話を聞いてみた。するとお前らさんが夢に苦しんでいると、街に忍び込んだと。それが本当なら捨ててはおけんと思ってな、ここまで連れてきた」
二人はお茶を一口飲んで少しだけ落ち着きましたが、まだ老人を信じるまでには至っていません。
「まだ話せんか。まあそれでもいい、ようく聞くんじゃぞ。お前たちは元の生活に戻れる」
思ってもいなかった言葉が老人の口から出た途端、二人は揃って老人の目を見据えました。この老人は嘘を吐いてはいない。二人は直感的にそう理解しました。
「気になるか、それはそうだろうて。ただ、条件がある。お前たちが赦されるただ一つの道は、あの街に戻ることだ」
二人は目を見開き、わなわなと震えました。
「戻るだって?あの街に?ふざけるのも大概にしろよ、じじい!大体俺らがなんで赦されなきゃならないんだよ!俺らはなんも悪いことなんざしてねえ!暮らしていくために富が多いところからちょいとばかしおこぼれをもらっているだけさ!」
頭領はあくまでも自身のやったことは正しいことだと、仕方のないことだとそう主張しました。
「ここまでとはな。もしかしたら救えんかもしれんの。のう、お前さん、お前さんはどう思っとる?」
手に包帯を巻いた男は少し考えたのちにこう答えました。
「俺らは確かに悪事を働きました。盗みは当然として、街の住人を強制的に眠らせてしまった。それに仲間のことを見捨ててしまった。俺たちは自由の身を得ようとして、あらゆるものを失ったんだ。あの時からじゃない、ずっと前からだったんだ。ずっとずっと昔に犯した盗みからだったんだ」
一気にお茶を飲み干して再び口を開きます。
「どうすれば償えるのですか?」
それを聞いた老人は静かに頷くと、
「何年も、何年も、あの街がやがて眠りから目覚めるまで。眠りの国から全ての住人が帰ってくるその時まで。守り続けるのだ。その日までな」
二人はまた、あの眠りに沈んだ街に来ています。今度は防壁をよじ登って不法に侵入するのではなく、堂々と正面門から街へ入って行きました。街に入る前に門のすぐそばに建てられていた門番小屋に目を遣りました。かつて怖い顔でこの街を守っていた門番は、なおも怖い顔で深い眠りについていました。
正面門からほんの数分歩くと、すぐに見覚えのある噴水広場が目に入りました。
「兄貴、覚悟をしたんですか?」
「俺には覚悟なんてできてない。俺はただ、文句を言いたいだけなんだ。寝るたびに俺の夢に出てきやがったあのくそったれの睡魔どもに」
ただ、ただそれだけなんだ。と頭領は毒づいて街を見回し、誰かがそこにいるかのように大きな声でくそったれが、と叫びました。
そこにはなにもいないというのに。
これから二人は何年、何十年、何百年かかったとしても、この街を守り続けなければなりません。しかも眠ってしまっては夢の中の存在に、なにをされるかわかったものではありません。
彼らは世界が微睡むくらい、気が遠くなるほど。
続けなければならないのです、寝ずの番を。
(了)
寝ずの番 小川遼 @sazakawa
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