第6話

 休日だというのに、少し早めに目が覚めた。多分、気分が高揚しているのと、不安と、半々だ。いつもなら二度寝をする時間だが、私はベッドから起き上がる事を選んだ。起き上がってカーテンを開けると、外は快晴。窓を開けると、少し冷たいけれど爽やかな風が流れ込んでくる。まだ重かった瞼が一気に開いた。私は部屋を見渡す。この部屋が今日、違う部屋になる。まだ全然実感が湧かない。部屋中の床に散らばらせた、紙袋もそのままだ。「片付けなきゃなぁ」一人の部屋で、ついつぶやく。完全に独り言だが、ふいに、私が見ている風景だけが過去の映像を写した。私が起きた後のベットから

 『俺も手伝うよ。どこから片付ける?』

 もういるはずのない、彼の声がどこからか聞こえてきて、息が詰まりそうになった。私はキッチンへ行き、コップに注いだ水を一気飲みする。自分はどれだけ女々しいのだろうか。もうすぐ半年が経つというのに。忘れたいのに、記憶が、勝手に彼の姿を追う。

 ・・・模様替えをする事で、何か変わるだろうか。この、息が詰まりそうになる部屋が、私の心休まる場所になるのだろうか。模様替えをすると決めてから、何度も反芻した疑問が、またまた沸き上がって来る。私はぷるぷると頭を横に振った。ダメだ、考え始めると、思考に体を支配されて動けなくなる。私は大きく息を吸って、吐き出した。とりあえず、業者の人が来るまで動いてみよう。ある程度片付けたら、後は業者の人が、私の想い出なんて無視して部屋を変えてくれるはずだ。実は、どこから手をつけるかは決めている。ベットカバーだ。私は、先ほど過去を映し出したブラウンのベットカバーのチャックを外す。ブラウンのベットカバーを全て外し終わったら、マットレスに消臭剤を吹きかけ、カバーを洗濯機にぶち込んだ。このベットカバーを処分するかはまだ決めかねている。まだ使えるし、もったいない。という、ただ私が貧乏性なだけの理由だから、今後は処分するかもしれないけれど。裸になったマットレスに吹きかけた消臭剤が乾く間、私は紅茶を入れた。テーブルで紅茶を飲んでいると、またしても過去の残像を私の目が映し出す。ソファでテレビを見ていた彼が私を振り向きながら言った。

 『この俳優、今度映画に出るんだって。好きだったよね?映画観にいっちゃう?』

 あの時、私はなんて答えたんだっけ?この場面も、何度も記憶が見せてくる場面だ。いつも同じ疑問を湧かせ、心を締め付ける。結局、あの時の映画はまだ観ていない。

私は立ち上がり、床に乱雑に置いてある紙袋の中から、一つの紙袋に手を伸ばす。中から、先日買ったばかりのベットカバーを取り出した。マットレスに手を伸ばすと、消臭剤はもう乾いているようだ。何も考えないように、私は集中して新しいベットカバーを取り付けていく。枕カバーまで付け終わったら、ふわりとマットレスに掛け布団をかぶせ、整えてみた。

 「うわぁ、良い感じ!」

 思わず、声に出てしまった。このベットカバーを見つけた時、これしかない!と思って即買いしたものだ。前回の打ち合わせの時に話していた、全体的に白のカバーに、足元に入る差し色の青。そんな都合がいいカバーなんてないだろうし、差し色の青はひざ掛けのようなものを探そうと思っていた。先週の休みにベットカバーを探し周ったが、やはり、そんな都合の良いベットカバーが簡単に見つかるはずもなく、私は白のベットカバーと、小さな青いひざ掛けが置いていた店にあたりをつけていた。ネットで探して、それでもなかったらこの店に再度買いに来よう。その後、三日程粘ったが、理想とするベットカバーは見つからなかったので、私は仕事帰りにあたりをつけていたお店に再度赴いた。場所も把握していたため、店内に入ると真っすぐに寝具コーナーへ向かう。お目当てのカバーを目指して進むと、目の前に現れたのは、まさに、理想としていたベットカバーだった。

 「えっ?」

 私はつい、声に出していた。展示されていたそのベットカバーは、白地に、青色の差し色が欲しいと思っていた場所に、青い花の模様がラインで入っている。前回、私は見逃していたのだろうか。近くに寄ってみると、「新商品」と書かれたポップが掛けられていた。肌触りもいい。値段は、最初に買おうと思っていた白のカバーよりも高いが、青いひざ掛けを一緒に買うよりも安い。私は即座にそのカバーを持って、レジへと並んだ。

 新しいベットカバーを取り付けると、毎日寝ている自分のベッドが、違う家のベッドのように見えた。思わず、ぼふっとベッドにダイブする。カバーを変えただけなのに、寝転がって見える景色が全然違う。今日からこのベッドで寝るのかぁと思うと、少しわくわくしてきた。そのまま、再度夢の中へ誘われそうになったが、私は理性を振りかざして起き上がった。まだ時間には余裕があるが、床には紙袋が無数に散らかっている。正直、私の中ではまだ、模様替えの効果に対しては半信半疑だ。でも、もう約束の日が来ちゃったんだから仕方ない。ベッドカバーを変えて、わくわくしたのは事実である事も、私を動かす少しの原動力になった。

 「よし、やるか!」

 自分に掛け声をかけて、床に散らばる紙袋達を片付けるべく動き始めた。



 なんだかお腹が空いたなぁと、ふと時計を見てみると、もう模様替え屋さんが来る三十分前になっていた。私は慌てて部屋の中を見渡すと、まだ紙袋は三分の一程床に残っている。「よしやるぞ!」と始めて見たものは良いものの、やっぱり部屋が少しづつ綺麗になって来ると、私の頭が、勝手に過去の彼の想い出を部屋中に映し出して、片付ける動きが鈍くなってきたのが原因だ。それでも、今までの私に比べると、だいぶ頑張った方ではある。洋服が入っていた紙袋を中心に片付けたので、もうクローゼットはパンパンだ。それでも、時間内ですべてを片付ける事は無理だと悟る。でも、このままだとさすがに模様替えの邪魔になるだろう。この部屋の完成形はどうだったっけ?と、前回の訪問の際の模様替え案を思い出し、私はベッドを置いている部屋の隅に紙袋を集めることにした。この部屋の隅であれば、比較的、邪魔にならないだろう。後は、とりあえず空腹を満たすために、卵かけご飯をかきこんだ。お茶を飲んでちょうど一息ついた時、

 「ピンポーン」

 家のチャイムが鳴った。私はインターフォン越しに「はーい、今開けます」と返事をして、一階にある自動ドアの扉を開けるボタンを押す。少し、緊張する。これでこの息苦しい部屋が変わらなければ、私はあとどのくらい、この部屋で耐えればいいのだろうかという不安からくる緊張だ。それでも、もう決めた事だし、後には引けない。

 「ピンポーン」と、部屋のチャイムが鳴る。私は部屋の扉を開いた。

 

「こんにちは!模様替え屋です!」

 前回同様、明るい声が耳に飛び込んでくる。今日の六浦さんは、スーツではなく、作業着を着ていた。幼い顔に作業着があまり似合っていない。これで社長さんなんだもんな、いくつなんだろ。という疑問が一瞬で頭を逡巡したが、とりあえず私は挨拶する。

 「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

 ペコリを頭を下げると、六浦さんも「こちらこそ、よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げた。

 「本日は二人で作業をさせていただきます。こっちは松永と言います。宜しくお願いします」

 六浦さんがそう言うと、大きな荷物の後ろからひょこりと顔を出したのは、ガタイはいいけど優しそうなおじさんだった。

 「こんにちは。本日はよろしくお願いします」

 おじさんは荷物を支えながら頭だけでお辞儀をする。まさに私がイメージする業者の人という感じだ。

 「それでは早速、本日の流れを説明させていただいて、作業に入らせていただきたいと思います。お邪魔してもいいですか?」

 六浦さんの顔が、前回よりもわくわくしているように見えた。本当にこの仕事が好きなんだなと感じた瞬間、

 「どうぞ、もう、自由にやっちゃって下さい」

 私も六浦さんの気持ちに感染したかのように、楽しみになってきた。私は、まだ息苦しいこの部屋へ、二人を招き入れた。



 前回同様、持参したスリッパに履き替え、六浦さんと松永さんは室内へ入ってくる。松永さんが持っていた荷物はパーテーションだったようで、「こいつの出番はまだなので」という事で、一時廊下に置いておくことになった。

 「まだ荷物がトラックに積んだままになっておりまして、松永に運んでもらう間、私が作業の説明に入らせていただこうと思います」

 六浦さんがそう言うと、松永さんは一旦荷物を運ぶ為に部屋から出て行った。六浦さんがカバンからファイルを取り出し、一枚を私に手渡す。

 「前回の模様替え案をプリントアウトしたものです。まずはベッドから移動させます」

そう言いながら、二人でベッドの部屋へ移動する。

 「うわ!すごい!良く、こんなぴったりなベッドカバーを見つけられましたね!」

 六浦さんはベッドを見るや否や、声を弾ませながら言った。私は心の中で、「そうでしょう!すごく探したんですよ!」という気持ちが膨れ上がったが、

 「たまたまですよ」

 と、照れながら返した。

 「ありがとうございます!イメージ通りです!部屋の荷物もかなり片付けてくださっているので、助かります!ベッドを動かした後は、このテレビ台とラグを変えます。本棚を組み立てて、諸々をこの模様替え案の位置に変えて完成という形になります。所要時間は、大きく見積もって三時間程度です。何かご不明点はありますか?」

 「あの、作業をしてもらっている間、私は何をしていたらいいんでしょうか?」

 私の質問に、六浦さんは「うーん」と首を捻って考えた後、

 「特にはないですね。後は私達に任せてもらって大丈夫ですよ。なのでゆっくりしてもらっていてもいいです。ただ、割と皆さん、私達が模様替えしている間に掃除をされることが多いですね。大きな物を動かすので、埃が出てきやすいんですよ」

 なるほど。このベッド、引っ越してきてから一度も移動させていないし、確かに埃が出てきそうだ。

 「分かりました」

 私は答えながら、掃除道具を手元に置いておこうと決める。

 「それでは、作業を開始させていただきますね。本日は、どうぞよろしくお願いします」

 六浦さんが再度頭を下げる。

 「よろしくお願いします」

 と、私も再度頭を下げた。




 私はとりあえず、先ほど食べっぱなしにしてしまっていた、食器を片付ける事にした。六浦さんは背負ってきた自分のリュックから、がさごそと作業道具を取り出していく。軍手を装着し、ポケットにタオルを突っ込む。身長と顔以外は、まさに作業員スタイルだ。今はテレビとスピーカーの配線を確認しているようだ。食器を洗い終わった私も、掃除道具を何か準備しようとキッチンから出ると、家のインターフォンが鳴った。きっと松永さんだろう。私はインターフォン越しに返事をして、一階の自動ドアを開くボタンを押した。掃除道具は何がいるだろう。とりあえず、クイックルワイパーと綺麗なタオルを一枚、準備しておく。部屋の扉ががちゃりと開いた。松永さんが玄関前まで持ってきた荷物を六浦さんが受け取り、次々と部屋の中へ搬入していく。この梱包された荷物の中身はどんなものなんだろうと想像を膨らませた。

 「よし、荷物の搬入は以上かな。これ、松永のおっさん用の綺麗な軍手。早速、ベッドから動かすか」

 六浦さんが声をかける。松永さんは手袋を変えながら、「よし、任せろ」と二人でベッドルームへ入っていく。ベッドの近くに置いてあったサイドテーブルは、既に六浦さんが移動させてあったようで、二人は何も言わずにベッドの上部と下部に分かれると、「せーの」と言って持ち上げた。

 「もうちょっと奥、あ、ストップ。後少しだけ右。よし、ここ」

 六浦さんの指示通り、ベッドが移動する。六浦さんは、置いたベッドの横にサイドテーブルを移動させ、ベッドの周りをぐるりと回り、リビングからもう一度ベッドルームを眺めると、「ごめん、あと少し右側、リビングから見て奥側に移動させたい」と言って、再度松永さんとベッドを動かした。動かした後、またベッドの周りをぐるりと回り、リビングからベッドルームを眺め、ベッドの高さまで目線を下げて部屋を見回す。

 「うん、いい感じ」

 六浦さんには、何が見えているのだろうか。私には、今微調整した違いは分からなかった。とはいえ、ベッドの位置が違うだけで、こんなに変わるものなのか。簡単に言うと、横向きを縦向きに変えただけのように見えるのに、いつもの見慣れたベッドの見える位置が違うだけで、とても新鮮だ。

 「竹下さん、次はラグとテレビ台等を動かしていきますね」

 六浦さんはそう言うと、松永さんと共に早速テレビの方へ向かっていく。テレビはやはり配線が繋がれているからか、二人共話し合いながら、慎重に動かすようだ。ずっと見られていてもやりにくいだろうと、私はベッドルームに移動した。六浦さんの言っていたように、ベッドが元々あった場所には、埃が溜まっていた。これは確かに、掃除したくなるなと、私は早速、クイックルワイパーを掛け始めた。



 ベッドルームの埃を退治している間も、着々とリビングルームは様変わりしているようだった。途中、松永さんが持ってきてくれた荷物をばりばりと開封する音が聞こえて目を向けると、そこからは爽やかな色のラグが出てくるのが見えた。私は「うわ!綺麗!」と思ったけれど、それ以上、模様替えの様子を見るのを止めた。模様替えの過程を見てしまう事によって、『違う部屋にしたい』という私の想いが形になった後の、完成した部屋への感動が少なくなってしまうような気がしたからだ。私は、ベッドルームの埃を退治した後、部屋の隅に追いやっていた紙袋を、再度片付ける事に決めた。朝同様、床に座って紙袋を片付け始めたのだが、不思議な物で、ベッドの位置が変わると床に座る位置も変わる。ただそれだけなのに、私の心は、穏やかだった。記憶がフラッシュバックしてこない。打ち合わせの日、六浦さんが言っていた、『視点を変える』という意味が、なんとなく、分かるような気がした。溜まりに溜まった紙袋も、ようやく終わりが見えかけている。

だけど・・・やっぱり気になるのは、このクローゼットだ。当たり前の事だが、あれだけあった荷物を無理やりに詰めまくっているせいで、今にもアメリカンアニメみたいに、服が飛び出してきそうな勢いすらある。これはもう、思い切っていらないものは捨ててしまおう!私は思い立ち、六浦さんたちの邪魔をしないように、キッチンの近くに置いてある棚からゴミ袋をまとめて取ってきた。まずは、ハンガーにかかっている服から物色する。この数か月、買い物をしまくったのはいいものの、開封せずに床に置いていたせいで、自分がどんな服をどれだけ買ったのかも定かではなかった。ハンガーにかけてある服を吟味していくと、元々持っていた服に似たような新しいコート等もあったので、古いものをどんどん、ゴミ袋に入れていく。途中で、ピタリ、と手が止まる事もたびたびあった。『この服で水族館に行ったな』とか『初デートが決まった時に買った服だ』と、頭が勝手に想い出を映し出そうとする。でも、これが片付けハイテンションというものだろうか。私は勢いだけで、服を断捨離していく。基準は、これからの私が着たい服だ。ハンガーにかけている服が終わった後は、五段ある収納棚を上から一段ずつ開けては捨てていく。あっという間に、ゴミ袋はパンパンになっていた。パンパンになったゴミ袋を見て、こんなに一気に捨ててしまっても、大丈夫だろうかと謎の不安が心をかすめたが、すっきりしたクローゼットを見ると、まだ袖を通していない、可愛い服が並んでいて、私は謎の不安を押し込めるように、ゴミ袋をきゅっと固く閉じた。

「竹下さん、リビングの方の模様替え終わりました。今から本棚を組み立てるので少しうるさいかもしれません」

六浦さんに声を掛けられ、私ははっと時計に目をやる。六浦さんたちが来てから、荷物の搬入や作業の説明も含め、もう一時間半が経っていた。

「分かりました。大丈夫です」

私はそう伝えると、六浦さんは作業に戻っていった。私は、残り少しになった、紙袋達へと向き合う。服の片づけの方が簡単だろうと、洋服が入っていた紙袋達から片付けていったが、今残っている紙袋達は、中身がどうやら洋服ではないらしい。「ではないらしい」というのは、何を買ったのか覚えていないからだ。一、二、三・・・全部で十二個。このうち、明らかに本を買ったんだなと思われる二個を除いて、私は一つずつ、中身を取り出していった。新しい靴を三つも発掘し、これは靴も、いらないものを捨ててしまおうと考えていると、次に紙袋から出てきたのは、更に丁寧に包装紙でくるまれていた白い塊だった。私は一体何を買ったのだろうと、白い包装紙をべりべりと剝いでいく。そこから出てきたのは、シリコン製でもちっとした感触の、ムーミンの置物だった。

「可愛い・・・」

きっと買い物した時にも同じ感想を抱いたはずなのに、初めて見たような感想が、つい口からぽろっと出てしまった。なんで忘れていたんだろう。私は、その置物をそっとベッドの上に置いた。忘れていてごめんね、今日の模様替えが終わったら、ちゃんと飾ってあげるからね。一旦、ムーミンの置物に心の中で詫びつつ、私は次の袋を開封する。次に出てきたのは、マリメッコ柄の、マグカップだった。黄色い花がデザインされたそのマグカップは、優しい花模様と黄色が相まって、心を軽くしてくれるようだった。私は、食器棚の奥に直し込んだ、黒いマグカップを思い出す。彼が使っていたマグカップだ。そのマグカップは、私の過去の日常に入り込んでいて、捨ててしまうと彼がもう一生帰ってこないような気がして、捨てる事が出来なかった。でも、目に入ると悲しくなるから奥に直し込んだのはいいものの、食器棚を開けるたびにその黒いマグカップの存在を思い出し、心の表面をちりちりと焦がしていた。

「松永のおっさん、ちょっと手伝って」

私がマグカップの想い出に浸りそうになっていると、ふいに六浦さんの声が耳に入ってきて、模様替えが終わるまで見ないぞと思っていた私はつい声の方に顔を向ける。目に入ったのは、模様替え案の時に話していた、パキラの木だった。パキラの木は、「せーの」という二人の掛け声で、ゆっくりと床に置かれる。二人が床に置いた振動で、ふわふわと揺れる葉は瑞々しく、私はつい、そのパキラの葉に目を奪われた。これから、私と一緒に生活していく木。私は自然と、彼が使っていたマグカップを捨てる決心が出来た。

 残り紙袋は五個。模様替えももう終盤に差し掛かっているようで、私は一気に紙袋から中身を取り出していく事にする。最初は片付けられるか不安の方が大きかったけれど、今は、新しい部屋にそのまま紙袋を残していたくないという気持ちの方が勝る。残りの紙袋から出てきたものは、ルームフレグランス、化粧品、トイレの座椅子カバー、掃除用品、一人用の鍋だった。片付けにキッチンやリビングをうろうろすると模様替えの邪魔になりそうだったので、一旦、床の端に置いておく。私は、入っていた紙袋や包装紙を次々にゴミ袋に詰め込んだ。この数か月、全然片付かなかった紙袋を、私は今片付けている。胸に沸き上がる感情に、なんて名前を付けたらいいのだろう。達成感?充足感?いや、一番近いのは安堵感かもしれない。私はやっぱりちゃんと片付けが出来る人間だったという、見失っていた自分が帰ってきた安堵感。

 私がじんわりと胸に広がる安堵感に浸っている側を、六浦さんが行ったり来たりしている。時折、「ちょっと向きを左」「パーテーションを後少しだけ手前に押して」という指示を飛ばしている。この模様替えも、もう終盤みたいだ。この模様替え中に、紙袋を片付けられて良かった。それだけで、この模様替えを申し込んだ事は成功だろう。全て紙袋を片付けた今となっては、もうあんなに散らかった部屋には戻りたくないという気持ちが大きいが、また散らかしてしまったらどうしようという不安もある。

 「竹下さん、模様替えが完了しました。確認をしてもらってもいいでしょうか?」

 六浦さんに声を掛けられ、感傷に浸っていた私は少しビクリと肩を震わせてしまった。振り向くと、満面の笑顔の六浦さんがいる。うわ、可愛い。と思ってしまったのは、年齢不詳の六浦さんの顔面のせいだ。六浦さんの顔からは、良い仕事が出来た時の満足感が広がっている。私の部屋は一体どのように変わってしまったのか・・・緊張で胸の鼓動が早い。それでも、満面の笑みを浮かべる六浦さんを見る限り、成功しているのだろう。私はゆっくりと、リビングの方へ歩みを進めた。


 一目見た瞬間、部屋の中を爽やかな風が通り抜けた。

 新しくなったラグには緩やかに窓から日差しが当たり、まるで抜けるような空が床に広がっているようだ。部屋を見回すと、傍にあるパキラの木がさらに癒しを増している。ふわふわと少し揺れるパキラの木は、しっかりとそこに息づいていて、吐き出された酸素を胸いっぱいに吸い込みたくなる。本当に、北欧の風が香るような気がした。


 「え?すごい!」

 自分の語彙力の無さがもどかしい。その部屋は、私のリクエスト通り、違う部屋のようだった。大型の家具はほぼそのまま移動されただけなのに、まるで初めて見るような感覚だ。私はソファに腰を掛けてみる。今までとは違う角度から日差しが当たり、気持ちいい。ソファに置かれた新しいブルーのクッションが、シンプルなソファをおしゃれな西洋ソファへと変身させていた。目の前に広がる景色も全然違う。正面にあるテレビは今までと同じはずなのに、テレビの後ろの背景が壁のみで、白い壁に黒いテレビが設置されることで、とても空間に余裕が出ている。右サイドに新たに設置されたパーテーションのおかげで、空間が区切られ、今までソファに座って見ていた景色とは全然違う。少し首を動かすと、斜め後ろにはパキラの木があり、そこは癒しの空間に変わっていた。ソファに座ったまま、癒されて動けなくなりそうな私に、六浦さんが声を掛ける。

 「竹下さん、こちらも確認していただいてもいいですか?こちらもいい感じに仕上がりました」

 そう促され、私はソファに根が張りそうな自分を立ち上がらせる。六浦さんが手を向ける方向へ行くと、そこはさっきまで見ていたパーテーションの裏側だった。

 「え、素敵・・・」

 思わずつぶやいた。目の端に、六浦さんがガッツポーズする姿が見える。私は、向きが変わったテーブルの一番奥の席に腰かける。まるで、カフェスペースの一角のようだった。簀の子状のパーテーションのおかげで、空気の通りも良く、その隙間から見える目線の先はパキラの木だった。この席の後ろには、打ち合わせの時に藤村さんが言っていた、ちょっとした本棚が設置されている。座った私と同じぐらいの高さの本棚がある事で、カフェの雰囲気を増していた。今は空っぽのこの本棚に、どんな本を入れてどんなディスプレイをしようか、考えるだけでわくわくした。さっきのソファが癒し空間だとしたら、このテーブルの一角はちょっとした作業が捗りそうな空気感を醸し出している。

 「気に入っていただけましたか?」

 六浦さんは、答えが分かっているような笑顔で私に尋ねた。

 「はい!すごく!」

 そう答えた私は、六浦さんに負けないぐらいの笑顔を浮かべていたと思う。




 六浦さんと松永さんが撤収作業に入り、マンションの一階にある粗大ごみ置き場までラグを持って行ってくれる流れになったので、私も一緒に一階まで行き、お見送りをする事にした。

 「それでは、本日はありがとうございました」

 六浦さんと松永さんが頭を下げる。

 「こちらこそ、ありがとうございました」

 私も深々と頭を下げた。最初に会った日、悪態をついてしまったけれど、あの家を片付ける事が出来て、本当に感謝している。

 「また、模様替えしたい時や家を建てたい時に呼んでください」

 「え?家も建てられるんですか?」

 つい、気になって私は尋ねた。

 「実は、本業は建築士なんですよ。最近独立したばかりなので、お客様が少なくて。なので、お客様のご紹介もお待ちしています」

 ちゃっかりと、六浦さんは宣伝も忘れない。普通は、自分でお客さんが少ないとか言わないと思う。最初はこのストレートな裏表のない言葉に、私も暴言を吐いちゃったんだよなぁと苦笑いする。

 「分かりました。またぜひ、利用させてもらいます」

 六浦さんは再度頭を下げると、松永さんと一緒にマンションを後にする。私は二人の姿が見えなくなるまで見送り続けた。



 少し、疲れちゃったな。私はマンションの入り口をくぐりながら、自分の部屋へ、思いを巡らせる。いつもの私はマンションの入り口をくぐると、より一層の気怠さを感じていた。今から、あの部屋へと帰らなくちゃいけない。彼との思い出が詰まったあの部屋へ帰ると、彼と過ごした日常が蘇り、外出している時よりも心が激しく揺れ動く。考えないようにと思えば思う程、辛さが増して、涙は勝手に目から零れ落ちていた。その結果が、あの紙袋の量だ。家になるべく居たくなくて、外出しては買い物をして、家に帰ってきては、彼との思い出をかき消すように、紙袋で部屋を汚した。今までの部屋へのイメージが悪かったせいで、条件反射で、今も気持ちが勝手に気怠さを感じている。模様替えが完了した今の部屋ならば、何か変わるのだろうか。

 エレベーターで、自室がある四階まで上がる。玄関の扉を開ける時、少し緊張した。玄関を開けると、そこには見慣れた私の部屋があった。玄関は今回、何も変えていないから当然なのだが、少しだけ心がずんっと重くなる。大丈夫、と自分に言い聞かせながら、ちょっとした廊下を歩いていき、リビングに入る。そこには、初めて見る私の部屋が広がっていた。

 「ほら、大丈夫だった」

 私の顔は半分泣いて、半分笑っていたと思う。もう、ここは、以前の部屋ではない。六浦さんが言っていたように、視点が変わったこの部屋は、彼の面影をほとんど消していた。新しい風が、吹き込む部屋。彼を忘れる事は出来ないけれど、過去を生きる部屋ではなく、私の未来を作っていける部屋。

 私は立ち止まらず、残りの部屋の片づけを始めた。リビングの家具を移動した後の綿埃を綺麗に拭きとっていく。その流れで埃が溜まっていたスピーカーも綺麗にすると、音が欲しくなって、私はお気に入りの音楽を掛けた。新しくなったこの部屋に、音楽が充満する。軽やかな洋楽にこの部屋がマッチして、片付ける足取りが軽くなった。先ほどそのままにしていた、紙袋から出てきた雑貨を片付ける。ルームフレグランスは、テレビの横に置く事にしようと、テレビに溜まった埃もふき取っていると、テレビの下に置いたままにしていた本の存在を思い出した。テレビと同じように埃かぶっていたその本を手に取ると、その本は「話せるようになる英会話本」と書かれていた。ああ、そうだ、彼と出会う前、私は好きな洋楽の野外フェスに行ってみたくて、英語を勉強しようとしていたんだっけ。すっかり、忘れていた。私は丁寧に溜まった埃をふき取ると、新しく設置された本棚へと並べた。その流れで先ほど紙袋を片付けている時、そのままにしてあった本が入っていた紙袋の中身を二つとも開封した。全部で九冊。九冊中、三冊が英会話本で、つい笑ってしまう。本当に、なんで忘れていたんだろう。本もだけれど、他の洋服や雑貨も、買い物している時は自分に必要だと思って購入していたのに、以前の部屋に帰ってきた瞬間、未来へと向かっていた自分の気持ちが過去に固執してしまって動けなくなっていたんだなぁと痛感する。でも、今ならもう、きっと大丈夫。私は残りの九冊も本棚へと並べた。ムーミンの置物も、本棚の一番上へ置いてあげる事にした。

 結局、模様替えは二時間半弱で終わったけれど、その後の片づけやごみ捨てで、部屋が全て片付いたのは夕方十八時を回っていた。最後のゴミを、マンションに設置されてあるゴミ捨て場へ捨てに行って戻ってくると、私の部屋は新しい時間を生み出していた。ルームフレグランスのおかげで、香りまで違う。いつもなら、部屋へ帰ってきた瞬間動けなくなる私だが、今日の私は疲れているのに、気力は枯れていない。『部屋は心の鏡です』というネットの書き込みに惹かれて申し込んだ模様替えだったけれど、あれは本当だったんだなと、コーヒーを入れながらぼんやりと思った。今日の夕飯は、パスタを作ろう。夕飯を食べた後は、音楽でもかけながら、溜まっていた本でも読んでみようかな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る