15.儀式の終わりと残された謎

「……そういうことでしたか」

 凛華は息を切らしながらつぶやいた。

 床に横たわる明文を見下ろすようにすぐ後ろに、見知らぬ黒いスーツを着た男の輪郭が見えている。落窪んだ眼窩とこけた頬が、薄闇に半分溶けてゆらゆらと揺らめいていた。

「あなたが明文さんの心の一部を操っていたんですね」

 凜華が語りかけるとその顔から、柔和な微笑がこぼれた。


 ——これが死神の正体なのね。


 明文の分離した心が真っ黒に歪んでしまったのは、この男のせいだろう。

 凜華は毅然とした眼差しでその怪異を睨み据えた。

 対峙する巫女と怪異。その狭間で、それまでおとなしく床に倒れ伏していた明文がまたもがき苦しみ出す。今度は痛みに耐えるように頭を抱えて、うめき声を上げていた。


 凛華は大麻を持つ手に力を込めた。そして静かに、しかし凛と強い口調で、言い放つ。

「明文さんに、すべての記憶を返しなさい。そしてこの人を解放しなさい」


 スーツ姿の男は、不気味な微笑みを絶やすことなく、明文を見下ろしていた。


 ――まさか、祓えない?


 一瞬、凛華のなかに迷いが生じる。

 だが死神は、一度顔を上げて凛華と目を合わせたあと、その形を保てなくなったらしく、あきらめたようにあっさりと霧散した。


 ――気配が消えた……でもこの感じ、祓えたというわけではなさそう。元いた場所に帰ったのかしら。


 床に倒れた明文の様子を見やる。

 意識はないが、穏やかな顔をしている。

 凛華はほっと胸を撫で下ろした。

 多少引っかかるところはあるが、とりあえず対処はこれで完了と言ってよさそうだ。


「すまん、ありがとな、凛華」


 ぽんと肩を叩かれる。それを合図とばかりに全身の力が抜けた。

 ぺたん、と緊張が抜けたようにその場に座り込む。長い髪が汗で頰に張りついている。自分が肩で息をしているのに気づくと同時に、心臓の音が聞こえ始めた。


 *


「はいこれ」

 俊平さんがにこにこしながら差し出してきたのは、どこでも売っている有名文具メーカーの、おなじみのカバーがついた消しゴムだった。文字の消しやすさには定評があり、うちの学級の児童のなかにも愛用している子がたくさんいる。俊平さんは、カバーをずらして、白い面を出す。

「ここにフルネームで相手の名前を書くだけで、呪いの消しゴムの完成さ。だれにも見つからずに使い切れば、相手は死ぬ」

「それが呪い? 恋のおまじないじゃないですか」

 僕は思わずあきれ声をあげてしまった。ふざけているのか。もしかしてさっきからずっと、騙されていたのでは? と思ってしまうほどの拍子抜けだった。だが俊平さんはその笑みとは裏腹に、ぞっとするほど冷徹な声で言ったのだ。

「まあ切り刻んだり燃やし尽くしたりしてもいいけれどね。とにかく扱いがひどければひどいほど、この名前を書かれた相手は傷つき苦しむ」

 死神の手から、僕は真新しい消しゴムを取った。どうして呪いがそんなやり方で成立するのかとか、そんなことはわからないけれど、小学校の教師という仕事柄、消しゴムは社会人にしてはよく使うほうだと思う。それにこの方法、こちらにリスクがあるとは考えにくく、かなりお手軽だ。甘いささやきに、僕は乗ってしまった。

「試してみなよ——」

 

 *


「ぶんたろーさん!」

 裸眼のぼんやりとした視界の隅で、だれかが自分の名前を呼んでいる。それがだれかを認識すると同時に、明文は完全に夢から覚め、わっと飛び起きた。

「りん、か、さん、」

 喉が枯れていて咳き込んだ。巫女服姿の推しが布団の傍らに正座しているのを目の当たりにしてさらに咽る。凜華様は菩薩のように慈愛に満ちたスマイルを見せた。

「ああ、よかった。あれから丸一日ほど眠っていらっしゃったのですよ」

「あ、あの、お祓いは」

 凜華がなにかしているあいだ、頭の中に洪水が起きていた気がする。だが、いまとなってはすべての感覚が過ぎ去ったあとだった。明文はまた社務所の一間に寝かされていた。枕元の眼鏡を見つけると、すぐにかけなおす。

「終わりました。とりあえずは」

 凜華がほっと息をつくのをみて、そうですか、と明文はうなずく。

「ありがとうございました。いろいろ」

 そうお礼を述べながらも明文の頭には、あるひとつの疑問が浮かぶ。

「あ、あの、でも結局、死神を祓うことは、できたんですか。僕は自分のしてきた復讐の記憶を思い出してしまったんですが」

「祓うというのとは、ちょっと違うかもしれません」

 ちらりと顔をみると、凜華も答えに困っているらしく、柔らかそうな頬を人差し指でつんとつつきながら考えこんでいる。

「……勝手に消えたというか」

 死神。スーツの男、青木俊平。

 一年前、閉院したばかりの青木病院で、謎の男、青木俊平と名乗る人物に、紫珠の死の真相を教えられたこと。青木医院長が紫珠を病気と偽って、治療と見せかけて殺したという事実を知ったこと。

 怒りと悲しみに飲まれかけていた明文の心に、俊平は復讐という手段を持ちかけた。彼は死神で、その呪いの力は本物だった。結果、明文は一年足らずで、青木病院の医院長、青木健一を死に至らしめることとなったのだ。

「僕は、なんてことを……」

 明文は頭を抱え、うめくようにつぶやいた。こんな凶悪な心が、自分の身の内に隠されていたなんて、知らなかったとか、覚えがないでは済まされないことだ。

「それに凛華さんにも……とても乱暴な真似を……ごめんなさい」

「良いのです。わたしのほうこそ、誤解していてごめんなさい。わたしはもともと、あなた自身が死神となっているのだと思い込んでいました。でもそれは少し違って、実際は、あなたの心は操られていただけだったのですから」

 慈悲深い神の御言葉のひとつひとつをかみしめて、昇天してしまいそうになる。しかし

 ボリュームの調節機能のついていない大声が朗々と響いて正気に戻された。

「そうだ! あまり気に病むな!」

「鹿助さん……」

 凜華の後ろから、霊視を終えたスケッチブックをひらひらさせていた。しゃべらないとその存在に全然気がつかなかったが、元気そうでひとまず安心した。

「やべえのはこの、スーツ死神野郎だ。コイツがすべての元凶。そうだろ?」

「だけど、実際に呪いをかけたのは僕……なんだと思います」

 明文は声を暗くした。

「俊平さんは、名前さえわかれば簡単に呪えると言ってました。だから僕は、その方法を聞いて実践してしまったんです」

「でもどうやったんだ、呪いなんて」

「鹿助さん、消しゴムのおまじないって知ってます?」

 鹿助はきょとん、としている。代わりに凜華があっと反応した。

「もしかして、消しゴムに好きな人の名前を書いて、名前が書いてあることをだれにも見つからずに消しゴムを使い切ったら両想いになれるってやつですか?」

「そうです。昔、小学校の頃、流行りましたよね」

「はぁ、なんだそりゃあ」

「死神の呪いは、それと全く同じでした。消しゴムに、本名をフルネームで書いたら、あとはどのようにかしてその消しゴムを刻むか、使い切るか、とにかく酷使すればするほど、呪われた相手は苦しむのだそうで」

 都市伝説めいた呪いのかけ方が相当意外だったらしく、兄妹の反応は微妙だった。自分自身も最初はそうだったことを思い出す。

「僕自身、信じてませんでした。でも、医院長は実際に……」

 実感が重くのしかかる。子どもたちに道徳を教える身として、個人的な理由で他人を呪い死に至らしめるなんて、決して犯してはならない罪だ。けれども一方で、なにもできなかった小学生の頃の自分たちに代わって報復を果たせたことに、どこか満足している自分もいた。こんなおぞましい心の内が知れたら、この兄妹にすら見放されてしまうだろう。気持ちを見透かされないよう明文は目を伏せた。

 そんな重苦しい沈黙に、割り込んだのは凜華だった。

「ぶんたろーさん、紫珠さんがあなたの前に現れた理由が、わたしちょっとわかったかもしれないです」

「え?」

 どきり、と心臓が跳ねた。そういえば、紫珠がなぜ明文の周囲で怪奇現象を起こし始めたのか、という謎がいまだ残っていた。

「紫珠さんは、あなたが青木医院長を呪い始めたのを知ったから、現れたのではないかって、わたし思います」

 凜華は終始穏やかな調子でそう述べたが、明文は混乱の面持ちで、顔を上げた。

「紫珠さんはあなたの復讐を止めたかったんじゃないでしょうか。だからなにか言いたげにあなたの前にたびたび出現していた。どうにか自分の気持ちに、気づいてほしかったんだと思います。こういうこと、弱い霊によくあることなんです。生者には干渉できない。だけどなんらかのメッセージを伝えたくて、必死に存在を主張する。その怪我のときが唯一、あなたに触れることができた瞬間だったのだと思います。ぶんたろーさん、言ってましたよね。『突き飛ばされたというわけではなく、後ろから引っ張られたと思ったのです。』って。『だからおどろいて、あわてて振り向いた。』って」

 頭を殴られたような気分だった。

 紫珠だってあいつが憎いだろうに。紫珠には復讐がかなわないから、僕が代行してあげた。そのつもりだったのに。

 それなのに、紫珠の気持ちは真反対で、僕の呪いをやめさせたかっただなんて。

「じゃあ僕は、ずっと彼女の意に沿わないことをしていたってことか」

 自嘲めいた、捨て鉢な声が出てしまった。

 凜華がばつの悪そうな顔をする。

「それだけじゃない。僕は彼女の母親まで呪ったんだ」

 明文は、嘆きのため息とともに吐き出した。凜華と鹿助は驚きはしなかった。薄々察しはついていたのだろう。

「最初は、りえも医院長に騙されていると思ってました。けど鹿助さんの霊視画を見て、同罪だと悟りました。あの母親、娘の病気を本気で治したいのなら、青木病院じゃなくて、ちゃんと専門医のいる大きな病院に連れていくべきだったんだ。そうしていれば、紫珠は問題なく、健康でいまも——」

 そうしなかったのは、りえが青木医院長との関係を続けたかったからにほかならないだろう。呪いを止めたかったという紫珠の本意を説かれても、明文はまだ大人たちを許せなかった。憎悪と怒りが噴出し、暴走しそうになる。

「身元不明の女性の遺体は、きっと古坂りえのものです。二日前、アパートに行ったときにポストを探ったんです。それで奇跡的に、りえの本名宛てに来た郵便物を見つけました。紫珠の母親の本名は、『古坂恵子』でした。りえは、仕事で使っていた源氏名だと思います。消しゴムに名前を書いて、昨日の夜、全部切り刻みました。僕は殺人罪で捕まってもいい。捕まるべきです。犯した罪は、償うべきだ」

 すべて白状して明文は自嘲の笑みを浮かべた。もう呪いは完遂したし、後悔はないはずだった。もっと晴れ晴れとした気持ちになるはずだった。なのに頭には靄がかかっていて、気持ちは泥のように重かった。紫珠の無念を晴らすつもりが、結局は紫珠の望まない復讐をおこなってしまったのだから。なんとも後味が悪い終わり方だった。

「なあ、ぶんたろー」

 口を開いたのは鹿助だった。

「現実的には、ぶんたろーのかけた呪いとその人の死についての関連を証明できるものはねぇ。彼らの死は怪異の引き起こす超常現象によるもので、司法はぶんたろーを裁くことはできねんだ。けどあんたがちょっとでも償うべき社会的責任を感じているのなら、今度は俺たちと一緒に死神祓いに協力してくれねーか」

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