14.廃病院の死神

 明文の身に異変が生じたのは、凛華が祝詞を唱えたあと、しばらく経ってからのことだった。

 意識を失って力なく横たわっていた明文が突如かっと目を見開いたかと思えば、一瞬にして身を起こし、うめき声を立てながら折れているはずの左腕を勢いよく振りかぶって三角巾を引きちぎり、頭を抱えてて畳の上に転がり、悶え苦しみ出した。

 あああっと顎を開き、悍ましい唸り声が聞こえた次の瞬間、明文は苦しさに耐えかねたのか、凛華に掴みかからんばかりに手を伸ばしてきた。


 こうなる予想はしていた。凛華はひるまず両手にすばやく力を込め、大麻ぬさを大きく、唐竹割りに振るう。


 間一髪のところで指先は空を掴み、明文はその場に糸が切れたかのように崩れた。意識はふたたび完全に飛んだらしい。ぴくりとも動かなくなった。ついでにかけていた眼鏡も吹っ飛んでいった。


 鬼気迫る形相はあきらかに普段の彼とは違った。まるでなにか動物的なものに意識を乗っ取られたかのようだった。


 あれがこの人の心の奥底で分離して、眠らせていた、感情の源泉。

 なんとかあれを引き摺り出すことができれば、祓い清めることもできるはず。

 だけど――思ったより明文の魂の形は歪んでいた。本来のもの静かな彼からは、想像がつかないほど。

 凛華は気を引き締めた。大麻ぬさを左右に振り揺らしながら、心の内で明文の分身に語りかける。


 鹿助は明文の背後で座し、瞑想状態のまま紙面に筆を走らせ、霊視スケッチを続けている。おそらく明文の記憶を辿っているはずだ。


 *


 青木病院の駐車場は、左右に四台ずつ、合計八台の普通車用のスペースがあるが、いまはもちろん一台も停められていない。

 三階建ての茶色い外壁を持つ建物は、僕が生まれる前からこのままだ。なんともいえない昭和感がある。ただ、まだじゅうぶんに施設として使えそうなほどきれいな外装だった。

「地元の方ですか?」

 不意打ちで声をかけられた。

 びっくりして振り返ると、すらりと背の高いスーツ姿の男性が立っていた。僕よりも五、六歳歳上だろうか。真ん中分けの今風の髪型。やや青白いが艶のある肌に、清潔感のあるさわやかな笑顔を浮かべている。

「え、あ、はい、一応」

 と僕は何度もぺこぺこと会釈した。無断で駐車場に立ち入ったことを、怒られるのだろうかと身構えた。

「病院、なくなっちゃったね」

 清々しい面持ちで彼は廃病院の姿を見上げた。どうやら僕を咎めるために来たわけではないようだ。

「ですね」と僕もつられて建物に目をやる。

「三代目だったんだよね、医院長」

「はあ」

 気さくなだけかもしれないけど、この人のしゃべり方、なんていうか馴れ馴れしくて鼻につくな……。というのが初対面に交わした一言二言で抱いた印象だった。すると、そんな僕の引き気味な態度を感じ取ったのか彼は少し困ったように笑った。

「ああ、いきなりごめんねぇ。俺、この病院に勤めてたんだ。一応青木家の人間で」

「あ、そうだったんですね」

 なるほどどこかわけ知り顔だったのは、そのためだったのか。言われてみれば、青木医院長にどことなく雰囲気が似ているような。

「うん。半人前だったけどね」

 医者だったのだろうか。でも院内で見かけたことは一度もなかったな。まあ僕が青木病院を出入りしていたのは十四年も前だから、その頃はまだこの人も学生だったのかもしれない。いまはどこか別の病院で働いているのだろうか。などと余計なことを考えていると。

「なか入ってみる?」

 まるで通りすがりの雑貨屋に入るかのような気軽さで男性が聞いてきたので、僕はきょとんとしてしまった。

「入れるんですか? それ不法侵入にならないです?」

 ははは、と男性は愉快そうに笑った。

「大丈夫だって、俺が一緒にいれば」

 元病院関係者、しかも青木家の親戚の方に自信ありげな調子で言われると、うしろめたさが薄れ、不思議と廃病院の内部に興味が湧いた。どうせやることもなかったし。

 鍵はかかっておらず、現役のときと同じように自動ドアがスライドした。まだ電気が通っているのだろうか……。それってセキュリティ的に大丈夫なのかな、と頭に一瞬疑問が浮かびかけた。けどいちいち質問して「そんなこともわからないのか」と思われるのが嫌だったから黙って、彼について院内に足を踏み入れた。

 病院は静かで薄暗く、換気していないため少し埃っぽい気もしたが、ひと月ほど前まで営業していたとあって、意外と片付いてはいる。廃墟というかんじはない。

「きれいなままですね。明日にも再開できそう」

 そんな素直な感想が口をついて出た。

「まだ備品とか捨ててないからね」

 男性は軽い口調で、軽い足取りで、ベンチの並べられた待合いロビーを通り過ぎて奥へと足を進める。

「あのぅ、青木さん……とお呼びしていいんでしょうか?」

 診察室が三部屋、廊下に沿って並んでいる。それらを通り過ぎながら、遠慮がちに後ろから呼びかけた。振り返らずに彼は名乗った。

「ああ、俺? 青木俊平」

「俊平さんは、なんのためにここに?」

「さあ、なんのだろうな」

 俊平さんが答えに一瞬詰まった気がした。

 だけど、

「こっちだ」

 立ち止まると俊平さんはとある一室の扉を開けた。

 顔を上げると、扉の上に「事務室」と書かれている。

「ここって……」

 通常なら医師と看護師しか立ち入ることができないはずの場所だ。

 そんなところに部外者の僕を普通に入れていいのだろうか。いくら青木家の関係者で、もともとここで働いている人だったからといって。

 俊平さんは、迷わずこの事務室を目指していた。

 この部屋になにか探しものがあったのだろうか。

 いくつも、小さな疑惑の種が落ちている。

 僕が入口で立ちすくんでいるあいだに、俊平さんは奥の扉を抜けて、さらに倉庫のような場所へと入っていってしまった。

 彼の目的は、いったい――。

「あった。きみが探してるのは、これだろ?」

 突如声がしたほうへ顔を向けると、俊平さんが青いファイルを片手にひらひらしながら倉庫から戻ってくるところだった。

 はい、と渡された青いファイルの背表紙に書かれた文字を見て、僕は目を見張る。

 ――『古坂紫珠』

 黒のサインペンで、名前が書かれたシールが貼ってあった。

「こんなものが、どうして」

 僕は唾を飲み込んだ。個人情報がこんなにこのまま残っていていいのか。

「見てみなよ」

 と俊平さんが促すので、震える手で開いてぱらぱらとめくってみた。

「これ……古坂の、診察の記録? しかも二〇〇五年って……古坂が小学一年のときだ」

 僕は医学的なことについてはまるで知識がないから、カルテを見てもどういう症状だとなんの病気の可能性があるとかって、まったくわからない。ただ、その文面にたびたび出てくる単語の意味はわかる。


「心因性」


「えっ、これって……」

 心因性、つまり、心が原因。悩みやストレスからくる症状のことだ。

 紫珠は心の病気だったのか?

 まさか。

 ひまわりのような屈託のない笑顔が脳裏に浮かぶ。

 あの子にかぎって、ありえない。

 だったらなぜ。

 そもそも、心因性疾患の小児患者にとってここの病院にかかることは適切だったのか?

 一瞬、紫珠の保護者に対する不信感が胸をよぎった。紫珠の母親が、この病院を選んだはずだ。僕が見舞いに行くと心配そうに娘の看病をしていて、献身的だった気がする。ただ、なんとなく「私たちかわいそうな親子なんです」アピールが強くて、僕を疎ましそうな目で見てきたのを覚えている。あいつがちゃんと紫珠の病気を理解していなかったせいで、紫珠は専門医にかかれなかったんじゃないのか?

 不可解なことはもうひとつあった。

 診察の記録は、二年後である二〇〇七年で終わっているのだ。

「紫珠は二〇〇九年まで病院に通院していたはずなのに」

 もしかしたら二冊目のファイルがあるのかもしれない。僕が顔を上げると、俊平さんと目が合った。

「気づいたかい」

 俊平さんはなぜか、にこやかな笑みを浮かべていた。

「気づいたって、なにがです?」

 なにがなんやらわからないまま僕が尋ねると、俊平さんは驚くべきことを話し始めた。

「その子ね、病気なんかではなかったんだよ」

「え?」

 予想もしていなかった言葉に、石像のように硬直してしまった。自分の動悸が、心の暗闇の奥底から聞こえてくる。

 俊平さんは、事務室に並べられたデスクの隙間を悠然と歩き回りながら、語り出す。

「正確には二〇〇五年の時点で病気は完治したとされていた。病名は夜驚症。夢遊病と似て、眠っている最中にふと半覚醒状態になり、立ち上がったり声を上げたりする。子どものうちはよくあるもので、成長とともにたいがい自然に症状は治まる。だが夜中に飛び起きて叫ぶ娘を見た母親は、この子は頭がおかしくなったんだと思い込んだ。それでこの病院に連れてきた。そこから、すべては始まったんだ」

「始まった……って?」

 自分の声が震える。答えを聞くのが怖かった。信じたくなかった。

 しかし俊平さんはぴたりと巡回をやめると、こちらに穏やかな面持ちを向け、恐るべき事実を続けた。

「医院長の狂気の診察だよ。古坂紫珠を心因性のストレス障害ということにして、薬を過剰に摂取させるっていうね」

 頭のてっぺんから血の気が引いていくのがわかった。

 紫珠は、病気じゃなかった。

「なんのために、そんな……」

 酷いことを、という言葉は言葉にならなかった。どうして紫珠にそんな仕打ちをする必要があったのだろう。紫珠がなにか悪いことをしたのか? ありえないだろ。

 しばしの沈黙の末、

「青木健一は表向き善良な医師のフリをして、裏では抵抗力のない子どもや社会的弱者をそストレスの捌け口にしてたんだよ」

「信じられないですよそんな話!」

 思わず僕はそう叫んで、俊平さんに詰め寄っていた。事務室内に僕の荒らげた声だけが反響する。目の前の男はまったく動じない。細身のスーツ姿に整った顔立ちは、こんな場所には不釣り合いだ。なのになぜか、ここにいることがとてもしっくりと来ている。浮いているのに溶け込んでいる。なにか、会ったことはないはずなのに、知っている気がした。彼は沈黙していたがその圧力が僕を後退りさせた。


「あなたはだれなんですか。なぜそんなことを知ってるかのように言うんです?」

 すると青木俊平は、その顔からさっと笑みを消した。目が爛々と異様な輝きを放ち、ぞっとするほどほおがこけていることに、僕はその顔を見て、はじめて気づいた。


「俺は死神さ」


 こちらをじっと見つめて、男は真顔で口を動かした。真偽のほどはともかく、とんでもないものと遭遇してしまったらしいということだけがぼんやりとわかってきた。混乱する頭で、僕は死神の誘いを聞いた。


「医院長が憎くはないかい? 医院長の気晴らしのために紫珠ちゃんは亡くなったんだよ。俺が力を貸してあげれば、きみは紫珠ちゃんを死に至らしめた存在に、復讐することが可能だよ」

「復讐……?」

 ぼんやりとした頭にその二文字は異様に魅力的に浮かび上がってみえた。

「そう。具体的にはね、呪いの方法を知っているよ。死の呪いさ。と聞くと恐ろしいけれどね、名前さえわかれば簡単に呪える」

 ばかばかしい、なんだよ呪いって。聞けば聞くほど物騒で胡散臭い……はずなのに。僕の心はふらりと揺れ動いた。

 死神の男は真剣な表情で続ける。

「あの日救えなかった少女のために、卑怯な憎むべき相手に、少しでも同じ苦しみを味わってもらいたくはないかい?」

 脳内に直接語りかけるような甘い言葉。化け物にとんでもないことを吹き込まれているのにもかかわらず、僕と紫珠のことを想って、親身になってくれている人の言葉のように僕には感じられた。意図せず涙が溢れて判断を惑わされる。

 死神から優しく差し伸べられたその手は、骸骨のように痩せ細っていた。

 目の前に立つ存在は人間ではないのだ、と思い知ったときには、もう僕の思考は底なしの沼のほうへと傾いていた。


 そして思い出す。僕は十四年のあいだずっと、後悔し続けていたのだということを。

 あの頃紫珠の病気を間近で見ながら、なにも力になれなかった。

 だけどいまなら。


 思い巡らすより先に、僕の口は勝手に動いていた。

「呪うって、どうやったら……」

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