13.過去のページ
きっかけは、小学校時代の同級生からのLINEだった。
同窓会の出欠確認に僕は「仕事があるのですみません、欠席でお願いします」と愛想のかけらもない断り文句を打ちこんで送信した。
いつもならこの事務的な手続きだけで終わる。でも今回、しばらくしたらメッセージが返ってきた。
「了解。残念だけどまたの機会に! そういえば知ってた? 青木病院ってつぶれたらしい」
彼がどうして僕にそれを教えてきたのかはわからない。思い出話をダシにして、僕にどうにか同窓会への参加意欲を示してほしかった……とか、そんなところだろうか。
うちの学年は卒業以来、毎年ではないけれど何度か同窓会が開催されているらしい。それで毎回クラスで仲が良かった人が出欠のLINEをくれるのだ。
参加したことは一度もなかった。
同級生からのLINEにはそれっきりなにも返さなかった。
紫珠の死から一年半後、県外の私立を受験をした僕は、中学からだれも知らない場所でやり直すと決めた。
小学校時代の影が薄かったガリ勉キャラを捨て、部活はバスケ部に入って高校卒業まで続けた。中高一貫の男子校。クラスに友達をたくさん作った。順当に大学に進学し、教育学を学びながらバイトにサークル、彼女もできた。お手本のような、充実した学生時代を送ってきた。
だれも僕が五年生のときに失ったものを知らなかった。そのほうが気が楽だった。親とか、家族とか、恋人とか、もっと身近な存在を亡くしたのなら、周りに知られてもよかったかもしれない。かわいそうだって思われるだけの不幸な出来事を、たしかに経験しているのだから。けど僕の立場は、そこまで当事者ではなかった。小学生の頃に永遠に僕の前からいなくなってしまったあの子は、僕にとってはクラスメイト以外の何者でもない。だからそこまで心に傷を負う権利は自分にないと思っていた。悲しい出来事には間違いないけれど、人生のたった一ページにすぎないのだと。だからすべてに蓋をした。僕の心は無傷で、まったく新しい人生を歩んでいたつもりだった。
それなのに。
青木病院廃業の話を聞いたとき、僕は脳内記憶のページをぱらぱらと、小学校時代まで一気に遡っていた。
蓋をして封印したつもりでも、破り捨てたわけじゃない。この一ページにずっと後悔と自責の念は貼り付いたままでいたのだ。
「明文は、紫珠がもうすぐ死んじゃうと思う?」
と聞かれたあのとき。
真剣に考えて、もっときっぱりと否定しておけばよかった。
思わないよ、思うわけないだろ。
ちゃんとそう言えばよかった。
言霊の力というものがもしあるのなら、僕のその言葉が最後の最後で死神のもとから君を連れ戻すことだって、できたかもしれない。
……いや。そんなの思い上がりだ。運命はきっと変わらなかった。でもたとえなんの力も持たなくても、僕は自分の素直な気持ちをもっとたくさん、言葉にして、君に届けておくべきだったんだ。
伝えたいことはなにひとつ、言えなかった。
僕は紫珠がいなくなったあの日からずっと、深い後悔の痕とともに生きていたのだ。
いままでずっと、見ないようにしていただけで。忘れたフリをしていただけで。
小五の僕はひねくれていて、愚かなクソガキで自分勝手だった。紫珠が当たり前にくれる笑顔と親切に、甘えていた。僕の前からいつかいなくなるなんて、そんなことはありえない。病気ともうまくつきあっていけるはず。いつかは治るんだって。そして将来、紫珠は絵を描くひとになるんだって。
根拠もないのに信じていた。
紫珠がどんな病気だったのか、知りもしなかったのに。
そうだ――紫珠の病気って、結局なんだったんだろう。
当時だれも教えてはくれなかった。うちの母は噂好きだが難しい話は都合よくスルーするタイプだし、紫珠の母親である古坂りえは僕を毛嫌いしていたし、青木医院長先生とはサシで話ができるほどに顔馴染みではなかったし、しかも子どもの頃の僕はいまより過剰に遠慮がちな性格で、生意気に「プライバシーへの配慮」だとか覚えたての用語を盾にして、こっちから病気の話題をするのを極力避けていた気がする。
僕のいた大学の教育学部では、発達障害や特別支援について学ぶ機会はあったけれど、児童の医療支援については講義内でちょっと話が出たぐらいだ。普通学級で対応できることには限りがあるし、重篤な場合は特別支援学校か院内学級に通うためだと思う。いまの勤務先でも、もし医療ケア児童が在籍する場合は、その都度医療機関を通じて個別に対応することになっている。場合によっては教育委員会も介入する。ちなみに僕は赴任してから、小児喘息やアレルギーのある児童は何名か担任を持ったけれど、紫珠のように頻繁に入退院を繰り返す系の疾病を抱えた子には、まだ出会ったことがない。
紫珠の抱えていた症状について覚えていることを書き出してみる。
食事制限はない。
学力や発達に遅れもない。
視覚や色覚に異常はなく、絵は描ける。運動機能に障害はないように見えた。
だけど体育の授業に参加することはできない。
プールに入ることもできない。
宿泊行事に参加できない。
学校にいるあいだに目撃したことのある症状としては、主に発熱と嘔吐。
それで早退したことが一度あった。
月に一回点滴を打つための通院。
血液検査も月に一度ぐらいの頻度であったか。
治すことは難しいが、病気とうまくつきあっていけば、悪くなることはないと話していた。
学校で元気そうにしているかと思えば、次の日から突然一週間ほど入院することがあった。
そのようなときは、入院して検査をしていると言っていた。
検査入院中に、容体が急変して亡くなった。
わかっていることを羅列してみても、これだけで病名を特定するのは無理筋のように思う。
ただここまで書いたところで僕は、古坂紫珠が抱えていたこれらの症状に、ちいさな引っかかりをおぼえた。なにとは言葉にして言えないので、もやもやとしたものが脳を覆っているようだった。
なんとなしにスマホの検索エンジンに青木病院の名前を打ち込んでいた。
青木病院は、そのときまだ閉院して日が浅く、公式サイトが残っていた。アットホームな地域医療を目指す病院。内科、小児科、耳鼻咽喉科。トップページに医院長の青木健一先生の写真が、笑顔でご挨拶を述べている。僕の記憶の片隅にほんのり残る顔だ。ほんとうにいまもこんなに若々しいかどうかはさておき。
こんなサイトの情報を見たところでなんの意味もないのに、時間の無駄使いをしているのだろう。と思いながらスクロールしていく。
外来について。診療時間。入院設備について。病室は十二部屋。院内の見取り図。看護師、栄養士の紹介。健康診断、予防接種について。リハビリテーション、在宅療養について……。
さきほど頭にちらついた小さな違和感は、やがて疑問となってふつふつと湧いてくる。もしかしたら別に、なにもおかしなことではないのかもしれない。諸々の事情を含んで、あえてそうしているのかもしれない。けれどどうしても、紫珠がこの病院に通院していたという必然性が見出せなかった。
もしもこの病院ではなく、小児医療を専門とするもっと大きな病院で、しかるべき治療を受けさせてもらえていたら。
紫珠は、もっと長く生きられたんじゃないのか。
いまさら掘り返してなにになるというのか。
考えるのをやめろ。
やめて元通りしっかりと蓋をするのだ。
そう自分に何度も言い聞かせた。
だけど一度めくられてしまった記憶のページは翌日も翌々日も開いたままになっていて、紫珠のことをもう一度、今度こそ、少しでも理解したいという気持ちは昨日より強くなっていた。
だってあの頃の自分は彼女のことを、理解しているようでなにひとつ知らなかったから。学級委員を押し付けられたことにより、学校でもらったプリントを紫珠に届けにいく。それだけの存在で、別に特別親しくなるつもりはなかったのだ。
「紫珠」なんて、本人の前で呼んだことはなかったし。
仕事の休みを利用して青木病院の跡地を訪れた。
特に目的はない。ただ思い出に浸るだけ。
だれにも会わずに帰るつもりだった。
だけどそこで、僕は思いもよらないある人物と邂逅することになる。
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