9.知らないほうが幸せだった事実
家の外へ出て明文が一度だけ青木家の外観を振り返ると、二階のカーテンの隙間から何者かの影がさっと横切るのが見えた。それが引きこもりの青木家のひとり息子なのかどうかは、本人の顔を知らないのでたしかめようがなかったが、どこかじっとりとした視線を感じて、明文は思わず顔を背けた。
車に戻るとすぐに、鹿助がエンジンをかける。動き出して少ししてから、明文はようやく緊張から解かれて、溜めていた息を吐き出した。
「結局。わかったのは青木先生がほんとうに亡くなってしまったことだけでしたね」
「いやいや、それだけじゃねーぞ」
さっきまでの青木夫人との陰鬱な対話など忘れ去ったかのように、鹿助はいつも通りの晴れやかな口調で言った。
「青木医院長が生前、何者かにおびやかされていたこともわかった」
「ああ。あいつが来る……ってやつですか。鹿助さんは、その『あいつ』っていうの、死神のことだと思います?」
「思う」
どきりとした。鹿助の返答に迷いがなかったからだ。鹿助がさらに付け加える。
「――仮にそうだとして、死神の正体が古坂さんの母さんかってのは、ちょっとわからんけどな」
「僕は、それ違うんじゃないかって気がします。青木先生の奥さんの話だと、古坂の母親がすでに死んでいて、怨霊にでもなって青木医院長を襲ったかのような口ぶりでしたけど……あ、一応言っておくと、古坂の母親の安否は、正直なところ僕も知りませんよ。ただなんとなく、しぶとく生きながらえている気がして。青木医院長との不倫関係がたとえ一方的に捨てられるような終わりを迎えたとしても、それを気に病んで死ぬような人間だとは、思えないんです」
うーん、という、肯定とも否定ともつかない唸り声が聞こえた。
「鹿助さんは、古坂の母親と、青木先生の自殺とに、なにか関係があるとおもいますか?」
ちらりと横顔をうかがう。鹿助はなにか考え込んでいるふうで、いつになく真剣な表情をみせる。
「古坂親子が以前暮らしていた家なら僕、知ってます。いまそこにだれがいるかはわからないですけど」
直接訪ねた回数はそれほど多いわけではないけれど、それでも古坂家への道ははっきりと覚えていた。
「おお、それはちょうどいい。せっかくだし、このまま行ってみるか」
「え、いまからですか」
自分で進言しておいて、いざとなると明文は胃の辺りが重たくなるのを感じた。古坂紫珠の葬儀以来、あの母親とは一度も顔を合わせたことがない。自分のことは覚えていてほしくない。もしも覚えていたとしたら、ろくな印象ではないだろうから。
逡巡する明文に、鹿助はかまわず道を聞いてきた。結局、車で五分も走れば目的地に辿り着いてしまった。
「……あの信号過ぎてすぐのアパートです」
大通りの交差点である。交通量が多いから登下校の際は気をつけるようにと、紫珠は母親によく言い聞かされていた。横断歩道を渡るときもかならず右手をあげて、青信号が点滅している状態のときは無理に渡らず、次の青を待つほど慎重だったのを思い出す。
都合良く近くにコンビニエンスストアの駐車場があったため、鹿助はそこに車を停めることにした。
「コンビニが近くて便利じゃないか」
「たしか僕が小学生のときにはこの辺に店らしきものは全然なくて、民家が建ってましたけどね」
コンビニだけでなく、パン屋や美容院など周囲にはいくつか新しい施設が立ち並んでいる。だがその古びた二階建ての木造アパートだけは、明文の記憶にある姿そのままで、時の流れに取り残されているかのようだった。
「古坂んち、たしか二階の201号室でしたけど」
錆びた朱い鉄階段の下にまとめて並んだそれぞれの部屋の郵便受けを目で探る。そもそも無記名の居住者が大半で、201もそのひとつだった。大量の郵便物がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「あのーう、どちらさまです?」
突然声をかけられて、明文はばっと振り返る。
コンビニのレジ袋を腕に下げた小柄な中年の女性が、不審げにこちらを見ていた。小学生明文の記憶にはない人物だったが、このアパートの住人のようだ。怪しまれないよう、明文は努めて落ちつき払って会釈した。
「すみません、失礼しました。昔このアパートに、古坂って女の子とそのお母さんが住んでいませんでしたか?」
ダメもとだったが、幸いにも女性の答えははっきりしていた。
「ああ、うちのとなりの人かしら。ならだいーぶ前に引っ越したわよ。十年ぐらい前。それからはずっと空いてる」
「そうなんですね……」
古坂の母親は、もうここには住んでいない。そう知ると明文は、ほっとしたような、落胆したような、複雑な気分になった。それならあのポストの中身はずっと開けられていないということか。
「なあに、あなたあの人の客かなんか? にしちゃあ若いけど……あ、借金取り? まだ返してなかったんだ」
明文の脇を通り過ぎながら中年女性は眉を顰めた。左腕を吊っているので治安の悪い界隈の人間だと思われたのかもしれない。とはいえ借金取りと間違えられるのははじめてだった。
「いえ。僕はただ、娘さんのほうと、クラスメイトで……」
答えながら、そういえば鹿助がいつのまにかどこかへ消えていることに気づいた。中年女性はまだ疑いの眼差しを向けながら、二階への外階段を上がっていく。
「あ、あの」
あとを追いかけた明文は、思わず引き留めるように腕を伸ばしていた。
「古坂さんがどちらへ引っ越しされたかって、聞いてます?」
「さあ〜そこまでは」
女性は困ったような苦笑いとともに首を傾げ、その傾きと同時に自分の部屋の鍵を開けた。もしかしたらいままでも同じようなことを借金取りに聞かれてきたのかもしれない。
「じゃあ、名前は? 古坂りえの本名だけでも――」
なおも明文が食いさがろうとすると、
「ごめんなさーい。ほんとになんにも知らないので失礼しまぁす」
とねばっこい断り文句を残し、202号室の扉はぴしゃりと閉めきられてしまった。
「ああ……」
せっかくの住人登場チャンスだったのに。虚脱感に見舞われながら、伸ばした手を力なく下ろす。
「……てか鹿助さん?」
ささくれた気持ちの矛先は鹿助に向かった。
「どこ行ってんすか」
その頃鹿助はというと、駐車場に戻っていた。車の傍らに建物を見上げるような姿勢で立ち、スケッチブックを開いていたのだ。
「絵、……ずっと描いてたんですか」
「おお、すまねえ」
明文が近寄って声をかけると、こちらに視線をやって、片手をあげた。神主衣装でスケッチをおこなうその姿は完全なる不審者だった。さっきの中年女性には会わせなくて正解だったかもしれない。
「霊視してなにかわかりました?」
「いや、まあ、古坂紫珠さんの母さんが、昼も夜も仕事に出かけてたってこと、ぐらいかな」
狼狽えたようすで、鹿助はスケッチブックをさっと閉じ、後ろ手に隠した。
「ちょっと、なんで隠すんです? 見せてくださいよ」
「そんなに言うなら……」と、鹿助が渋々差し出してきたページを目にして、顔が引き攣るのをかんじた。
「青木先生……」
このアパートにも、青木医院長は訪れていたのか。ばっともぎ取るようにして、明文はそのページを凝視した。乱暴に次のページをめくると、白紙だった。
「目的がなにかはわかんねーけど……」
という鹿助のフォローは耳に入らなかった。そんなのは言われなくてもわかりきっている。胸のうちに黒々としたものが広がっていく。
ひとりぼっちで入院していた幼い娘をよそに、母親と医者は逢瀬を重ねていた。そのあいだも紫珠は病気に苦しんで、学校も行けなくて、心細い思いをしていたのに。
かれらがいかに汚い大人であったかを、二日のうちにこれほど思い知らされることになろうとは。虫唾が走るとはまさにこのことだった。
「ぶんたろーさん」
どれぐらいのあいだぼんやりとしていたのか、鹿助にぽんと軽く肩を叩かれて明文は我に返った。
「とりあえず帰ろう。腹が減ったしな」
無意識のうちに握る指に力が入っていた。紙の両端がぐしゃっと皺になってしまったスケッチブックを、鹿助がひょいと回収する。
その途端になんだか急にどっと疲労感が襲ってきた。
またこいつと神社に帰るのかと思うと、うんざりする。
神社に帰れば凛華がいるというのも、このときばかりはさらに気を重くさせた。だってこんな気持ちで推しの天使に迎えられるのは罰当たりだ。合わせる顔がないというやつだ。
「一度、実家に帰ってもいいですか。ここから徒歩で行けるぐらい、近いですし」
暗い声で明文は言った。
「そうか」と鹿助は案外あっさりうなずいた。
「気をつけて帰れよ」
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