10.忍び寄る危険
「そう。じゃあぶんたろーさんは実家に帰ったのね」
家に帰った鹿助が、途中で明文と別れた経緯を説明すると、ちょうど食堂で昼食のカレーうどんを用意していた凜華は少し残念そうな顔をした。
「だいぶ疲れてるみたいだったから、しばらくそっとしておいてやったほうがいいかと思ってな。俺みたいなのがずっと横にいるのも鬱陶しいだろうし」
「ふふふ。おにいさまにも一応ご自身の鬱陶しさについての自覚はあったのね。やっぱりわたしも一緒に行けばよかったかしら」
凜華は少し微笑んでから、「ところでこれ、見てもらえる?」とテーブルの上のタブレットを操作し、あるページを開いて見せてきた。
「あれから古坂さんのこと検索して、ネットで調べてみたの。そしたらね、紫珠さんのお母さん、このひとなんじゃないかって」
凜華が開いたページは「Amethyst doll」というタイトルで作成された、ブログサイトのトップページだった。サイドに表示された簡易的なプロフィールには「古坂りえ」という名前の記載があり、苗字はたしかに一致している。九月二十日生まれ。おとめ座。O型。年齢に関する情報はなかった。更新はしばらく止まっている。というか最後の記事の日付は2009年。なので投稿主ご本人も、もうこのブログの存在自体を忘れ去っているかもしれない。その最後の記事を読んでみる。すると、りえが小学生の女児を育てる母であることがわかる。
【今日も娘ちゃんの通院。毎回注射をいやがる娘ちゃん。もう四年生なんだから、いい加減がまんできるようにならないとね~】
さらにいくつかの記事を読んでみると、シングルマザーであることや、昼夜仕事を掛け持ちしていることも浮き彫りになってくる。たまに食べたものや新しい娘の洋服の写真もアップされている。体の弱い娘を献身的に看病する母親の、つつましくも愛情豊かな生活ぶりが見て取れた。
【通院のあとはごほうびのドーナツ。娘ちゃん食制限はないから、それだけは救い】
「この『
凜華が言う。スピリチュアル的にも魂を安らかに保つ効果のある石だ。ついでに言うと二月の誕生石でもある。だがりえの誕生日は九月二十日で、アメジストは誕生石ではない。つまりこの宝石をブログタイトルに使用した理由はなにか別にあることが予想される。
「病気の小学生の娘を育てるシングルマザーのブログ。こんなに条件かぶらないと思うわ」
このブログの主が古坂紫珠の母であることについて、凜華はすでに確信に近いものを得ているようだ。もしかしたら紫珠の誕生日は二月かもしれない。そうだったら信憑性はさらに上がる。明文に聞いておけばよかった。
【今日は昼仕事と夜仕事の合間に、学校から』絡。熱が下がったから学校に行かせたのが悪かったみたい。娘ちゃんにつらい思いさせてしまって、反省】
娘が横たわるのは病室のベッドだ。点滴のパックが一部分写った写真。これが青木病院で撮られたものかどうか、決定的な証拠になるようなものはない。でもそういうふうにも見えなくはないと一度思うと、凜華の言うようにいろいろな条件が一致して思えてくる。紫珠が十四年前、2010年に小学五年生で亡くなったのだとしたら、このブログの最後の記事、2009年にはたしかに四年生のはずだ。
【私が悪いのかな。こんな体に生んでしまって。ごめんね】
といった若干の病み台詞に対して、ブログの読者からは【お母さんは悪くないよ、お母さんのがんばりは、ちゃんと娘ちゃんにも伝わってる】というような同情的コメントも寄せられている。
【娘ちゃんは将来絵描きになりたいんだって。かなえてあげられるかな】
小学生の描いた絵の写真。犬の絵だ。デフォルメされたキャラクターではない、しっかりと四本の脚を地につけた動物の犬。絵描きになりたいというだけのことはある。しっかりと対象を観察して描いた絵だった。もしも彼女が描き続けていたら……。考えるだけむなしい。それでも胸によぎってしまう。
当然だが男がいるにおわせは一切なかった。あくまで娘一筋の、けなげな母親を演じている。彼女の裏側を知ってしまった鹿助としては、なんともいえない気持ちになる。
「ぶんたろーさんはこのブログのこと、知っているのかしら」
「なにも言ってはいなかったな」
名字とキーワードを入れて検索すればすぐに出てくるから、明文もすでにりえのブログの存在を知っていてもおかしくはない。知っていたとしたら、あえて隠していたのか、鹿助たちには話す必要もないと思ったのか。ただ彼は生真面目なタイプだし、信憑性のないネットの海に情報を求めようと思いあたらなかったのかもしれない。あるいは——。
テーブルの上に閉じて置かれたスケッチブックに目がいく。
「俺も見てほしいものがあるんだ」
「霊視? 青木医院長のお宅で?」
「いや古坂さんのアパートのほうだ。医院長のお宅では、霊視してない。奥さんの目の前で突然スケッチを始めたら不審だろう」
「その自覚もあったのね」
また少し微笑んで、凜華はスケッチブックを手に取った。ぱらぱらとめくり、やはり最初に目につくのは青木医院長がアパートに出入りしている絵のようだ。しかし鹿助は、
「実はさ、俺が気になるのはこっちの絵なんだ」
言いにくそうに、ページを戻していった。アパートで描けた霊視画は全部で五枚ある。なかには、関係のない絵もいくつか混じっている。だがそのうちの一枚に、赤いランドセルを背負った小学生の女の子がはっきりと写っていた。
「これは紫珠さんだね」
と凜華。鹿助はうなずき、
「ああ。それでこの、紫珠さんのとなりに写っているモノなんだけどさ……なんだと思う?」
下校中の紫珠が、アパートの外階段を上っていくところだった。振り返って、下に向かって手を振っている。
問題はその先の相手だ。階段の下に立っているのは、人の体の形こそしているのだが、頭の先からつま先までが黒一色に塗りつぶされており、影と呼ぶほかない見た目をしていたのだ。
*
夢を見ている僕はまた子どもに戻っている。
となりを紫珠が歩いている。ここは通学路のなかでも特に大きな道路だから、車に気をつけなきゃいけなくて、紫珠はいつも歩道の内側を歩いていた。
そんな彼女はいつもより口数が少なく顔色が冴えなかった。「しんどいの?」と僕はぶっきらぼうに聞いた。すると紫珠はふるふると首を振った。それからあのね、と思い詰めたように口を開いた。
「紫珠の病気は、治すのが難しいんだって。これ以上悪くならないように、うまくつきあっていかなきゃいけないんだって」
「ふーん」
「だからこれからもずっと注射とか検査とか、しなきゃだめなんだって」
うまく言葉を返せなかった。こういうとき、いつもそうだ。紫珠を慰めたり励ましたりすることは僕にはできない。だって同じ病気になったことがないから。紫珠がどれぐらいつらいのか、苦しいのか、想像もつかないから。だから。
「それってさ」
とただ初歩的な質問をすることしかできない。
「病気とうまくつきあってるあいだはいまより悪くなっていくことはないってこと?」
ちょっと考えるような間があって、
「うーん、それは紫珠がのがんばりしだい。って先生言ってた」
「そっか。じゃあ、だいじょうぶだな」
「え?」
「だってさ、病気でもいまよりひどくならなければ絵は描けるってことだろ? 絵描きになれないのとなれるのとでは、同じ病気でも、大違いだろ」
「そっか。いまも、絵は描けてる……」
当たり前のことを言っただけだった。でも紫珠にとっては、なにかそれがよかったみたいで。
「そうだね! ありがとう」
紫珠の顔面はほころんで、周りにぱっと花が咲いたようになる。なんか、思ってたより単純だな。
「感謝されることはなにもないと思うけど」
暑くもないのに体の温度が上がって、気まずくなって頭をかいた。
そんな話をしていたら、いつのまにか紫珠の住むアパートの前まできていた。
「あ、明文くんこっちじゃないのについてきてもらっちゃった。ごめんね」
「別に。こっちからでも帰れるし」
紫珠が二階への外階段を上がろうとするのを見ると、僕もいま来た方向へさっさと方向転換をした。紫珠の家に上がったことはない。呼ばれたこともない。お母さんとふたりで住んでいることだけは前から知っている。けど紫珠のお母さんは僕のことを良く思っていないし、顔を合わせないうちに帰りたかった。
ただ、ちょっと嫌な予感はしていたんだ。
「あら紫珠、帰ってたの? ならさっさと家のなかへ入りなさい」
背後で歌うような声がした。
「ママもうお仕事?」
「そうよ、夕飯はカップ麺食べてね」
「はぁい。いってらっしゃーい」
コツンコツンと耳障りなハイヒールの音を聞いて、振り返る。
短いスカートにベージュのコートを羽織り、持ち手がチェーンの何も入らなさそうなバッグを引っ提げて階段を下りてくる化粧の濃い女を目にして、僕は唐突にそいつに声をかけなければならない衝動に駆られた。
「おい」
小学生のガキに道をふさがれて、そいつは害虫でも発見したかのような顔をした。
「なにどいてよ」
毒々しい食虫植物みたいな真っ赤な唇をゆがめて彼女は言う。
「よく娘に顔向けできるよな」
僕の声は低かった。思っていたよりずっと。それに驚いたのか、彼女は口をつぐむ。
「なあ、古坂りえ」
ゆっくりと近づきながら、冷ややかな声で話しかける。
「僕を覚えてるか? あんたの娘の友達だった」
そう告げた僕は自分が、古坂りえを見下ろしていることに気づく。夢のなかで、僕は子どもに戻っていたはずだったのに。
ただ彼女のほうは十四年前の若々しく美しい容貌を保っていた。
「おまえの本当の名前は、なんだ?」
自分のものとは思えない声が喉から発せられ、憎々しげに相手を睨む。体の奥からどす黒い衝動が湧き上がってくる。彼女の細い喉に、手を伸ばす。古坂りえはおびえた顔をする。えもいわれぬ快感に、支配されそうになる。
——と同時に、目を覚ました。
額から一筋、汗が落ちる。
ぼんやりとした視界に、豆電球が一灯橙の光をともしていた。そういえば実家に帰っていたんだっけ。と、遅れてここがかつての自分の部屋であることを思い出す。枕元のスマホを見ると、まだ夜中の一時だった。すっかり目が冴えてしまったので、一度起き上がる。
喉が渇いているような気がする。
昨日帰ってきたばかりだというのに、もうゴミやガラクタが散乱している床の合間を縫うようにして、部屋を出た。
それにしてもなんて恐ろしい夢を見たのだろうか。
自分が自分でないかのような感覚があった。
冷蔵庫から水差しを出して、グラスに注ぎながら思い巡らす。
このことを鹿助に話すべきだろうか。たかが夢ではあるけれど。
ふと湧いた迷いへの答えは明日へ先送りにし、明文はまた自室に戻ると、無理矢理に眠りについた。
*
しかしこのわずか二日後、とある身元不明の女性が近所で自殺したというニュースが明文の耳に飛び込んで来る。しかもその遺体の発見場所は、大通りに面したあの古い木造二階建てアパートとのことだった。
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