8.あいつが来る

「よしっ約束の十一時ジャストだ」

 気合いを入れて車を降りる鹿助。明文もそっと助手席のドアを開けて後に続く。

「僕までついて来てよかったんでしょうか」

 見上げるその住宅は、青木病院の裏手に入口を持つ一軒家だった。オレンジの瓦屋根に白い外壁、水色に塗られた玄関ドア。クラシカルな輸入住宅風のたたずまいだ。

 青木病院の話をさらに詳しく聞くため、昨日の鹿助は昨日のうちに現管理人――つまり青木医院長の奥様に訪問アポを取っていた。凛華は動画の編集作業で手が離せないというので、明文だけが同行しているが、昨日鹿助が描いた霊視スケッチのことを思い出して憂鬱になる。

 結局あれからページをめくることができなかった。でもあの描写だけ見れば青木医院長と紫珠の母親とのあいだに、「医師」と「患者の保護者」以上の関係があったことはじゅうぶんわかる。

 青木医院長——および青木家には、外野の知る由のない闇深い一面があったのかもしれない。それをいまさら知ることは、気持ちが悪くもあったし、怖くもあった。


二階の窓はすべて締め切られていた。おそらくあのどこかに、引きこもっている青木夫妻のひとり息子の部屋があるのだろうと明文は一瞬思いをはせる。

 インターホンを押してしばらく待っていると、やがてかちゃり、と水色の玄関扉が開いて、管理人・青木夫人が顔を覗かせ、

「はい」とか細い声で応じた。

「どうも、お邪魔します。昨日にひきつづき、お忙しいところご対応ありがとうございます」

 鹿助はにこっとさわやかに笑いかけてみせる。

「……あんなとこに行きたいだの話が聞きたいだの、いまさら……」

 青木夫人の声は少しばかり棘を含んでいたが、弱々しかった。それから鹿助の出立ちを上から下まで眺めると、

「地元の、神主さんなんですっけね、あなた」

 なにを隠そう彼は今日も立派に神主装束姿なのである。さすがにサングラスはかけていなかったがこれで神主じゃなかったらとても怪しいコスプレマンだ。

「ええ、そうなんです。それで昨日も申し上げた通り、青木病院がある辺りの土地のことを調べてるんですよ」

「あの場所なにかあるんですか」

 夫人はさらに表情を硬くした。

「いえいえ、ご心配にはおよびません。風土調査のようなものっすから」

 と鹿助に諭されて、しぶしぶといった様子でうなずく。

「まあわたしからお話しできることなんてたいしてありませんけど。とりあえず、上がってください。ええと。そちらの方は?」

夫人が明文を一瞥する。

「こちらは、中川明文さん。地元の出身で、十四年ほど前ですけど、ご友人が青木病院に入院されていたとのことで」

 鹿助が紹介しても、青木夫人は興味がなさそうに「そう」とうなずいただけだった。

 明文と鹿助は、日当たりのいいリビングに通された。正面の壁には南国の海を描いた大きな風景画がかけられている。


「失礼ですが、あの病院、廃院になったのっていつですか?」

 白い本革張りのソファに腰掛けた鹿助は、質問をした。そういえばなぜか今日はスケッチ道具を持ってきていないことに明文は気づく。霊視はおこなわないということだろう。

「去年の春。四月の、ちょうど年度はじめでしたわ。それまでも長いこと経営は苦しかったのだけれど、二年前、駅前に大きめのクリニックができて、お医者さんの評判も、設備も良くってね。外来の患者さんはほとんどそっちへ流れてしまって」

 対面式キッチンで、夫人がみずからお茶を淹れながら答える。

「そのあとすぐのことでした。主人が……」

 目線の先に、仏壇がある。リビングになじむシンプルな壇で、観音開きが半分開いて、遺影が覗いている。明文の記憶にかすかに残る顔だった。ほんとうに亡くなったんだ。とはじめて実感めいたものが湧いた。

「あ、ああ……そうでしたか」

 鹿助はあくまでいま知ったというように、いかにも申し訳なさそうな演技をする。脳筋で馬鹿正直一辺倒かと思ったが、わりに知恵も働くらしい。

「すみません。思い出させることになってしまって」

「いいえ。もう過ぎたことですから」

 淡々と受け答えする青木夫人を見ていて明文は、ふと思い出した。話によると彼女は「仕事もろくに手伝わず、浪費癖がある」とのことではなかったか。しかしこうして実際会ってみると落ち着いていて、こけた頬に化粧っ気もなく、服装も地味な印象だ。かつては豪遊三昧していたが、息子の引きこもりや夫の死により、すっかり憔悴して様変わりしてしまった、ということだろうか。

「僕が小学生の頃は、青木病院はいつも待ち合いに人がたくさんいる印象でした」

 しばし沈黙がおりたので、明文はぽつりと言ってみた。

「十何年か前だったらそうね。まだそのころは、そうだったのかもしれないわね」

 懐かしむように言いながら、青木夫人がお茶のセットを運んできた。トレイを持つ手にアクセサリー類はなく、肌は荒れている。

「じゃあ病院の人気が落ちはじめたのは、古坂が亡くなってからか……」

 明文の独り言に、青木夫人の指先がぴくり、と反応した。ガチャンと音を立ててトレイが置かれる。びくっとなる明文のとなりで、鹿助が口を開いた。

「大変不躾な質問なんですが、奥さんは青木病院の十四年前当時の評判を、どのように記憶していらっしゃいますか?」

 それはなんだか曖昧な質問だった。だが明文は、夫人が纏う空気が緊張するのを感じた。夫人は向かいの一人用ソファに座ると、少し震える痩せ細った手でポットの紅茶を三人分淹れていく。

「評判……ですか。十四年前って言われましてもねぇ……特に、可もなく不可もなかった気がしますけど」

「そうですかぁ」

 うーんとちょっとおおげさなほど考え込む様子で背中を丸め、顎に手を当てる鹿助。それをちらりと見て、夫人は訝しげな顔をする。

「あの、なにか」

「いえ、ほんとうにこれは失礼な質問だと存じたうえで聞きますが」

 しつこいほど念入りに断ってから、鹿助はおもむろに息を吸いこんだ。

「病院といえば、よくありますでしょう、オバケの話的なもの。そういったたぐいの、なにか耳にしたことはありませんか?」

「え?」

 夫人は戸惑いを露わにした。いきなりそんなことを聞かれるとは思いもよらなかったのだろう。

「たとえばそうですねぇ、死神、とか」

 鹿助はけっこう踏み込んだ聞き方をする。けれどそうでもしなければ、青木夫人は自分がなにを聞かれているかわからなかったかもしれない。

「患者さんからでも、お医者さまからでも、そういう目撃談って聞いたりしませんでしたか」

「特には……」

 青木夫人は目を伏せた。

「ご主人も?」

「主人は自殺と。警察にそう言われました」

「そうですか」

 しかたなさそうに、鹿助はため息をつく。

「それなら私の勘違いだったようで、すみませんでした。昨日病院にいたアレとは、ご主人は無関係のようです」

 すると青木夫人の顔色が変わった。

「なにか……いたんですか」

 明らかにいままでと違う。恐怖に硬くなった声で、青木夫人は聞いてきた。

「え」

 明文は完全にあきらめていたので、はっとして声を漏らしてしまった。辛抱強く次の言葉を待っていると、青木夫人はついに唇を震わせた。

「亡くなる直前のことでした。ある日突然、主人が懺悔し始めたんです。「あいつが来る」と」

「あいつ?」

 明文が聞くと、夫人は小さくうなずいた。

「ええ。私も同じように疑問に思って聞きました。あいつって誰なの? と。そしたらあの人ね、とんでもないこと吐き出したんです。あの人がむかし、それこそ十何年か前の話ですけどね。患者さんの家族と、その、そういう仲に……」

 夫人が言いにくそうに言葉を濁した。古坂の母親のことだ、と明文はぴんときた。

「しかも患者さん本人が亡くなって、すぐにその女の人とも切れたそうなんです。だから恨まれてもしかたないわね。許してくれって何度も何度も、狂ってしまったかのように言って。その出来事が、すべての失敗の原因だって、あの人言ってました」

「すべての失敗の原因、とは?」

「わかりませんけど、病院が潰れたこととか、私ら家族の問題のこととか、ひっくるめて人生がうまくいってなかったんだと。私もそう思います。たしかにその頃、十何年前って言ったら……お恥ずかしいんですけど息子がね、学業のことで酷く落ち込んで」

 息子のことも、また夫人は言葉を濁した。しかしその視線が一瞬、天井のほうへと向いたのを明文は見逃さなかった。

「それなのにあの人はほかの女と。私の苦労も知らないで。で、今度は勝手にその女に恐れをなして自殺だなんて。強いて言えば死神はその女なんですよ。私ら家族にとっては……ですけど。なので病院のオバケやなんやらは知りませんけど、主人はその女に、取り殺されてしまったんじゃないかって。まあ馬鹿げた思い込みでしょうけどね」

 死神は、古坂の母親なのか? 明文はぼんやりと思い起した。古坂の母親はシングルマザーで、いま思えば生活に余裕のあるほうではなかった。しかし青木夫人の話では、古坂の母親が、いつのまにか死んでいて、自分を捨てた青木医院長を逆恨みし、取り憑いていたような言い方である。

 どこか腑に落ちない。

 青木夫人はおびえた様子のまま、鹿助に対して聞いた。

「ねえあなたたち、なにが目的でこんなことを詮索してらっしゃるの? お金が欲しいならこんな回りくどいやり方ではなく――」

「お代はいりません」きっぱりと、鹿助は夫人の言葉を遮った。「神職としての、いらないお節介といいますか。私はあの病院の闇のなかに閉じ込められている、不憫な魂を救いたいだけです。いろいろとお話いただきありがとうございました」

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