7.病室に映る忌まわしき秘密

「そういえばねえ、青木病院の医院長だった青木先生、先日亡くなったのよ」

 明文がその事実を耳にしたのは、つい半年前、正月に帰省したときのことだ。夕食の席で母親がおもむろに口にしたのだった。

「へえ、まだ若かったよね。病気?」

 紫珠が亡くなってからというもの、明文自身が青木先生にお世話になったことはなかったけれど、さすがにおどろいた。すると母は神妙な顔つきになって、こそこそとこう言ってきたのだ。

「それがね、あんまり表で言われてないけど、自殺じゃないかって」

「自殺?」

「だからほら、病院がつぶれちゃったから……」

 すでに明文も青木病院が廃院になったことは知っていたが、

「……それだけで?」

「それだけって、そんな単純じゃないのよ、あの一家。実は前からいろいろ揉めてたの。それでも病院のことがあるからって、なんやかんや目をつぶってたみたい」

 こちらが少し食いつくと、母は饒舌に、だんだん声も大きくなった。自分が人づてに聞いたことを、ほんとうはだれかに語って聞かせたくてうずうずしていたのだろう。

「青木先生と奥さんって、しばらく別居してたんですって」

「ふうん」

「奥さん、医者一族の仲間入りして玉の輿のつもりだったんでしょうけど、病院の仕事を手伝うでもなし、そのくせ金遣いは荒かったって噂もあって」

「ああ」

 明文の頭のなかには青木夫人の印象はおぼろげにしか残っていないが、さもありなんという話だとは思う。

「でね、青木先生そのあいだどこにいたか不明なのよ。一説では不倫相手の家で暮らしてたんじゃないかって」

「……相手だれなの? 近所の人なの?」

「うーんそこまでは、けどさすがに近所ってことはないんじゃないかしら? あ、それとねえ、息子さん。医学部に落ちてからずーっと引きこもり状態だったんですって。ご近所さんの話によれば、もう何年も姿は見かけてないんだけど、たまに怒鳴り声は聞こえてたって」

 別に自分がその怒鳴り声を聞いたわけではないのに、母は臨場感たっぷりに語った。青木先生のひとり息子が医学部を受験するという話を耳にしたのはもうだいぶ前のことだと思うのだが、つまり十何年かは引きこもりニートをやっているということか。明文が勤務する小学校にもひとつ上の学年に不登校の児童が一名おり、担任が家庭訪問などをおこなって支援を続けているが……それとは別次元だ。想像しただけで気が遠くなった。

「まあそういう家庭だったから、いろいろと限界に来てたんじゃないかしら」

 母はそう言って雑にまとめた。けれどそう言われてもどことなく明文は腑に落ちなかった。直接的な原因が——よっぽど取り返しのつかない過ちを犯したとか、多額の借金があったとか、そういう極限にまで追い詰められた理由があるんじゃないのか。まあ死を選ぶ基準なんて人それぞれなのかもしれないが。

 母にそれ以上深堀りする気も起らなかったので、以降食卓に青木病院に関する話題がのぼることはなかった。


「僕が聞いたのはだいたいこんなとこです」

 昼間寝かされていた社務所の座敷で、明文と土門兄妹は膝をつき合わせていた。中心にはスケッチブックが置かれている。鹿助が霊視に使用したものだ。明文はまだその中身を見ていない。

「青木先生の自殺と、病院のことってなんか関係あるんですか……その、死神がいるってことと」

 間近で推しを直視し続けるのはさすがに畏れ多く、その横顔をちらりと見遣りながら、明文は質問をなげかけた。

「まだわかりません」

 凜華は鹿助が淹れてくれた温かいお茶をひと口すすると、

「だけどおにいさまのスケッチに、いくつかヒントがあるように思います」

 閉じたままのスケブに目を落とした。明文はその視線にうながされるように手に取ると、ぱらっとめくってみた。そして、予想外のものを目にしておどろく。

「え、こんなに描いたんですか? いつのまに」

 せいぜい一・二ページだと思っていた。それもあの真っ暗闇だ。そんななかで描かれたものからなにか有益な情報が得られるかどうかも怪しいと思っていた。でもその思い込みは大きな間違いだった。鹿助はまるまる一冊分におよぶ霊視スケッチを遂行していた。明文がただただ恐れおののくことしかできなかったあのあいだ、鹿助の手は休むことなく描画を続けていたのだ。

「その方って、医院長先生ではありません?」

 凜華が尋ねる。スケッチブックには病室で起きた出来事が、何ページも、まるで絵本のように描き連ねられている。歴代の入院患者の生活の様子、看護師が検診に来て、脈を測ったり、点滴を吊るしたり、患者がいなくて看護師が病室の掃除をしている場面もある。なかでも、白衣を着た男性の像は頻繁に登場していた。顔まではっきりと映っていることはなかったが、眼鏡のフレームが耳に乗った横顔、少し猫背気味の姿勢、なにより全体的に醸し出す雰囲気から、それが医院長の青木先生であることは、確実だと思った。

「そうだと……思います」

 と、答えてから、急に思いついてハッとする。

「もしかして医院長先生も、廃病院の地縛霊になってる!?」

 思い入れのある場所にとどまってしまう死者の魂。心霊系のよくある話だ。さっきあの病室の暗闇で感じた霊は、青木先生だったのか。すべてがつながったような気がして明文は声を上げた。しかし、凜華は静かに首を振った。

「全部を見て回ったわけではありませんのではっきりとは言えませんが、少なくともあの病棟に、医院長先生のものと特定できる気配はありませんでした」

 やけに断定するが、まあ推しがそうおっしゃるならそうなんだろう。明文はしゅんと勢いを失って、

「じゃあこの絵はどういう……」

「場所の記憶ってやつだよ」

 口を挟んだのは、それまでおとなしく聞いていた鹿助だった。

「ぶんたろーさんの霊視をしたときもそうだったが俺は記憶を視る。それも目を使わずに、脳で直接視てるんだ。そこに描いてあるのは病室の記憶。つまりあの病室で起きた出来事の記録なんだよ。ぶんたろーさんには直接関係のないものもあるだろうけど」

「人だけじゃなくて、場所の記憶まで……そんな便利なことができるのか。まるで監視カメラのメモリ映像だな」

 原理はよくわからないが、特殊な能力であることは間違いがない。目を使わないから、真っ暗闇であろうとも絵が描けるということなのだろう。明文は今更ながら驚愕することしかできなかった。

「そうなのです。おにいさまはすごいのですよ」

 凛華が誇らしげに、陶酔を込めてうなずく。なんとも仲の良い兄妹ではないか。ちょっと嫉妬してしまう。

「俺の目は凜華のように、直接死者の姿を見ることができない。でも代わりに全身で知覚している。そして腕も動く」

「そのためおにいさまは身体を鍛えているのです」

 いや鍛えすぎだろ。鉛筆折れるぞ。

「でだ。重要なのはここからなんだ、ぶんたろーさん」

 マイナスイオンを発して微笑む凜華の横で、鹿助がおもむろに真剣な声を出した。

「古坂紫珠ちゃんの姿を記憶したスケッチが途中から何ページか続いてるんだが」

 適当にぺらぺらとめくると、たしかに古坂紫珠と、その母親が見舞いに来ているであろうワンシーンを切り取ったスケッチ画が目に入った。彼女が生前最期まで過ごした病室なのだから、そこに描かれていてもおかしくはないのだが、やはりドキリとしてしまう。

 明文は紫珠の母親がなんとなく苦手だったことを思い出す。直接言われたことはないけれど、明文のようなよその子どもの見舞いを邪魔で迷惑だと思っている感じがしていた。娘に近づくなと言わんばかりの冷たい視線。言葉の端々ににじみ出る嫌悪感。ぴりぴりした肌を刺す空気感を覚えている。ただ娘に対しては過保護で、献身的で、いつも紫珠のことを第一に考えているイメージがあった。

「ああ、ちょうどその次のページだな。落ち着いて、ちょっと見てくれ」

 鹿助が、紙をめくるよう目でうながす。明文は素直にそのとおりにした。それから次のページに描き記されたものに目を落とした瞬間、「え……?」と声を漏らしてしまった。


「それ、紫珠ちゃんの母親なんじゃねえか?」


 鹿助の、言う通りだった。

 だけど病室には患者の、紫珠の姿はなくて。

 ただ、ふたりの男女——紫珠の母親と青木医院長の、かぎりなく親密な様子が、もっとも秘めたる関係性が、そこには描き出されていた。

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