6.死神を退ける推しのアイドル
なにかがおかしい。
時間的にはまだ昼過ぎのはずだ。
完全な暗闇のなかを明文は、中央に置かれたベッドに脚をぶつけながらどうにか窓ガラスに近寄った。さっきまでたしかに青空が見えて明るかったはずだが、窓の向こう側の世界は、夜になったどころではなく、すべてが墨汁のなかに浸されたかのように真っ黒だった。
ありえない光景に、愕然とする。
「あの……鹿助さん、これって」
助けを求めるように鹿助に尋ねるが、呼びかけに対する答えはない。鹿助は一心不乱にスケッチブックに向かって手を動かしているようだった。
真っ暗で、なにも見えないはずなのに、色鉛筆の芯が紙に擦れて削れていく音だけが絶え間なく響いている。
とりあえず、外に出てみるか。明文は壁伝いに手探りで入り口を探した。左手を三角巾で吊っているせいで、片手のみしか使えないのがもどかしい。幸い扉の把手の窪みは見つかったが、いつのまにか扉はしっかりと閉ざされており、どういうわけか全体重をかけてぐっと引いてみても、はじめから壁だったかのようにびくともしなかった。
「鹿助さん……僕ら閉じ込められてるっぽいんですけど」
鹿助はまたも無視だった。どうやら霊視中は中断不可能らしい。そうならはじめに言えよ。舌打ちしたい気持ちになる。怪現象が収まるのを待つしかないのか。
こわばったため息を漏らした明文は、真後ろにたたずむなにかの気配に気づいた。
古坂……?
何度か口を開閉したが、声は出せなかった。
振り返る勇気もなかった。
急に部屋の温度が十度ぐらい下がったように感じて震えが止まらない。
背後の存在は彼女じゃない。違うはずだ。こんな禍々しい気配が彼女のもののはずがない。
そう思いたいけれど、ならば背後の存在はなんなのか。
ふと頭の奥、遥か遠くに、古坂紫珠の声が蘇る。
『死神さんと、仲良くなっちゃった』
いるのか、ほんとうに。
死神が――。
その存在のことを考えていると、自分のなかにすうっとなにかが入ってくる感覚があった。足元の床が抜け落ちるような、果てなき絶望が明文を襲った。
体が重く、息が苦しい。真っ暗闇の沼に、溺れてしまいそうだ。
もうなにもかもがどうでもよくなりかけた、そのときだった。
ぱっとまぶしさに目が眩んだ。
なんの前触れもなく、窓の外に光が戻ったのだ。
次いですぱーん! と気持ち良いほどの勢いで引き戸が一気に全開に破られる。
ちかちかする目を瞬きながら、明文はふらふらと扉のほうを振り返った。そして頭を殴られたような衝撃に目をひん剥いた。
なぜならそこに立っていたのは。
「凜華……ちゃん……!?」
痛みのない艶やかな黒髪がほっそりとした顎の周りを縁取る。前髪は短く切り揃えられ、しっかりと意志を持った弓なりの眉が露出する。目尻がわずかにさがり優しげな印象の目元。決して低くはないけれど、自己主張のない控えめな小鼻。小動物を思わせる愛らしい唇に笑みを浮かべ、灰色の世界に燦然と輝く御姿。
見間違いでなければ、いや見間違うわけがない。さっきまでの禍々しい気配の代わりに霊媒アイドル・凜華が目の前にいた。
「ご自身はともかく、依頼人の心身の安全を確保していただかないと困りますわ、おにいさま」
上品な甘さを残しながらも溌剌とした声が、病室内に朗々と響き渡る。
「あーすまん。いやあ、思ったより相手がデカかったわ」
いつのまにか、なにごともなかったかのように鹿助がはははと笑いながら頭をかいている。
「な、ななななななな」
明文はひとり、怪異が出現したときよりも狼狽えていた。言葉は出てこず、歯をガチガチと鳴らすことしかできない。
顕現した女神は、そんな明文に向かっておっとりと微笑みかける。
「話はあとで詳しく聞きますので。とりあえず、出ましょうか」
*
「正直助かったぜ。あそこ思ったよりやべえ場所だな~」
鹿助が車を運転しながらのんびりと話している。後部座席に明文、そしてそのとなりに凜華が平然と乗り込んでいる。もちろん明文は極度の緊張のなかにいるが、状況が飲み込めているわけではない。もしかしたら自分はさっき死んだのかもしれない。
「ほんとうよ。いったんおうちへ帰ったら、おにいさまの姿が見えないものだから、急いでタクシー呼んで追いかけたわ」
うふふ、と品の良い笑みを見せる天使。この笑顔を間近でみることができたのだから、もうこれが夢でも死後の世界でもなんでもいいかという気持ちになってくる。
「北海道ロケは明日までじゃなかったんか?」
「本来はね。でも三つ目の心霊スポットがダメなところで早々に打ち切りになっちゃったから、今日のうちに戻ってきたの」
「ダメなところだったのか」
「うん。アイヌの神さまの禁足地だったの。心霊スポットというよりは、秘境よね。そっとしておいてさしあげたほうが良いかと思って」
「そりゃーそのほうがいいな」
はっはーと豪快な笑い声が車内に響く。
明文を置いてけぼりにして会話が続いている。明文は夢の中にいるような気持ちでふわふわとそれを聞いていた。
「それにぶんたろーさまのことも気になっていたし」
矢庭に凜華の視線と声が脳みそを殴ってきて我に返る。どうやら自分は推しに認知されているらしい。DMを一通送っただけなのだが。これはまずいことになった。明日から同担に命を狙われる危険がある。
わけのわからない思考を頭に駆け巡らせていると、
「あらためて、はじめまして、土門凜華です」
凜華がこちらを向いて丁寧にお辞儀をしてきた。絹のような黒髪に、透き通った陶器肌。超絶可憐なビジュアルが至近距離で自分の網膜を焼いているのを感じながら明文は、乾き切った声で「存じ上げてます」というクソみたいな返しをする。
凜華は「ありがとう」と清楚に微笑んで、
「ちなみに鹿助は兄です」
と、そろえた掌で優雅に運転席の彼を指す。
「おお。まあそれで、たまに凜華のチャンネルのカメラマンとかやったりしてんだ」
鹿助はなんということでもないふうに説明してきたが、ただごとじゃないし告知が遅すぎると思う。でもまあ、【ぶんたろー】の名前を知っている理由にはやっと納得した。あと恋人じゃなくて心底ほっとした。
「あんたからのDMを受け取った凜華が、一読するや否や、これは至急なんとかしないといけねぇ案件だって連絡してきたわけよ」
「直接お返事できたらよかったんだけれど、そのときわたし、ちょうど北海道ロケの真っ最中でね」
「だから俺が代わりにいろいろ動いてたのさ」
「先に行ってください……心臓に悪い……」
弱々しい声で明文はつぶやくも、鹿助は「わりぃわりぃ」と一ミリも反省の色を見せずに笑い飛ばすだけだった。
「衝撃すぎて、もうこのまま成仏してしまいそうです」
後部座席のシートに深くもたれかかる明文を見て、凜華がふふふと雲のように軽やかな笑みをこぼす。しかし次いで口にしたのは、その愛らしい唇と声音に、到底似合わない不穏な発言だった。
「邪悪な死神も、そう言って消滅してくれたら良いのに」
「え……?」
明文の心臓がどくんと脈打つ。「死神って」
凜華は「霊媒アイドル」というその肩書の通り、「霊媒」の能力を持つ女性だ。霊的な存在の姿を見て、コンタクトをとることができる。必要とあらば、祓うこともできるらしい。一般に「霊感」と呼ばれる力の最たる部類だ。その最強霊能力をもってすれば、あの病院に巣食うモノがなんであるのか、あの短時間で特定が可能だったということか。
明文が尊敬と畏れと興奮が入り混じった眼差しを凜華に向けると、凜華は少し困ったように微笑んで、うなずいた。
「そう。死神です。あの病院にうじゃうじゃいるのは」
うじゃうじゃ!?
ひとりじゃないのか!?
思わぬ混乱に襲われながら明文は、「そ、そうなんですね……」と硬い表情で返した。
じゃあ紫珠が「仲良くなった」と言っていたのは、そのうちのひとりなのか、それとも……。
「どうしてあんなになっちゃったのかな」
明文の狼狽えをよそに、凜華は独り言ちるようにしょんぼりと声を落とした。
正直明文としては、死神についてはそこまで踏み込もうとも踏み込みたいとも思わなかった。紫珠の魂さえ救えれば良いではないか。触らぬ神に祟りなしだ。しかし。
「あの病院が抱える業そのものを取り除かなければ、紫珠さんも、そしてあなたも、いずれ死神に飲み込まれてしまいますよ、ぶんたろーさん」
やけにきっぱりと、凜華はそう言い切った。なにか含みのある言い方にも聞こえ、明文は身を固くした。
「僕も……ですか」
「ええそう。あなたはいま紫珠さんの霊と唯一、つながりを持っているから。もう浸食され始めているかも」
凜華の琥珀色をした大きな瞳がこちらをじっと見つめてきらめいた。それはあまりに美しく、そして心の内まで見透かされているような気がして、たじろぐ。
「じゃあ、どうすれば」
明文の問いに対し、凜華は一瞬、可憐なその唇に、不敵ともいうべき笑みを浮かべる。それからほっと息をつくと、問いかけてきた。
「そうですね、まずは青木病院で起きた一年前の事件——医院長先生が自ら命を絶った件について紐解いてみたいのですが、ぶんたろーさんは、当時の状況なにかご存じですか?」
はっと息をのむ。おそらく遠征中に調べたのだろう。積極的に話すことではないが、いつまでも隠しておくほどのことでもない。
鹿助はなにも口を出してこなかったが、聞いているのだろう。慎重に言葉を選ぶが明文は、結局こう切り出すほかなかった。
「——ええ、知ってます。青木医院長は自殺しました。一年前のことです」
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