5.青木病院の成れの果て

「えっ」

 耳を疑った。

 いま彼は、たしかに口にした。【ぶんたろー】と。

 それは明文が使用しているSNSアプリのアカウントネームだ。推しの活動を観測するためにつくったアカウントで、普段は自発的な発信をすることなく、推し関連の情報に対し、いいねと拡散のみで反応している。リアルの知人には知られていない。だから明文=【ぶんたろー】であることを知っている者など、この世に自分を除いてひとりもいないはずなのに……。

「んじゃ、俺はちょっくら仕事してくるわ!」

 明文の混乱をよそに、鹿助はマイペースに立ち上がる――高いはずの天井がそう見えないほど背が高い。

「とりあえずぶんたろーさんはちょっと横になって、ゆっくり休んどけや。飯の時間になったら呼んでやっから」

「えっ、あ、いや、失礼ですが僕もそろそろ仕事に戻りたいのですが……」

 あわてて気を取り直し、明文も続いて腰を浮かせた。しかし。

「ああ、それならさっき前もって校長に事情を話して有給申請しといたから心配すんな。その間の生活はこっちで保障するし!」

 と鹿助はいい笑顔をこちらに向けてサムズアップすると、もう片方の手で襖をしゃっと引き開け、「は? ちょっと待ってくだs」という明文の訴えを無視してぴしゃりと閉じてしまった。

 あとにはただ静けさだけが取り残される。

「あの人いったい何者なんだ……」

 勝手に有給申請しといただと? そんなのありなのか? とはいえ熱っぽく、まだ足元にふらつきがあるのは事実だったので、内心少しほっとしている自分もいた。

 乱した布団をいったん整頓し、その上に正座すると、スケッチブックを改めて膝に乗せた。見たくないようから見たいような、しかし強烈に惹きつけられる気持ちがはたらいて、またそのページを開いてしまう。

 少女の面影は、指でなぞるとさらりとした質感をしている。明文はいくらか落ち着いて、鹿助の話を整理してみた。


 やはり自分は、紫珠の霊に取り憑かれている。しかしこの霊視スケッチから読み取るに、明文の前に現れる紫珠の霊は怨霊めいた存在ではないという。彼女の思いの残滓のようなものだそうだ。明文の身の回りで起きる怪奇現象は、そんな思いの欠片と明文の記憶とが結びつくことで起きているらしい。

 ただ気になるのは、その魂の本体がいまだに現世をさまよっているかもしれないということだ。鹿助の見立てによれば、かつて彼女がその短い生涯を終えることとなった場所——青木病院にとらわれ続けている可能性があるという。

 未練を残してこの世を去った死者が、成仏できずに特定の場所に縛られさまよい続けているって―—つまり地縛霊か。

 凜華のチャンネルで得た知識を反芻する。

 古坂紫珠はどうして成仏できないのだろうか。

 たしかに紫珠はポジティブな性格で、将来の夢や、未来への希望を、臆面なく語る子どもだった。でもこころざしなかばにして死神に命を刈り取られてしまったとなれば、生前の夢や希望は未練として残り、結果として魂が現世に滞留し続ける理由になっているのかもしれない。


 だとしてもなぜ。よりにもよって、いま現れるんだ? のか?


 ――僕はあと、なにをすればいい?


 どれぐらい思案していただろうか。正座で足が痺れてきたため、スケッチブックをいったん脇に避けると、膝を立て、後ろに手をついた。

 二十畳ほどのだだっ広い和室に、布団が一枚。マス目状の高い天井に白檀と檜の香りが、この建物が社寺建築であることを物語るが、装飾はひかえめで質素なつくりだ。人の出入りする気配もない。おそらくここは神社の裏方、社務所というところだろう。

 いつまでここにいればいいんだ。

 やけにゆったりとした静寂のせいで、自分が世界から隔絶されたような錯覚に陥り、焦りが募っていく。

 しばらく時計も見ていないけれど、何時間も経った気がする。たまらなくなって布団を抜け出した明文は、ふらふらと襖戸に近づいた。

 お手洗いの場所ぐらいは把握しておいても罪はないだろう。

 そう自分に言い訳をして、そっと引き開け、首だけ外に突き出して左右を見回してみる。

 この部屋に沿って縁側が伸びており、L字型に曲がっていた。曲がった先にももうひとつ部屋があるようだ。

 縁側に面して砂利敷の小さな中庭と、その向こうには竹藪が広がっていた。

 仕事というからには、鹿助は神社の拝殿に行ったのではないかと思われるが、それがどちらにあるのか、そもそもこの建物が境内のどういう位置にあるのかさえわからないため、あまり遠くへはいけない。

 とりあえず通路をつきあたりまで進んでみることにする。それでなにもなさそうならすぐ戻って来ればいい。


 なにげない足取りでとなりの部屋に近づいてすぐ。たった二、三歩でのことだった。かすかに鈴の音が鼓膜を揺らし、明文はぴたりと身動きを止めた。

 なにかの蠢く気配がする。

 人だろうか?

 呼吸をも止める。しかし物音はない。

 となり部屋の襖戸と床面のわずかな隙間から、黒い冷気のようなものが、一筋漏れ出ている。     

 明文は本能的に怖気付いていた。この感覚——思い間違いでなければ、つい今朝方の教室に満ちていた禍々しい気配と似ていた。

 あまりの無音すぎる空間。自分の心音に、飲み込まれそうになっていく。そのとき。

「おお、ここにいたのか、ぶんたろーさん」

 背後から爆音で声をかけられて、飛び上がる。いやおそらく実際はそれほどの声量ではなかったのだが。

「鹿助さん……勝手に、すみません、あの」

 心臓がまだバクバクと鳴り続けていた。勝手に出歩いたことを謝らなければ、と頭ではわかっているのだが、となりの部屋から感じた気配のことを説明したい気持ちが先走り、うまく言葉にならない。

 だが鹿助は、そのどちらよりも早く、

「ま、そんだけ元気に動きまわれるなら、問題なさそうだな。早い方がよかろうと思って準備を整えてきた。飯食ったら早速出発しよう」

 と、明文の背中をバシンバシンと叩きながら、表にうながした。その強引さに圧倒された明文は、となりの部屋のことはいったん意識の脇に避けてしまった。

「それとこれ、ぶんたろーさんの荷物だ。学校から引き取って預かってたぜ」

 片腕にぶら下げているのは、明文の通勤用鞄だった。それを見ると一気に現実が戻ってきたように感じた。

「すみません、お世話かけて。近くの駅とかで大丈夫です。ひとりで帰れますので」

 鞄を受け取りながら、明文は自宅へ帰されるものと確信して言った。しかし鹿助は、きょとんとした顔をしたあと、さわやかに言った。

「ん? ああ、すまん。説明した気になってたわ。行き先は青木病院だよ」


 鹿助によると現地で霊視したほうがいまよりずっと緻密な絵が描けるとのことだ。紫珠が病院に縛られている原因理由も、わかるかもしれない、と。

「理由がわかればこっちとしては、古坂さんが成仏する方法を探せる。場合によっちゃ、専門家に投げるけどな。俺は祓いとかできねえから」

 ということらしい。

 鹿助はなんというかマイペースで、思い返せば今日はずっと彼の行動に振り回されている気がしなくもないが、拒否する理由もないので明文はおとなしく同行することにした。もともと紫珠の霊のことはずっとどうにかしてきたいと思っていたのだ。DMで助けを求めた相手ではなかったけれど、協力してくれる人が見つかったのは僥倖だった。

 旧・青木病院は、明文や紫珠が生まれ育った町にある。神社から車で向かうのにどれほどの時間を要するものかと心配したが、鹿助の運転で三十分ほどで到着した。

「近かったんですね」

 明文がつぶやくと鹿助は、

「まあそれで担当になったからな」

 とよくわからない返しをしてきた。

 雑草だらけの空き地となっている駐車場に車を止め、おもむろに運転席から降りる。鹿助は、神主のかっこうのままだった。さらになぜかサングラスまでかけているため、まるでターミネーターが神主衣装を着ているかのようだ。ただ装備しているのはアサルトライフルやショットガンではなくスケブと三十六色色鉛筆なのだが。

「鹿助さんって、いつもその服装なんですか?」

「おおっ、いつもこの服装だ!」

 威勢よく答えて鹿助は、病院の内部に侵入していく。こういった場所には入り慣れているのか鹿助は、まったくためらいを見せなかった。試合会場入りする柔道選手かのように堂々としている。

 明文はその後ろにピタリと張りつきながら、少なからず慄いていた。一階の受付ホールの間取りは子どものころの記憶と相違ないのに同じ場所とは思えない。外の陽が入る受付はそこまで真っ暗ではないのだが、建物全体の空気が澱んでいて、なにか闇を包み込んで醸造しているように感じるのだ。

 霊媒アイドル凜華の心霊スポットロケ動画で、廃墟の心霊スポットを何度も画面越しに目にしてきたが、まさか自分が廃病院に足を踏み入れる日がくるとは。

「こういうとこって、鍵って開いているものなんですか?」

 なにかしゃべって気を紛らわせたくて、明文はちょっとした疑問を口にした。

「いやぁ実はさっきここの管理者に連絡を取ってな、鍵を貸してもらっていま開けた」

 管理者、というワードにはっとなる。明文は気持ちを落ち着けて、なんてことないふうに聞いた。

「そんな簡単に許可もらえるんですか。管理者って……」

「女性だったぞ」

「じゃあ医院長の奥さんかな」

「ぶんたろーさん、知ってんのか」

「それほどは。二、三回、見かけたことがあるぐらいで」

 鹿助はそれ以上聞いてこなかったが、その脇で明文は、青木病院の医院長とその家族のことを思い出していた。

 青木医院長は四十代、すらりとした高身長にフチなし眼鏡をかけて物腰柔らかで、お年寄りや女性と気さくに話している姿をよく見かけた。院内では人気があったんじゃないかと思う。

 医院長には奥さんと高校生の息子がひとりいた。奥さんは病院経営者として一応なにかしらの役職に就いていたらしいがほぼ印象になく、高校生の息子についても「医学部を受験するらしい」という話を耳にした記憶はあるが、当時小学五年生の明文は一度も会ったことはない。

「荒れ果ててますね」

 壁は剥がれ床は砂埃まみれで、ベンチシートは朽ち果てている。床には布や缶瓶ペットボトルなどのゴミが散乱していた。受付の窓の上にかかった時計は文字盤が割れて針はどこかへ落ちてしまったらしく何時を指して停止したのかもわからない。

「こういう施設は使われなくなったら一気に廃れるからな。とはいえやたら劣化が激しいな。廃業してから一年足らずとはとても思えねぇ。ぶんたろーさん、気をつけなよ」

 障害物や建物の損壊により足元が不安定なことへの注意喚起だろうが、気をつけろと言われて明文は、そこに心霊的な意味も含まれているのか気になってしまった。

「あのー、鹿助さんはここ、なにかいるとかって感じるんですか」

 小声でおそるおそる話しかけてみる。すると暗がりの中、鹿助が頭を搔くのがわかった。

「いやびみょー。俺そんなには霊感強くないからさ、たくさん気配はするけど、絵を描かないと、なにがどうとかみえたりはしねぇんだよな」

 のんびりとした口調で言うけれど、霊視などという能力を持ちながら霊感が強くないとはどいういうことかわからない。彼にはどうにも説明不足のきらいがある。さらに突っ込むべきか迷って結局明文は、「そうなんですか」とだけ返した。

「無駄にみえすぎないほうがいいってこともあるしな。ところで、古坂さんが入院してた病棟ってどこだ?」

「内科は三階です。こっち」

 病院の間取りは覚えている。エレベーターは当然動かないので、明文はその脇の階段へと鹿助を案内した。

 階段を登ると正面がスタッフステーションで、その周りを廊下がロの字にぐるりと取り囲み、入院患者用の病室および浴室やトイレなどの共用設備がならぶ。陽の光が差し込まない廊下はひどく暗い。

「さすがに病室まではわかんねぇよな」

「あ、いえ。古坂は……」

 明文が知る限りでだが、紫珠は入院のたび、毎回同じ病室に入っていた。ステーションを左に曲がって、次の角を右。いちばん突き当たりの個室だ。そう告げると、鹿助はさすがに少し慎重に、懐中電灯の明かりを灯して前に立って進んだ。明文は後ろからついていく。急に神主装束にスケッチブックが滑稽に見えてきた。そんなでたらめな格好は動画撮影目的でもやらない。

「てかサングラス取らないんですか、暗くないんですか」

「おう、むしろ見やすい」

 立てつけの悪くなった引き戸をガタガタと開けると、床に積もった埃が舞い上がる。病室には窓があるため陽の光が入り、廊下よりは明るい。にもかかわらず、いっそう重苦しい空気が充満しているように感じられた。

 中央にパイプベッドのフレームがひとつだけ置かれている。布団類は撤去されていた。

 もちろん紫珠が亡くなったあとも、病院が廃業するまで何人もの患者がこの部屋で生活してきたはずである。しかし明文はどうしても、つい昨日まで彼女がこのベッドを使っていたような気配をぬぐえなかった。きっとさっき夢を見たからだ。足元に目をやると、錆ついたパイプ椅子が無造作に倒れている。ランドセルを抱えた自分が、十四年前に座っていたものだ。着座時にパイプがきしむ感覚まで鮮明に思い出せる。

「ぶんたろーさんはこれを持って、なにも言わず見ていてくれればいい」

 鹿助は明文に神社でよく販売されているような御守袋を押しつけると、ためらいなく埃だらけの地面に腰を据え、おもむろにスケッチブックの新しいページを広げた。

 そして床に置いた三十六色色鉛筆のケースから、一本を迷いなく選び手に取ると、白紙のページの中ほどに向かってそっと一筆目の線を引いた。

 思いのほか静かに、そして地味に、鹿助の霊視が始まっている。気づいた明文は、にわかに緊張感を高めた。御守袋をかたく握りしめ、言われたとおりに、鹿助の後ろに立って手元を注視する。薄暗くよく見えないが、どうやらこの部屋の様子を描き写しているようだ。

 鹿助は一度も顔を上げることなく、あっという間にページは埋まっていた。

 描き出されていたのは、だれもいない病室だった。しかしベッドには清潔な布団が敷かれ、窓には淡いミントグリーンのカーテンがかけられている。これは過去の景色だ。意識が強く画面に吸い寄せられると同時に、明文はどこか遠くで少女の笑い声を聞いた。静止画のスケッチはずなのに、カーテンが風にそよいでいるような錯覚に陥る。

 ああ、この画面の向こうに、あの日の僕らが―—いる。

 切なさと懐かしさに浸るも束の間。鹿助がケースから別の色鉛筆を手に取った、その瞬間だった。

 ぷつんと電源が落ちるように、突然部屋が暗闇に包まれた。

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