3.笑う子どもたち
「……来てない、か……」
朝、職員会議を終えた職員室で、スマホを片手に何度目かのアプリの通知をチェックして、明文は何度目かのため息をついた。
相談に対する回答。動画内で使用して良いかどうかの許諾申請。万が一そういった返事が来ていないかと期待して、そのたび打ち砕かれている。
いや、なにを落胆することがあろうか。この展開は予想の範疇だったはず。相手は人気アイドルで、有名インフルエンサー。毎日読みきれないほどたくさんのおたよりをもらっているのだ。そんななか、一介の新参ファンでしかない自分がはじめてしたためた一通に、反応が返ってくるほうがおかしいではないか……。
昨日送った長文だけがぽつねんとたたずむDM画面を眺めながら、そんなふうに自分に言い聞かせていると、
「なに見てるんですか中川先生。彼女さんからのLINEですか?」
となりのデスクから、五年一組の担任である山城先生が冗談めかして覗き込んできた。あわてて画面を閉じる。
「あ、いいえ、実は先週別れまして」
向こうから話を振られたらごまかす必要もない。みるみる山城先生は青ざめていた。どちらかというと陰の者であり社交性に乏しい明文に、交際相手がいたことすら寝耳に水なはずから、二重に衝撃を受けたのだろう。
「えっ、うそやだ、すみませんあたしほんとになにも知らなくて」
周りの先生方が何人かちらちらとこっちを見た。快活で頼れる学年主任の山城先生は決して悪い人ではないのだが、必要以上に声のボリュームを上げすぎることがある。明文は目を合わせずに苦笑した。
「いいんですよ、お気遣いなく」
「なんかたいへんですね、中川先生。お怪我もされて」
山城先生は、明文の三角巾で吊るした左腕に目をやりながら心中お察しな顔をみせた。まさか明文が幽霊に脅かされているとは思うまい。だがそんなトンデモ事情を急に打ち明けるわけにもいかないので、
「厄年だからですかね」
と愛想笑いで濁しておく。
「厄年だから」というのはたいていの不運をなんとなくそれのせいにできるという点では便利な言葉かもしれない。
「みんなおはよう」
まだ廊下に数人の男子集団がたむろしていたので近づきながら声をかけた。明文の姿を見つけると、餌を見つけた鳩のようにわあっと駆け寄ってくる。
「おはようございます中川先生、ケガ大丈夫!?」
最初に声をかけてきたのは、網谷という例の足跡事件の第一目撃者の児童だった。ほかの児童たちも口々に声を上げる。
「骨折って痛い? どんぐらい痛いの?」
「ギプスかっけー。バズーカみてぇ」
斜め上を行くコメントは笑いを誘う。
「大丈夫だよ。もういまは特に動かさなければ痛くないんだ。かっけーだろ。心配かけてごめんな。ほらそろそろ教室入って」
彼らをうながしつつ、開いたままの扉から教室に足を踏み入れた。とたんに子どもたちの歓声に包まれ、「中川先生、おはようございます!」や「ケガ大丈夫?」など生き生きとした声が飛び交った。
一昨日の昼休みに階段から落ちて負傷。午後に病院に行き、昨日一日休みをもらっただけだった。だから正直そこまで大きな反応をされると思っていなかったので、少し面食らったほどだ。
あいさつを返しつつ全員席につかせると、明文はいつもと変わらず教壇に立った。
日直の号令。起立。礼、おはようございます、着席のルーティンを終え、あらためて五年二組の三十人の顔ぶれを見渡す。顔が引き攣るのを感じたが、口角をあげ、みんなに呼びかけるように口を開く。
「はい、みなさんおはようございます。昨日は休んじゃってごめんなさい。でももう大丈夫です。今日からは普通に……いや、体育だけはちょっと別の先生に助けてもらうんですけど、授業をやっていきますので」
「わたしたちにもお手伝いできることがあれば言ってください」
さっと手を挙げる委員長の池田莉子。立ち振舞いに大人びた落ち着きがあり、育ちの良さを感じさせる。
担任クラスの子たちは、手がかる子もいるけれど、やはりみんなかわいい。子どもたちが担任の自分に対して一心に思いやりをむけてくれているのを感じて、じんわりと心が温まっていく。
怪奇現象のことは別になにも解決したわけではないし、まだ多少の不安はある。けれど気にしすぎてはいけない。
「気にしすぎることがものごとを良くない方向へ引っ張っている場合がある」って、よく凛華ちゃんが配信で視聴者に言っているし。
とにかくできるだけ日常に戻らなければ。
「出席取ります、網谷涼さん」
「はい」
「池田莉子さん――」
――見慣れた、平穏な朝の光景が広がっている。
すべては順調。少し張っていた気持ちも、だんだんと落ち着いてくる。
大丈夫、おかしなことは、きっと起こらない。
少なくとも、教室にいるときに現象が発生したことは、ないのだから。
「原口萌音さん」
前から二列目に目を向け、ひとつ空席になっていることに気づいたときだった。
突然、こめかみにずきりと痛みが走った。
一瞬だけ顔をしかめる。
だけどそのわずかな間を、子どもたちは見逃さない。
「先生どうしたの?」
みんなの視線が明文に集中していた。あわてて微笑むと平静を装い、
「あ、ああ、ごめんね、なんでもありません。今日は原口さんは休み……でしたね」
そう言いながらふたたび、出席簿に目を落とす。すると、
「原口さんって?」
と、委員長、池田さんの声があがった。続いて、
「それ、だあれ?」
男子のひとりが問いかけてくる。いつもの無邪気な声だった。明文はえっ? と声に出していた。
「いや、だれって、ほらそこ、森くんの前、原口
軽く指さした。そのとき。
「そこは古坂紫珠ちゃんの席だよ」
どこかいたずらめいた笑みを含んだ声——だれのものかはわからない——が聞こえて、明文は凍りつく。
――は?
耳を疑う。
水を打ったような沈黙が数秒。
いや、そんなわけ、あるはずがない。
その名前が、ここで出されるはずが――。
ボールペンを持つ指先を震わせながら、恐る恐る顔を上げた。
するとなにがおかしいのか、子どもたちがケタケタと身体を揺すって笑い出した。例外なく、教室にいる全員が、である。
さらに気味の悪いことに、彼らはみな、口元を三日月みたいに歪めているのにもかかわらず、目は笑っていなかった。
戦慄する明文の耳に、子どもたちのはしゃいだような声が次々となだれ込んできた。
「先生、忘れちゃったの?」
「紫珠ちゃんだよ」
「その席の子」
「五年生のとき死んじゃった」
「古坂紫珠ちゃんだよ」
あははは、はははは
あはは、あはは、あはは、ははははははは
どうしたんだ、この子たち。なにが起きているんだ。
爆笑に包まれ、なかばパニックになりながら明文は必死で状況を説明づけようとする。
子どもたちが大掛かりなドッキリを仕組んだのではないか。
そんなバカげたことまで考えついて。
「お、おい、なにを言ってるんだ、お前ら!」
思わず語気を強めてしまう。冷静さに欠けていることは自覚しつつも、喚いていなければ恐怖心に負けてしまいそうだった。
しかし、こちらの声がまったく届いていないのだろうか。
あははははははは
ははははははは
あはは、ははは、あははははは
騒音の波は止まなかった。うろたえるしかない明文をあざ笑うかのように、さらに広がっていく。
収集がつかない。ひどく動悸がしてくる。鼓動が胸を殴るように打つ。
子どもたちの表情もさきほどから変わらなかった。耳まで裂けてしまいそうなほどに、唇が歪んで口角が上がっている。
耐えかねて目を瞑り、せめて片手だけでもと右耳を塞いだ。
しかし無邪気な笑い声は、幾重にも重なり脳内で反響する。
——やがてそのなかにはっきりと、明文は知っている声を聞いた。
「
はっと目を見開くと、視界の隅にそれが映った。
空いている原口さんの席に、いる。
肩口で切りそろえられた黒髪。ピンクのカーディガン。前髪がかかって、目元の表情は見えない。
それがいる周りだけ、異次元で霞がかかったように見えにくい。
心臓の鼓動がさらに加速し、呼吸がうまくできなくなっていく。
「やめろ……! ……やめてくれ」
身を守るように首を縮め、右手でその頭を抱えた明文は、その場に崩れ落ち膝をついていた。
真っ暗になっていく。
不意に教室の扉が大きく開く音がして、ふわりと抱え上げられるように、身体が宙に浮く。
だがなにが起こったのか把握する間も無く、頭がぐわんと回ったあと、明文は数秒で意識を失った。
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