第049回「曹洪の意地」
敗軍をまとめあげた曹洪は戦場から離れた平地に堅固な陣を築くと、なんとか搔き集めた二万余の兵でようやくひと息入れていた。
「それにしても、してやられたわ。張飛を陽動とみせかけて、我らを呉蘭に向かわせ、わざと負けたのちに伏兵を潜ませておくとは。よもや、あの劉備にこのような奇計を行う才があったとは。さすがに曹公を討ち取ったのはまぐれではなかったのか」
曹洪は、天幕の中でなんとか逃げ延びた属将たちに愚痴りながら、なにごとかをブツブツつぶやいていた。
「曹将軍。どうやら、こたびの計略は劉備の胸の内から出たというよりも、その謀臣である諸葛亮が行ったと見て間違いないかと思われます」
楊阜が言うと曹洪は杯を静かに置き、向き直った。
「諸葛亮? そう言えば、以前にもその名を聞いたな。劉玄徳の旗下で名将と言えば関羽くらいしか儂は知らぬが。子丹は知っておったか?」
曹洪が、楊阜の隣に立っていた曹真に訊ねた。子丹は曹真のあざなである。曹真は、わずかに考え込む様子を見せたが、やがて首を振った。
「ふうむ。知らぬか。義山はなにかそやつにおいて知っているのか?」
義山は楊阜のあざなである。楊阜は馬超の執拗な追撃を振り切ると、なんとか曹洪の軍に加わっていた。
「私もさほど詳しいわけではありませぬが、ただ、南陽の諸葛亮孔明という男は、かの襄陽の名士である龐徳公が臥龍というふたつ名を付けたほどに優れた男であると聞いております。歳のころは、三十かそこらだそうですが、とにかく政治にも軍略にも長けた策謀家で、あなどれないことは確かのようですな」
「諸葛亮、か。子丹がそこまでいうのであれば容易ならざる相手であろうな。とはいえ、このまま南鄭に援軍を求めるのもはばかられる、か。我らはやられっぱなしではないか。なんとか、ひとつでも勝利を得て、劉備に意趣返ししたところだが。文烈よ。そういえば、我らに服従していた氐族はどうなった? 五、六千はおっただろう。この際やつらの兵でも借りたいところだが」
「はっ、しかしやつらは先の戦いで張飛に降ったよしにございます」
曹洪は曹休の報告を聞くとあからさまに機嫌を悪くして、右手で頬をバリバリと音を立てて掻いた。
「なんという腰抜けよ。やはり、蛮族などあてにはならぬか」
曹洪たちの沈黙を打ち払うかのように、斥候に出していた兵が本営に駆け込んできた。
陣営よりそれほど離れていない場所に、蜀軍の小部隊がたむろしている目撃情報が届けられたのだ。
兵数は約三千。旗印から間違いなく蜀将の任夔に間違いなかった。曹洪はピクと片眉を上げると、素早く立ち上がった。
「敵は少数である。大部隊で近づけば、すぐに撤退するであろう。そこでだ。我らは駆け引きを用いて、雑魚ではあるが任夔を撃破しておきたい」
曹洪は、居並ぶ諸将に作戦のなにごとかを告げると、自身も甲を着直して陣を出た。
同時刻――。
任夔は張飛より逃げ去った曹洪の偵探を命じられて、わずかな騎兵と歩兵を率い、郡の奥地にまで駒を進めていた。さきほど、蜀軍に降った氐族の道案内がいるが、なにしろ漢語をあまり理解しないので、意志疎通が難しい。
張飛には、曹洪の大部隊を見つけたら、すぐさま撤兵して指示を仰げと言われていた。しかし、任夔は先日の大勝に気をよくして
――魏軍なにするものぞ。我ら蜀漢軍は無敵だ。
と、強く思い込んでいた。任夔は劉備に見いだされて、今回の漢中征伐の人員に選ばれただけあって、勇気もあり智慧も抜群であった。
だが、初戦の勝利は任夔が本来持つ警戒心と判断力を歪めてしまったのだろう。突如として、前方に現れた曹真の兵力の少なさを見て、疑兵であることよりも敵を侮ることのほうが強かった。
偵察の報告を聞くと、目前にいる曹真の兵力は自軍の半数に満たない千余騎であるという。
「ふん、蜀漢に任夔ありということをみなに教えてやる機会よ。者ども、かかれ」
勢いに乗る任夔軍は曹真に向かって一直線に進んでいった。任夔は歩兵の弓隊に矢を射かけさせ、敵が怯んだところで騎兵を出した。
曹真は任夔が思った以上に抵抗を見せたが、ほどなくして後陣が崩れたのか、徐々に後退してゆく。
――おや、思ったよりもやりおるな。だが、儂の敵ではない。
「怯むな。敵は我らの半分以下だ。ここで曹真をひっ捕らえて劉公の前に突き出してやろうぞ!」
曹真は巧みな指揮能力で自軍の兵を絶妙な均衡を保ちつつ、下げるという離れ業をやってのけた。
そして任夔は熱に浮かされるように曹真を追い続ける途中で、いつの間にか後退しにくいゆるやかな坂をかなり下っていることに気づき、愕然とした。
――もはや、罠であるか。
退却の鐘を打ち鳴らすよりも早く、任夔の左右に曹休と楊阜が現れた。それぞれの兵は少なく見積もっても、三千ずつはある。任夔は知らず、三方から敵を受けるという死地に陥っていた。
「退けッ。退け! このままでは全滅するぞ。全軍退却だ」
判断はわずかに遅かった。最初の一撃で、曹真の手のごたえのなさをいぶかる経験と勘が働いていれば、あるいは任夔もほぼ無傷で役目を果たして帰陣することは可能であったのだろうが、欲が、かの将の戦術眼を濁らせた。
真正面の曹真、右からは曹休、左からは楊阜が襲いかかってきた。形勢はあっという間に一変して、任夔は防戦一方となった。
みるみるうちに任夔の軍は削られて、動きも鈍くなる。
――こうなれば歩兵を盾にして、我だけでも騎兵により撤退せねば。
が、そんな卑怯な任夔の策を嘲笑うかのように、後方に曹洪の本隊が現れた。その数は一万。任夔三千は前後左右、合計一万七千余の兵力で押し包まれた。
曹洪は苛烈な攻撃を加えて、ついに敵陣を破壊し、任夔を捕えて斬った。久々の勝ち戦に魏軍の士気は上がった。ある、幕僚のひとりが、陣払いの準備をしている曹洪に向かって
「お味方大勝利でございますな」
と喜悦の混じった声をかけたが、曹洪は
「――このような小鼠を討って喜ぶとはな」
と、自嘲した。任夔討たれるの報を聞いた張飛は飛び上がって悔しがったが、すでに曹洪は鮮やかに武都郡から消えているのでどうにもならない。
「くそ、だからあれほど無理に追うなと言っておいたのに」
張飛は消えた曹洪の方角を睨むと、素早く諸将に触れて陣払いを行った。近くには、曹洪だけではなく徐晃の軍も存在する。
張飛は諸葛亮の献策を受けた劉備の指示通り、北に移動した二将から目を離さず、慎重に移動を続ける。戦いはこれからである。
劉備は曹洪が武都から逃げ去ったのを確認すると関城に護軍の呉懿を守備に置き、自ら本隊を率いて陽平関を目指した。
「主よ、陽平関には漢中の旧主である張魯とその一党が三万の兵を擁して立て籠もっております。正攻法で攻めても、ここを落とすのは至難の業でしょうな」
諸葛亮は関城を出て、陽平関近くに陣を築いた劉備に向かって言った。
「しかし、陽平関を落とさずに南鄭は攻められぬ。そのうちに曹丕の大軍も長安から到着するだろう。すると我が軍はますます不利になる」
「曹洪たちは益徳どのが抑えておりますので問題はないでしょう。しかし、陽平関の外には夏侯淵が五万を超える兵力でたむろしておりこれを討ち破るのも難しい。できれば被害は最小限に抑えたいのですが」
「孔明よ。戦とは頭で描いた図のように、すべて上手くいくということもない。まあ、見ておれ。この劉備はそなたが思う以上に戦慣れしておる。相手が曹操ならば苦戦は免れぬだろうが、相手が夏侯淵ならば大丈夫だ」
劉備は甲を着込むと意気揚々と出撃した。だが、陽平関は堅牢であり、夏侯淵の率いる五万の大軍も相まって両者は膠着状態に陥った。
「ならば搦め手から攻めるとするか」
劉備は陽平関の裏手から攻めるために、関城から陳式を出撃させた。陳式は馬鳴閣に十の陣営を築かせて街道を遮断し、徐々に夏侯淵に圧力を加えた。
「劉備めが。小細工を弄しおって。そうはさせんぞ」
夏侯淵は本隊から徐晃に一万の兵を率いさせ、馬鳴閣道を進む陳式に当たらせた。陳式は、徐晃よりもはるかに少ない三千の兵数で陣営の守りを固めた。
徐晃もまた魏軍を代表する稀代の軍人である。その指揮能力は際立って高く、魏王朝でも五指に数えられる歴戦の将である。
「さあ、叩き潰すぞ」
徐晃は弩隊を前に出すと守りを固める陳式に向かって激しく攻撃した。が、敵より少数かつ、装備も練度も不足する蜀軍でまっとうに戦って勝てないことがわかっている陳式は、詐術を用いず、兵を励まして頑強に抵抗した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます