第048回「武都の戦い」

 馬超の狙いは、楊阜であった。


 楊阜はあざなを義山といい、天水郡冀県の出身である。かつて曹丕が渭水で馬超を破った。馬超は逃走すると、各地で戦い蛮族を平定して曹丕にとって容易ならざる勢力に成長した。


 曹丕がさらに馬超を追撃して安定まで来ると、蘇伯が河間で反乱を起こしたので、軍をひきあげて東に帰ろうとした。


 その際に、当時曹丕のもとに使者として滞在していた楊阜が


「馬超は韓信や英布(前漢の大将)の武勇を持ち、はなはだ羌族の心をつかんでおりまして、西方の州では彼を恐れております。もし、大軍が帰還しましたならば、厳重に備えをしない限り、隴上の諸郡は国家のものでなくなりましょう」


 と進言した。曹丕は楊阜の言葉をもっともだと思ったが、帰還に忙殺されゆきとどいた備えを怠った。そのために、馬超は蛮族の酋長を率いて楊阜の予測通り隴上の諸郡を攻撃して、そのほとんどを制圧した。


 ただ、冀城だけが州郡の刺史や太守を封じて馬超に抵抗した。

 馬超は隴右の軍勢と張魯の派遣した大将である楊昂の衆をあわせて一万人の軍勢で冀城を攻撃した。楊阜と従弟の楊岳と兵員千人を率いて馬超と戦った。


 しかし、八ケ月間の交戦も限界に近づき、別駕の閻温に城中を脱出させて救援を要請させたが、これは捕縛され馬超に斬られた。


 その結果、冀城の刺史と太守は馬超に降伏しようと考え出したが、楊阜は涙を流して諫め


「私どもは父兄子弟を率いて道義を守って励まし合い、たとえ死ぬことがあっても二心を持つことはありません。斉の田単の守備でもこれほど堅固ではないでしょう。降伏はいままでの功業を捨て去り、不義の名に陥ります。私はなんとしても馬超からこの城を守ってみせますぞ」


 と述べた。心の籠った熱い力説である。


 しかし、刺史と太守は和議を請い、城門を開くと馬超に降伏した。そして馬超は入場すると、楊岳を拘禁して、楊昂に刺史と太守を殺させた。


 楊阜は心中馬超に復讐する意思を抱いていたが、その機会をつかめずにいた。しばらくして、楊阜は休暇のために歴城に赴き、外兄の姜叙に


「私は城を守りながらまっとうすることができず、主君を失いながら死ぬこともできませんでした。また、なんの面目があって生きてゆけましょう。馬超は父に背を向け君にそむき、州将を虐殺しています。これはいったい私だけが憂慮して責任を感じることでしょうか」


 と、めそめそ泣きついた。楊阜は巧みに自分の失敗を他人に転嫁し罪悪感を持つように仕向けている。楊阜の泣き言は続く。


「州中の士大夫がその恥辱を受けているのですぞ。君が兵を擁し実権を持ちながら賊を討伐する心を持たないのは史官に書かれた趙盾と同じ態度です。馬超は強くても道義がなく、隙が多くてつけこみやすいですぞ」


 ここでニヤリと楊阜が笑ったかどうかは知らないが、なかなかの策略家である。これを聞いていた姜叙の母は激しく感情を高ぶらせた。


「叙よ。なにをグズグズしているのですか。さっさと楊阜に力を貸して馬超をぶっ殺しないさいよ!」


 と、言ったかどうかわからないが、とにかくこの肝っ玉お母さんは姜叙に命じて楊阜の計画に従わせた。


 計画が決まると、姜叙は、姜隠、趙昴、尹奉、姚瓊、孔信、李俊、王霊と謀議を巡らせ馬超討伐の約束を取り決めた。


 さらに安定の梁寛、南安の趙衢、龐恭らと手を結び、ついに鹵城で兵をあげた。そして梁寛と趙衢は馬超の妻子を殺した。馬超は逆上して歴城を落とすと姜叙の母を捕えた。


 その際に、姜叙の母は馬超に向かって


「おまえは父にそむいた逆子、君を殺した凶賊です。天地がどうしてあなたを長い間そのままにしておくのでしょうか。それなのに、いつまでも死なずに平気なまま、どうして他人に顔向けできるのですか」


 と言った。馬超は腹を立て、彼女を殺した。楊阜は馬超と激戦して、身体に五カ所の傷を受け、一族の子弟七人が戦死した。やがて隴右は平定されて馬超は南方の張魯に身を寄せることになるが、ふたりは不倶戴天の敵となるのである。


「楊阜、ここで会ったが貴様の運の尽きよ。今日こそおまえの首を見るぞ!」


 怒声を放ちながら馬超は騎馬を躍らせて、楊阜の軍を散々に追い散らし、これでもかとばかりに揉みに揉んで砕いた。


 ――くそ、まさかこの場に馬超がいようとは。

 楊阜は馬を走らせながら必死の思いで馬超軍の兵士を防がせた。楊阜は勇敢で知略もあったが、兵術においては馬超にかなうべくもない。


「我が妻子の仇! ここで必ず無念を果たす!」


 馬超は長矛を左右に振るって、楊阜の兵を片っ端から刺し殺した。甲ごと刃が背まで貫くと、あたりは瞬く間に鮮血が振り撒かれた。


「殿、ここはわたしにお任せあれ」


 楊阜の属将である李任が戟を引っ提げ馬超の前に立ちはだかった。が、馬超が凄まじい勢いで駆け違うと、李任の首は真っ赤な血と共に虚空に跳ね上がった。


「雑魚は邪魔だ!」


 この時の馬超の武勇は際立っていた。自ら陣頭に立って遮二無二責め立て、彼ひとりで楊阜の兵五十余名を討ち取る勇猛さを見せた。矛がきらめき、楊阜軍は狼に追い立てられる羊のように、ただ虐殺された。


 また、馬超の率いるいまや少なくなった生き残りの涼州部隊もここぞとばかりに奮戦した。


 涼州騎士の矢は正確無比だ。まるで馬超の怨念が乗り移ったように楊阜の兵卒を片っ端から射殺する。


 ただでさえ、逃げ回るのが精一杯の楊阜に、馬超の属将である龐徳や馬岱といった猛将が畳みかけるように攻撃を集中させるので、その代わり曹洪に向かう攻撃がわずかに減った。


 ――このままでは全滅する。

 曹洪は混乱から立ち直ると、すかさず陣を立て直し、まだ戦闘に耐えうる兵を小さくまとめあげた。


 亀の甲羅のように固くなったまま、ジッと蜀軍の攻撃に耐える。総兵力では曹軍のほうが上回っている。


 曹洪は守備に優れた将ではないが、長年の経験でこのような状況の波が途切れるまで待つほかないということを身体で知っていた。


「くそっ、このような狭い場所では騎兵を展開させる余地もないわ」


 狭隘な山岳地帯で戦い慣れている蜀兵における騎馬の数はそれほど多くない。涼州勢も騎乗しているのは将校以上で、ほとんどは地に下りて戟を使い戦っている。この土地を熟知した命令を下しているのは、どのような謀主であるかと余計な考えが曹洪の頭の隅をかすめた。


「曹将軍。下弁の張飛がすぐ近くまで迫っています」


 急使の報はさらに曹洪を歯噛みさせた。


「ここでさらに挟撃されたら皆殺しにされてしまうぞ。致し方ない。とにかくここは退けッ。南鄭にいる夏侯都督に援軍を頼む外ほか我らの生きる道はないわ!」


 完全に陣形を破壊された曹洪軍に無傷の張飛軍一万余が襲いかかった。


「おいおいテメェら。俺さまの分も残しておいてくれよッと!」

 張飛が丈八の蛇矛を手に、もはや組織だって抵抗のできない曹洪軍を噛み砕く。力が有り余っている張飛は蛇矛を旋回させながら敵陣に突っ込むと、あっという間に五、六名の兵が血達磨になって転がってゆく。


「さすが張将軍だ」

「曹軍など相手にならねぇよ」


 張飛が敵陣を引き裂くと蜀軍からワッと歓声が巻き起こり、士気は高まった。曹洪の率いる兵は弱くない。


 むしろ、歴戦の勇士で固められており、水準以上であるといってよい。その兵士を片っ端から打ってしまう張飛の強さが際立っていた。


 魔人のような強さで曹洪軍を張飛は翻弄した。蛇矛が右に左に動くと、脳天を勝ち割られた兵士がすっ飛んでゆく。いにしえの項羽を思わせる鬼神のような強さが戦場の空気を支配した。


 絶体絶命と思われた曹洪軍を救ったのは氐族の酋長である陰平の強端であった。強端は武都氐族の酋長である苻双と共に、六千余の兵を率いて援軍に駆けつけたのだ。


 ――まさか、氐族がここまで義理堅いとはな。

「済まぬな強端。ここは任せるぞ」


 強端は氐族の言語で応じると勇敢にも自ら陣頭に立ち、騎馬を率いて打って出た。これに立ち向かったのは呉蘭である。


「おう、蛮族の酋長よ。ものごとの道理がわからぬお主に漢朝に降る機会を与えてやる。いさぎよく降れば、漢の御旗のもと栄耀栄華は思いのままぞ」


 鉄の甲を着た異相の強端は呉蘭の言葉を推察したのかせせら笑うと、巨大な刃を持つ蛮刀を片手に打ちかかってきた。


「わけのわからぬ蛮人よ。蜀漢の呉蘭が冥府に送ってやるぞ」


 呉蘭は矛を手にすると強端に駒を寄せて一騎討ちに臨んだ。呉蘭は矛を構えたまま悠然と佇む強端に斬ってかかる。


 強端も我が敵得たりと蛮刀をひらめかして迎え撃つ。刃と刃が打ち合って金属的な音が戦場に響き渡った。


 得物の長さでは呉蘭が有利であるが、騎馬の扱いでは強端が上回っている。強端は巧みに駒を寄せたり引いたりして、矛を弾き返しながら呉蘭の不意を衝いて斬撃を放った。呉蘭は慌てて矛の柄で刀を受け止めると、頑丈そうな歯を剥き出しにする。


「やるじゃないか、蛮族の長よ」


 呉蘭も蜀では武勇で鳴らした男だ。頭上で矛を旋回させると勢いをつけて袈裟懸けに斬りつけた。強端は器用に蛮刀の厚い部分ですべらせ軌道を変える。互いに見やる。鏡合わせのように笑みが浮かんだ。


 両雄の激闘は数十合続いた。強さはほぼ互角。このまま戦いは長引くと思いきや、呉蘭の右肩に後方から放たれた矢が刺さった。


「ぐうっ」


 強烈な痛みに呉蘭が矛を取り落とす。背後を見ると、呉蘭の知らぬ顔の新たな蛮族の酋長が立っていた。苻双である。強端とは違う装束の兵士を連れているので、すぐにわかった。


「ふ、不覚」


 矢は急所に刺さったのか、かなりの量の血が流れる。強端は苻双に向かって呉蘭には理解できぬ言葉で強烈になじっている。


 おそらくは、名誉ある一騎討ちを邪魔した苻双に対して怒っているのだろう。苻双は強端の馬に自分の馬をぶつけると戟を携えて迫ってきた。


 ――ここで終わりか。


 諦めの色が呉蘭の表情に濃く浮かんだ。苻双が弓を引き絞って呉蘭に狙いをつけている。どこか、他人ごとでその姿を見つめていると、遠方からワッと蛮族のどよめきが上がった。旗印。魏延のものだった。


 いままで伏せていた魏延が不意に氐族の軍に襲いかかったのだ。だが、苻双の攻撃が中止されることはなかった。弦がわずかに動いた。

 同時に、どこからともなく巨大な矛が降って来て地面に突き刺さり、矢を弾いた。


「おいおい、男同士の一騎討ちに水を差すなんてどこまで無粋な野郎だよ」

「張将軍」


 そこには陣頭で戦っていたはずの張飛が虎髭をピンと張りながら呆れたような顔で自分の首元を掻いていた。張飛は馬をゆっくり進ませると、地面に刺さった一丈八尺の蛇矛を引き抜くと水平に掲げた。刃の切っ先は苻双に向いている。


「俺さまが気に入らねぇのはテメェだよ。まあ、いい。呉蘭じゃ不足ってんなら、天下無双の張飛さまがお相手つかまつろうか」


 漢族の言葉は通じぬでも言われている意味が理解できたのか、苻双は再び弓を引き絞ると、有無を言わさず放った。距離は、先ほど放った位置よりも近い。呉蘭は張飛が射抜かれると顔を強張らせた。


 が、張飛は蛇矛をぶおんと振り回すといとも容易く矢を叩きとして見せた。苻双は唖然としている。


 いまのはあり得ないとばかりにもう一度弓に矢を番えて引き絞る。すると、張飛は蛇矛を左手に持ち替えてニヤニヤしながら右手をぬうと前に突き出した。


 ――いくらなんでも、それは無理だ。


「来な」

 不敵な笑み。まるで命のやり取りを童子の遊びのように捉えている異様さがあった。ほとんど恐怖に駆られて苻双が矢を放った。


 次の瞬間、張飛は小魚を手取りにするように矢を軽々と引っつかんで見せた。驚愕したのか、苻双の手から弓が地面に落ちた。強端も大きな口を開けたまま、呆然としている。周囲の氐族の兵も張飛の魔法染みた術に感嘆したのか、戦う剣を止めて次になにが起こるかを見守っている。


 苻双はカッとなって、近くの将から矛を奪うと、なにごとかを蛮族の言葉でわめきながら張飛に向かって打ちかかった。


「へ」

 張飛は薄ら笑いを浮かべると、左手の蛇矛を右に持ち替えて迎え撃った。苻双が氐族の荒馬を疾駆させて駆け違う。


 瞬間、雷鳴のような雄叫びが張飛の喉元から発せられた。


 次の瞬間、苻双の巨体が張飛の蛇矛によって刺し貫かれ、天に掲げられていた。


「かっ、はっ、ぐふっ」


 蛇矛の先端は苻双の胸元から背まで抜けている。張飛は丈八の得物を軽々と天に差し向け、なんてことのないようにしばらく苻双を持ち上げていたが、やがて飽きたのか放った。


 苻双の五体がドッと音を立てて地面に転がった。苻双は白目を向いたまま絶命していた。地面に苻双の背中から流れ出た血が海のように広がってゆく。蛇矛の先端にある刃が真っ赤な血に濡れて妖しい光を放っていた。


「なんでえ、言うほど強くねえじゃねえか」


 途端、強端をはじめとした氐族が一斉にその場に両膝を着いて張飛を拝跪した。強端はすぐそばにいる小者になにごとかを囁く。その小者は漢族の言葉を唯一理解できるのか張飛の前に立つと言った。


「我が部族の長である強端はあなたさまを天から遣わされた使者であると言っております」


「ほうほう。それで?」


 気をよくした張飛はどこか得意げな顔で周囲の部将に「なあ、なあ」と童子のような純粋さで目をきらきら輝かせている。


「我ら氐族は、鬼神のような強さであらせられるあなたさまに、一同仕えます。とてもではないが、曹丕があなたのような豪傑にかなうはずもないだろうと、我が長である強端はそう言っておられます」


「うむうむ。ということは、我ら漢軍に投降するということだな。ふふふ、聞かれたか。諸将のみなさま方よ。これは是非とも義兄者あにじゃ、もとい、我が主にお伝えせねばな」


 張飛は鼻腔を膨らませながら、馬を左右に行ったり来たりさせると、思い出したように顔を上げた。


「いっけねえ、そういや、まだ合戦の途中じゃねえか。遊んでる暇はねえぞ。とりあえずは、だ、俺らで曹洪の首を軽く上げとくか! ってことで、行くぜ!」


 張飛は魏延と一体となると、さらに力を倍加させてひたむきに曹洪を追い、ついには空前絶後の撃破を遂げた。


 曹洪軍は、この戦いで、一万余の戦死者を出した。劉備は張飛の勝報を聞くと「さすがは我が弟だ」と喜色満面の笑みで居並ぶ諸将に、子供じみた様子を見せた。諸葛亮はそんな主人の様子を見て


 ――まずは、一勝。しかし、これは貴重。


 と、胸を撫で下ろした。

 


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