第047回「孔明の知略」

 魏の名将である張郃を張飛がみごとに打ち破った。この圧倒的快勝は瞬く間に内外に広がり、蜀軍の士気は天も衝かんばかりに膨れ上がった。


 建安十六年(二一一)三月上旬。


 劉備は諸葛亮を軍師として、法正、黄権、呉懿、黄忠、趙雲、厳顔、陳式、高翔、孟達、劉封、句扶などの本隊を率いると漢中奪取のために、ゆるゆると駒を進めた。


 さらには別動隊として、張飛、馬超、魏延、呉蘭、雷銅、任夔たちに兵三万を与えて武都郡を攻略させた。


 これら蜀軍を迎え撃つのは、曹丕によって派遣された、曹洪、曹休、曹真の三将である。年齢や経験から総指揮官は曹洪であるが、曹丕は自分と同じく新世代の大将を育てようと、この部隊の実質的な長を曹休に任せていた。


 曹休はあざなを文烈といい、曹操の族子にあたる。


 建安十六年に三十七歳になったばかりの曹休は、十数歳の時に、天下の動乱で、一族の者たちとバラバラになって郷里から立ち去った。


 その時に、父を失ったが、ひとりの客人と共に亡骸を担いで仮埋葬を済ませると、年老いた母を連れて呉に避難した。

 

 曹操が義兵を起こすと姓名を変えて荊州にたどり着き、間道伝いに北へ帰り、苦難を乗り越えて曹操に目通りした。


 曹操はまだ少年である曹休の胆力と度胸に感銘を受けて


「こやつは我が家の千里の駒じゃ」 


 と、激賞し、曹丕と共に起居させて我が子同然に養育された。曹休は曹操のお気に入りで、いつでも征伐に供をさせ、軍事を実体験で学んだ現場上がりの将であるといってよい。


 その曹休を従えた曹洪が劉備を迎撃するために、五万の兵を率いて武都郡に出現した。南鄭には夏侯淵が五万の兵を籠めて劉備の動向を窺っている。

 容易ならざる状況に劉備は諸将を集めると意見を募った。


 ――曹休が実質的な参謀か。やはり、曹丕が本質的に頼れるのは一族の者であるな。


 諸葛亮は敵の布陣を聞くと、羽扇を弄びながら過去の記憶に思いを馳せた。曹操は基本的に張遼という例外を除いて、曹氏、夏侯氏以外の血族に一万以上の兵を与えなかった。


 曹丕は、曹操古参の家臣が荊州の戦いでかなり討ち取られてしまい、一族以外の将を重用せざるを得なかったという理由があるが、それでも最終的に重要な戦いには宗族を頼みとしていた。


「敵の指揮官は曹洪だ。あやつは曹操の族弟であり、旗揚げ以来つき従ってきた歴戦の猛将。となれば、いかようにするべきや」


 劉備が顎鬚を撫でながら唸ると、諸葛亮がすくと立ち上がり発言した。


「主よ。ここは益徳どのや馬孟起どのを派遣して曹洪を撃破し、速やかに武都を平らげ漢中に攻め込む橋頭保にするのがよろしいかと存じます」


「だが、孔明よ。相手は曹洪だ。そのように容易く斃せる相手とは思えぬが」


「これはこれは。曹操本人ならばいざ知らず、我が蜀には名将が綺羅星の如く並んでおりますゆえ、誰に任せてもお味方は大勝間違いなし。で、ありますがここは張郃を破って天下に名を響かせた益徳どのと、西涼の錦馬超と謳われた孟起どののおふたりしか適任者はおりませぬな」


 諸葛亮が過剰なまでに持ち上げると、張飛も馬超も根が単純なだけに、すっくと立ち上がり、天幕を揺るがすほどの声で応じた。


「おうっ。軍師どのの言うとおりよ。我に任せれば、曹洪なんぞは屁でもねえさ」


「不肖、この馬超、劉公に仕えて以来、手柄らしい手柄もあげておりませぬ。それに相手が憎き曹一族と言うならば、相手にとっては不足なし。お任せあれ」


「と、なると私にひとつ策があります。しからば、両将、お耳を拝借」


 諸葛亮はそう言うと、張飛と馬超になにごとかを囁いた。両者は、ニタリと頑丈そうな白い歯を見せると、飛ぶような勢いで天幕を出ていった。





 曹洪の率いる五万の軍勢が蜀に迫る。劉備に派遣された張飛軍一万は素早い動きで固山に陣取ると、曹洪の伸び切った糧道を遮断するように動き出す。


 さらには下弁に派遣された呉蘭が威勢を露にすると、曹洪軍は呉蘭を討つかそれとも張飛に向かうか、陣営において衆論は定まらずに時を重ねていた。


 この時、参軍の曹休は諸将を見渡すと、よく響く澄み切った声で戦術を論じた。


「曹洪将軍に申し上げます。張飛が我らの糧道を本気で遮断するというのであれば、軍兵を潜ませ、隠密に行動するはずです。しかし、現在の賊軍は声を張り上げ気勢を示し隠す気配がないことから、これが陽動であるということは明白です。張飛の態勢がまだ定まらないうちに、下弁の呉蘭を急襲してこれを撃破すれば、張飛の軍は自ずと瓦解し、逃走するでありましょう」


「なるほど。文烈の申す通りだ。儂の読みとほぼ同じだな。張飛はただの牽制よ。魏王が戦場に着く前に、ひと掃除しておこうか」


 曹洪は曹休の意見を採用すると、呉蘭を討つために、自ら曹休と辛毗を率い、また別動隊として、曹真に張既と楊阜らを率いさせると、呉蘭の陣に迫った。


 五万の軍勢が夜の闇をひたひたと迫る。


「さあ、寝こけている蜀の山猿たちを残らず退治するぞ」


 曹洪は、自分の本隊と曹真の別動隊をふたてに分けると、戦鼓を打ち鳴らして急襲を行った。


 静まり返った呉蘭の陣に無数の矢が射かけられると、たちまちあたりは蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。


「それ、いまだ、者ども。突撃よ」


 曹休は騎兵を突貫させると、防備の定まらぬ呉蘭軍をこれでもかと蹂躙した。左右から五万の大兵に押しまくられると、呉蘭軍の一万はほとんど交戦せずに、陣営に大量の武器と食料を遺棄して逃げ出した。この逃げっぷりに、曹洪は馬上で腹を抱え歓喜の表情で哄笑した。


「見よ、者ども。しょせん、寄せ集めの蜀軍などこの通りよ。第一、儂は劉備が若いころから知っておるが、あやつは逃げ足だけが早い男でほかにとりえなどないわ。曹公が破れたのは油断が過ぎたからだ。もっとも、幾多の激戦を潜り抜けてきたこの曹洪さまにはかなわなかったようだな!」


 曹洪はこの快勝に気をよくすると、大宴会を行った。巨大な天幕を張らせて、諸将を呼び集め、暫時戦場の慰めとして、漢中の美酒を集めて鯨飲した。


「はは、愉快愉快。そら、皆の者。戦場の無聊を慰めるために、一夜の華を用意したぞ。今宵は存分に愉しんでくれ」


 思った以上に奇襲が成功したことをよほど喜んだのか、曹洪は歌姫に薄いあやおりの衣を着させて、宴席で舞わせた。


 十数名の歌姫たちは、曹洪が商人たちに用意させた都の娼館かた選び抜かれた美女ばかりである。むっちりした双丘の谷間には汗が浮かび、くびれた腰の先には豊かな臀部が妖しげな動きで男の情欲を誘っている。


 歌姫たちは、時折、部将たちに流し目をくれながら淫猥な動きをさらに加速させた。女日照りの戦場である。さらに、将たちはさきほど殺戮の現場から帰ったばかりで、誰もが気が立っており、ほどよい肉体的疲労から目を血走らせ、歌姫たちのうねるような肉の動きに釘付けになっていた。


「ん、あんっ」

 ひとりの将が戯れに歌姫の腰を抱き寄せると、情事の時に漏らすような声が甲高く響いた。


 曹洪は肥えた腹を撫でさすりながら、配下の将がいますぐにでも歌姫を押し倒しそうな様子が普段の謹厳な態度とはまるで違うこともあり、どこかツボに嵌ったのか笑いが止まらなくなり、手にした杯の酒をこぼす始末であった。


「おう、揚将軍。その女が気に入ったのならば、今宵は連れ帰り不寝番をさせるがよいわ。ならば、おつきの兵卒も今夜は気を抜き命の洗濯じゃ」


「や、いや、曹将軍。それがしは、そのような邪な気持ちは毛頭ござらん。ただ、いささか酒の一杯でも注いでもらえればと、ただそれだけで――」


 一座の者がドッと笑いこけた。天幕の中は、さらに音楽が奏でられ、いまにもこの場で交合が始まってもおかしくはない異様な雰囲気に包まれ出した。


 しかし、この状況に我慢ならない男がひとり杯を地べたに叩きつけると、怒りの籠った声を張り上げた。


 楊阜である。彼はズカズカと上座に向かい、目の前にいた歌姫を突き飛ばすと嚇怒しながら両眼を見開いた。


「曹将軍。男女のけじめは国の重要な道徳ですぞ。どうして、かようにこのような大勢の諸将がいる席上で、女の肉体をいやらしくも剥き出しにするのですか。桀(夏王朝を滅亡に導いた暴君)紂(商王朝を滅亡に導いた暴君)の不道徳でもここまでは酷くありませんぞ。私はこのようなけがらわしい席だと知っておれば、参加などしなかった。これにてご免仕る!」


 楊阜はかくてその場を辞去した。さすがに曹洪もこの楊阜の言葉に、調子に乗り過ぎたおのれの行為を反省し、女舞楽を取りやめた。それから自ら楊阜におのれの過ちを謝罪して、なんとか席に戻るように請うと、今度はあくまで粛然とした将士の戦いぶりを慰労する会に戻して、行状を改めた。




 

 翌日、曹洪はいまだ呉蘭の首を上げておらぬことを恥じて、全軍を引き締めると、さらに軍馬を進めて移動した。


 ほどなくして、斥候が逃げ去ったはずの呉蘭が、あらたに陣営を構築していることを知り、諸将に通達して一気に攻撃を開始した。


 ――今度こそ逃さぬ。ひとりも逃さず屠ってくれるわ。


 曹洪以下、用心深い諸将も呉蘭の軍を打ち破って全軍気をよくしている状態である。


 将帥がひと揉みすれば、蜀軍など逃げ去るだろうと思い込んでおり、そこがまったくの油断であり、死地だということに誰も気づいていなかった。


 雷撃のような激しい鼓が打ち鳴らされると、曹洪軍の左右から夏の日の入道雲のようにたちまち湧き起こり、それらは猛烈な攻撃を開始した。


 これらはすべて諸葛亮の策である。張飛の行動を牽制であると見抜いた曹洪の前に、呉蘭という食べやすい餌を置き、奥地まで引き込んでまとめて屠るという単純明快な作戦であった。


 馬超、呉蘭、雷銅、任夔の四将がまったくもって無防備な曹洪軍に向かって一気に襲いかかった。虚を衝かれた曹洪軍は、この猛攻撃にたちまちに打ち砕かれ、散々に叩きのめされた。


 呉蘭と雷銅が弩を乱射しながら、退路を塞ぐと、曹洪軍の混乱に拍車がかかった。峻険な山岳地帯ならば、蜀の歩兵は無敵である。彼らの動きは曹洪の自慢である騎兵を圧倒した。後陣の曹休も曹洪を助けようと駆けつけたが、背後から陳式と高翔の部隊が襲いかかると、不意を衝かれてまったく反撃ができず、打たれっぱなしになった。


「馬鹿な、落ち着け。蜀軍は寡兵だ。我らのほうが数は多いぞ」


 曹休は声を嗄らして兵卒を叱咤激励するが、用兵に優れた陳式の攻撃には抗せず、次第に負傷者を増やしていった。


 劉備の人を見る眼は抜群である。陳式の兵術はこの時、間違いなく曹休を凌駕していた。


 さらには、正史において蜀漢帝国で大将軍にまでのぼった逸材である高翔がその脇を支えた。諸葛亮の綿密な事前の策と、地形の隅々まで把握しているとしか思えない行動指針により、高翔の指揮能力は本来の限界を超えて発揮された。


「ゆけ、退路を断つのだ」


 高翔は静かな声で命ずると、兵を進退させて曹休の軍におけるわずかな隙を見抜き、陣を破壊した。激戦は昼過ぎから夕刻近くまで続いたが、ついに曹洪が逃走を始めた。


 が、それを執拗に追うひとりの将がいた。馬超である。


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