第046回「巴西の戦い」

 張飛はこらえた。この男にしては辛抱したほうである。だが、劉備の信任を受けて万余の兵を与えられたからには、ひとりの臣下として、また義弟として魏の名将と謳われた張郃を撃破し、友軍に勢いをつけたいというのが人情だろう。


 そう思い立った翌日、張飛自ら兵を率いて山裾から張郃に向かい思いつく限りの罵倒を浴びせかけるが、依然として張郃は沈黙を守っていた。


「けっ、ならこっちもこっちだ。そっちにやる気がねえってんなら、どっちが痺れを先に切らすか勝負してやらあ」


 張飛はそう言うと、敵陣の真ん前に兵卒を並べて寝転ばせたり、最後には酒樽を運ばせて酒宴を行うようになった。


 ――とっとと降りてきやがれ。端からこの蛇矛を喰らわせてやらあ。


 くびぐびと酒を呷りながら、張飛は真っ赤な顔で宕渠の砦を睨みつける。しかしそれでも、張郃はぴくりとも動こうとしなかった。


 両軍の対峙は五十日を超えて、なお、大きな動きはない。張郃は、張飛の酒盛りを静かに観察しながら


「張飛の陣からは殺気が消えておらぬ」


 と、静観を守ったので、このまま両軍は永遠に睨み合うばかりかと思われた。


 無論、成都の劉備がこの戦況を黙って見ているわけがない。動かぬ理由を使者に問い質させた。ほどなくして、使者は張飛の伝言を手にして成都に戻ると言った。


「張将軍は、張郃がいかに挑発しても陣を出ぬので、敵を欺き呼び寄せるために酒盛りを行い続けるのでいましばらく御辛抱を、とのことでした」


 劉備はギョッとした顔で群臣を見渡し、最後には助けを求めるような表情で諸葛亮を見やった。


「のう、孔明。益徳はかように申しておるが、もしや、またぞろ悪い癖が出たのではあるまいか」


 諸葛亮は劉備の動揺が滑稽かつ可愛げがあるように思えたので、羽扇で口元を隠して


「ならば成都から美酒を集めて酒樽数百を益徳どのの陣に送り届けるがよろしいかと思います」


「我が軍師よ。なぜ、いまになってそのように私をからかう。益徳めの酒癖が悪いのは、新野のころからお主も知っておろうに。そもそもあやつは私が琢県にいたころから酒で失敗を繰り返してきたのを知っている。我が、美酒を送れば益徳はお許しが出たぞ! とばかりに鯨飲するのは目に見えておる」


 劉備が目を怒らせて怒ると、このやりとりを見ていた法正がくくく、と低い声で笑い声を漏らした。


「孝直よ、なにがおかしいのだ」

「これは主よ、失礼。しかし、孔明どのもお人が悪すぎる。張将軍の存念を主にお話しせねば、ただ混乱を招くだけでしょう」


「な、なに?」

「これは失礼。我が主よ、益徳どのは益州に我らが入る際に先鋒として厳顔の降を許し、幾多の堅城を無欠で開城させました。また、彼が軍務の暇を縫って賢人を呼び集め、書物を問うていたことは見知っているでしょうに。主は、益徳どの若き日からほとんどの時間を寄り添って生きてきたので、近すぎるのです」


「私が、近すぎる……」

「そうです。近すぎると、物はよく見えないのです。益徳どのは新野にいたころとはまるで違う人物であると思ってよいでしょう。彼の実体験に孫子の兵法が裏打ちされれば、そこに益徳どのなりの兵術が完成しているのです。彼は、酒を飲むふりをして、いま、張郃を誘い出そうと必死なのです。我らがそこを補強してやれば、問題なく勝利は得られるでしょう」


「むうう、しかしのう。孔明がそういうのであれば、間違いはないだろうが」

「ならば、陳到と魏延に増援の兵をつけて酒樽を運ばせましょう。万が一の場合益徳どのを止められるのはこのふたりが適任かと」


「わかった、益徳と孔明を信じよう」


 諸葛亮は劉備の命を受けると、すかさず陳到と魏延を呼び寄せ兵と共に無数の酒樽を巴西まで運ばせた。


 酒樽を運ぶ車列は巣穴に餌を運ぶ蟻のように延々と続き、周囲の領民はこの戦を蜀魏の大酒宴と半ば見下した目で決めつけ、その噂はたちまち郡内に広がった。張飛は、酒樽が届いたことを知ると、踊り上がって歓喜した。


「我がこと成れり。さすがは、義兄者と軍師どのだ、へへっ」


 陳到と共に従軍していた馬謖と向寵は酒樽を張飛の陣に運ぶ手伝いをしながらてきぱきと行動していた。


「それにしても、さすが張将軍。敵前でこれほどの余裕を見せるとは、ただ、我は劉公のように、兵たちがこれほど酔ってしまうのは心配であるが……」


 向寵が不安げに呟くと馬謖は静かに笑みを湛えたまま、なにも言葉にしなかった。


「なんじゃ、その顔は。幼常、言いたいことがあるのなら申せばよい」

「いや、別になにほどのこともない。ただ、張郃は魏の名将だ。特に、用心深いと聞く。ならば、張将軍もあとひと押しが欲しかろうと、な」


「なんだ。幼常、要領を得ないな。ぜんぶ、儂にわかるように説明してくれ」

「……いや、策を弄ぶのはどうもな。儂は懲りたよ」

「いいから申せ」


 馬謖は向寵の押しに負けた形で、自分の存念を話した。すると、向寵は驚きに満ちた表情で飛び上がると、馬謖の両肩をつかんで揺さぶった。


「なぜ、なぜ、そこまでわかっておりながら実行に移さぬのだ! 儂なら、とっとと動いておるぞ、幼常!」


「いや、しかし、これはあてずっぽうで、儂の策なぞ生兵法になるやも知れぬし。もう、賢しらに思いを巡らすのは気が進まぬ」


「幼常、それは違うぞ。よい策があれば進言し、それを用いるかどうかは大将の一存じゃ。そもそも我らは、将といっても見習いのようなもの。使うかどうか決めるのは、上の方が決めるわ。そうよ、幼常に自信がないのなら、儂から陳将軍にお話しして、それから張将軍に伝えるというのはどうじゃ。な? な? 儂はそなたの才が無意味に死蔵されることこそ、蜀の損失じゃと思うておる」


「いや、寵よ。落ち着け」


 馬謖は向寵に無理やり引っ張られる形で陳到の前に引き出され、無理やり考えを喋らされた。余計なことを考えるなと雷を落とされるかと馬謖は押し黙る陳到の前で身体を強張らせていたが


「や……それはいけるのではないか? 善いぞ。儂から益徳どのに話そう」

「へ?」


 予想外に陳到から好感触を得た馬謖の「思いつき」はトントン拍子に受け入れられ、その夜、酒樽が届いた席で、ある事件が起きた。


 馬謖が向寵と刃傷沙汰を起こしたのだ。


 事情を簡潔に説明すると、酒盛りが最高潮に達する宴席で馬謖が公然と張飛の行状を軍務にかこつけた怠慢であると罵り、それを止めようとした陳到を交えての大乱闘を引き起こしたのだ。騒ぎの張本人ともいえる張飛は酒の肴にちょうどよいとばかりに止めるどころか喧嘩を煽りたてる始末である。


 ――よもや張飛の油断は真実ではないか?


 緒戦の手痛い敗北から用心に用心を重ねていた張郃にその話が伝わると、さすがに疑念の霧が薄らいでゆく。


 張郃は、砦の高所に移動すると、いまだ戦闘など起らぬと決め込んでいる張飛の陣から飲めや歌えの大盛り上がりの声が響き渡っていた。


 そんな折、部将のひとりから


「将軍。張飛の配下であるふたりの将が我が軍に降伏したいと手勢を率いて、陣の前に参っておりますが、いかが?」


「おう、会おうぞ」


 ――来たな。とうとう波が。


 ぶるりと、張郃は全身を悪寒に似た激しい震えを感じてゆすると、部将が案内してきたわかいふたりの将を見て、確信した。


「我ら、馬謖と向寵と申します。こたびの諍いは、高名な張将軍のお耳にはお入りでしょうが、我らはあの張飛にほとほと愛想がつきもうした。我の諫言を聞く耳を持たぬどころか、酒の肴にして、興が醒めれば、このように殴りつける始末でございます。我らは、張飛の陣だけではなく、蜀の要害の急所をそらんじており、もし降伏することをお許しいただければ、我らが手勢五百騎、魏王の忠実な駒となって張飛を破るはおろか、成都まで魏の天兵をご案内し申す」


 馬謖の言葉は滔々と流れる清き河のように淀みなく、聞く者に強く訴えかけた。さらにえいば、馬謖も向寵も顔にできたばかりの痛々しい青黒いあざがあり、張郃が密偵から聞いてたことの次第と寸分と変わらず、攻めるにはやはり絶好の機会であった。


 ――いまこそ決着の時ぞ。


「これぞ天祐。両将が我が魏軍に下るのも、この中華を平定せよとの天の命であろう。さあ、者ども。今夜はこの山を駆け下って、張飛の首を上げ、逆賊劉備の魂魄を引き抜いてやろうぞ」


 張郃は武者震いに震えながら、高祚に後陣を率いらせると愛馬に跨り、山を駆け下って一気に張飛軍へと迫った。


 が、張飛の陣は酒盛りでみな寝入ったのか、しんとして物音ひとつ聞こえない。


「見よ、敵は白河夜船よ。一気に攻め滅ばしてしまえ!」


 怒号を喉元から吐き出しながら張郃が陣頭に立って駆け入ると、天幕のどれもが鎮まり返り、しわぶきひとつ聞こえない。


 ――おや?

 と不審に思ったのは遅かった。左右を見れば、案内役として控えていた馬謖と向寵の姿がついぞ見えない。


 ――しまった。


 悔恨の表情で張郃が馬首を返そうとすると、背後から凄まじい歓声と共に灯火を手にした無数の蜀兵が退路を完全に断っていた。


 ――やはり、降伏もすべて我をおびき出す嘘だったのか。


 蜀兵を従える戦闘の将を見た途端、張郃は全身の血が引いて目がくらんだ。電光を受けたかのように逆立った虎髭に、異様なほどの圧を持った巨眼が張郃を真っ直ぐに見据えている。叫び声は獅子すら凍りつくような迫力と威を備え、手には丈八の蛇矛が天を衝くかのように差し上げられていた。


「いよう張郃。我が策にとうとう嵌ったな。この先は、冥府への一本道。燕人張飛がお主に引導を渡してやる。覚悟せよ!」


 張飛は猛虎のような雄叫びと共に蛇矛を烈火の勢いで張郃に叩きつけた。異様な風切り音が鳴って鋭い刃が張郃の喉元を襲った。


「なにを――くたばるのは張飛、おまえのほうよ!」


 ここが先途と張郃も必死の覚悟で槍を振るった。さすがに、魏の五将軍と呼ばれるほどの張郃が本気を出せば、さすがの張飛も易々と討ち取れない。両者の打ち合いは、五、六十合と火花を散らし、いつ果てるともなく続いた。


 張飛が蛇矛を繰り出せば張郃も負けじと槍を突き出す。刃と刃が宙で打ち合わされ、ガッと闇夜に電光が奔った。


「しぶてえなあ。だが、こうでなくっちゃ歯ごたえがなくてつまらねえ!」

「ほざけ、ここで我がお主の首を叩き通してやるッ!」


 張飛と張郃が苛烈な一騎打ちを続ける間に、雷銅をはじめとして、魏延や陳到、范彊や張達、そして馬謖や向寵といった若き将軍が宕渠の敵勢をこれでもかとばかりに追いまくった。


「そこなるは敵将高祚と見た。我こそは蜀の魏文長なり。劉公の土産に貴卿の首をもらい受ける所存なり。いざ、勝負!」


 魏延は敵勢の中に高祚の姿を見つけると、馬の腹を腿で締め上げ颯爽と打ちかかった。


 高祚は近づくと思った以上に歳のいった部将であった。だが、そんなことは戦には関係ない。戦場で将が出会えば、名乗りを上げ、打ち合って命を取り合う。ただ、それだけのことだ。そこにはいかなる感情も介在しない。


 魏延は戟を振り上げると、髭に白いものが混じった将が異様に驚いていた。

 まさか、自ら打ち合うことなど想定していない。

 そんな感情が高祚から魏延にしっかりと伝わってきた。


 だが、振るった。情け容赦なく戟を叩きつけた。高祚は手にした矛を構えようと馬を向き直らせていたが、魏延からいわせれば遅すぎた。


「阿呆めが」


 戟。魏延は高祚の顔面に自分の手にした刃が深く埋没したことに、異様なまでの不快感を感じていた。これではまるで弱い者いじめではないか。ただの一撃。奇襲に近かったが、高祚はひとりの漢としては歯ごたえがなさ過ぎた。


 どうっ、と音を立てて高祚が馬から地面に落ちた。魏延に随伴していた歩兵のひとりが、嬉々として高祚の首を剣で斬り落とすと恭しく捧げてきた。


 魏延は兜の落ちた高祚の髻をひっつかむと高々と天に掲げ、吠えた。


「敵将高祚は蜀の魏延が討ち取ったぞ」


 割れんばかりの絶叫が周尾を埋め尽くした。

 ちょうどそのころ、逃げ出した張郃を見失った張飛は頭を即座に切り替えて、この決定的な勝利を我がものとするために、諸軍を統率して凄まじい勢いで進撃した。


 張郃が本軍にいなかったために、砦に籠っていた残存部隊は、狭い間道を進んで奇襲をかけた張飛軍に蹂躙されることとなった。


 狭い道で前後の連携が取れなかった張郃軍は、山々を右往左往しながら張飛の部将たちに各個撃破されていった。それは目を覆いたくなるほどの敗北だった。


「押せっ、押せえッ。いまこそ、張郃軍を粉砕する時だ!」


 張飛は敵勢を斬り伏せ、追い散らし、揉みに揉んで粉々に砕いた。山野の戦いでは、やはり身軽な蜀兵に軍配が上がる。借りを返すとばかりに、雷銅が、范彊や張達が弩を狂ったように乱射して魏兵を討ち取って野山から谷に叩き落した。


 さらに、陳到が精鋭である白毦兵を指揮して、張郃軍に異様な損亡を強いる。

 馬謖や向寵も、それぞれ鍛えられた実直な指揮で小部隊を有効に活用して、並み居る魏兵を揉み潰した。


 ――なんという勝利だ。これはまさに、荊州での戦い以来だ。


 曹操を討ち取った当陽での戦いは終盤では諸葛亮の遠大な火計で、大軍勢をまるで揉み消すかのようにすり潰した。


 馬謖は、小隊を連動させながら、まず距離を取って弓矢で充分に痛めつけ、動きが鈍くなったところで歩兵を活用した。常に有利な地形で戦えるように配慮し、兵卒たちは結果を出した。これらはすべて陳到のもとで学んだ実践的な兵術だった。


 馬謖の兵術の向上も凄かったが、向寵はそれ以上だった。生まれつき持った才能というのだろうか。少年といってもよい年ごろの向寵は、このころすでに名将としての片鱗を見せ始めていた。手足のように部隊を扱って、山肌の張郃軍を次々に撃破していくさまは、いっそ痛快である。


 ――まあ、俺は俺でできることをやるだけさ。

 若きふたりの将が、覚醒しつつある時、張飛は宕渠、蒙頭、盪石の三つの砦をすべて焼き払って勝利の凱歌を上げていた。


「どんなもんでい。張郃だろうがなんだろうが、この天下無双の張飛さまにはかなわねえってことよ」


 張郃の率いていた三万の軍勢はあとかたもなく壊滅していた。蛇矛を右手に逃げ散る張郃軍を眺めながら張飛は明け始めた水色に染まった天に向かい、呵々大笑した。


 ――まさか、馬鹿な、こんなことが。

 張郃は激しい敗北に打ちのめされ、よろよろと立木にもたれかかり、なんとか逃げ延びていた。甲はあちこちに切り傷がつき、張郃の顔色は死人のように蒼ざめていた。







「三万を超える兵が、このようなことに」

 張郃はあまりに激しい張飛の追撃から逃れるために、馬を乗り棄てて、間道を通り、たった十数人の供回りと共に落ちのびていた。喉の渇きが激しかった。だが、共にいる兵の誰しも着の身着のままで、武器すら持っていないものが半数だった。張郃は、魂魄が尽きたといった体で、本隊のいる南鄭への道のりを重い足取りで進んでいた。


 ――張飛め、この仮は必ずや万倍にして返してみせる。


 いまや、張郃を支えるのは張飛に対する怒りと復讐の思いだけであった。


 張郃の瞳。

 火が宿る。


 消えかけていた炎が、わずかに揺らめき、徐々に、徐々に勢いを取り戻しつつあった。


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