第045回「張飛と張郃」

 劉備の軍勢よりも素早く動いたのは張郃である。渠水を船団で下り、板楯蛮の敗兵を糾合して、三万余になった張郃は江州城を狙って南進している。


 ――予想以上の進撃速度だ。


「主よ、ここは巴西の益徳どのを差し向けて要所を守りましょう」


 劉備は孔明の進言に耳を傾けると閬中を守っていた張飛を安漢から南にある墊江へ移動させ、さらにそこから北上させ張郃を迎撃させた。両軍は宕渠南方にて対峙した。


「なるほど、あれが小生意気な張郃って野郎か」


 蛇矛を担いだ張飛は自慢の虎髭をぶるりと震わせて興奮し切っている。張郃の率いる兵力は三万、対する張飛は一万である。冷静に考えれば分が悪いが、いままでの小所帯であり、古参である張飛ですら率いる兵は多くても千騎かそこらであった。


 しかし、いまの張飛は万余を率いる一軍の将となり、決して張郃の部隊に見劣りはしない錬磨を積んで来たと自信を持って言える。


 装備は中原の兵に劣ったとしても、鍛えに鍛え抜いた自分の兵卒は魏軍に負けるなどとは微塵も思わない張飛なのである。


 ――考えて見りゃあ、こうして曹軍と同等の兵で真っ向からやり合うのは初めてだ。


「となりゃあ、まずは最初が肝心よ。テメェら、この張飛さまについて来やがれ。曹操のいないいまとなっちゃあ、せがれの曹丕などどうというこたぁねえんだ!」


 そう言うと張飛は自慢の騎兵三千を率いると烈火の如く燃え盛って突撃した。張飛の愛馬も主人の怒りが乗り移ったように凄まじい勢いで突っ込んでゆく。


 張飛は蛇矛を小枝のように軽々と振るいながら、向かい来る敵を紙切れのように蹴散らし出した。ぶおん、と異様な風切り音が立つと蛇矛が揺れてたちまちに兵士の七、八人が吹っ飛んだ。


「おらあっ、おらあっ! 死にたいやつはどいつだ! この蛇矛の餌食にしてくれん」


 張郃は前衛がたちまち崩され、腕自慢の部隊長たちが右往左往しているところを目の当たりにして、ようやく目の前に化け物のような存在が現れたことを知った。巨大な矛を振り回しながら、獅子のように吠え立てて自軍を縦横無尽に引き裂いている男がいる。


「あれが張飛か。噂には聞いていたが、なんとも凄まじき男よ。だが、儂とて武芸には自信がある。これ以上好きにはさせん」


 そう言うと張郃は槍を手にして、青鹿毛の愛馬を駆けさせると、まっしぐらに張飛へと向かって行った。


「貴様が我が大国を侵す劉備の家来か。我こそは魏国にその人ありと知られた張儁乂なり。おとなしく縛に付くなら、命だけは許して遣わすぞ!」


「なにをしゃらくせぇこと言ってやがんだ。ここは戦場だぜ。言いたいことがあるなら、その得物で聞きやがれ」


 言うが早いか張飛は蛇矛を頭上で旋回させるといきなり叩きつけて来た。張郃は素早く槍の柄を頭上にかざして、その一撃を防御する。


 しかし、蛇矛の一撃を受けた瞬間、あまりの衝撃に全身が震え、目の前が真っ白になった。


 ――なんという馬鹿力だ。


 張郃は無論のこと腕力に自信を持っている。魏国では許褚には劣るが、ほかの将と比べれば五本の指に入るであろう剛力だと密かに自信があった。


 が、この張飛の膂力といったらどうだ。一撃一撃が必殺で、どうにか防ぐことはできても、とてもではないが反撃する暇というものがない。


 張飛が虎髭を震わせて突きを放つと、全身の血が泡立って汗という汗がドッと毛穴から流れ落ちる。


 ――とにかく、反撃せねば。


 吠えながら張郃は突きを放つが、張飛はたやすく槍の穂先を叩くと攻撃をいなしてしまう。


 ――ば、化け物か、こやつは。


 張飛は蛇矛を振るうと、喜悦の表情で意味の取れぬ奇声をその都度発するのだ。まるで人間を相手にしているようではない。獣だ、魔獣だ。怪物だ。気組みで呑まれた。こうなるとすでに張郃が一騎打ちで張飛に勝つことは不可能である。


 戦場で臆病風に吹かれることは死を意味すると、千軍万馬の張郃は嫌というほど知っていた。


 だが、人間からの規格外である劉備軍の超人兵器ともいう張飛を前に、冷静さは消え去っていた。


 そんな張郃の耳に聞こえたのは周囲を囲む山野から轟き渡る凄まじい鬨の声だった。


「まさか――」


 自軍はすでに包囲されているのではないだろうか。振り返れば、山のあちこちには蜀の旗がひしめくように立っている。将帥である張郃が惑乱してしまえば、全軍は統制を失い組織立って行動することは不可能だ。


「待てい張郃。その首置いてゆけ」


 張郃自身が背後から魔人のように追って来る張飛に背を向け逃げ出しているのだ。これを見た兵卒たちに踏み止まって戦えと命じるほうが酷というものだ。


「やむを得ん。みなの者、退け、退くのだっ」


 総大将が逃げろと命じているのだ。兵卒たちは、武具や旗指物を投げ捨てて一目散にその場から遁走する。


 こうなると、張飛軍は犬が獲物を追うように魏軍の後背に咬みつき、牙を立てた。

 

 追撃戦ほど敵を倒せる状況はない。

 ここぞとばかりに、張飛軍は勇み立って張郃軍を撃破する。


「ここまで来れば」


 張郃がひと息つこうと馬を止めると、それを見計らったかのように周囲の山々から雷鳴のような鼓の音が鳴り響いた。


「そらっ、敵将張郃の首を上げるのは我らが部隊よっ」


 戟を引っ提げて五千の兵を引き連れて目の前に現れ出たのは、蜀の常勝将軍と謳われた雷銅である。


 雷銅は張郃の歩兵に戟の激しい一撃を浴びせながら、さらに追い立てた。みるみるうちに張郃軍は精気を失ってバタバタと倒れてゆく。


 張郃も必死で抵抗するが、前後に張飛と雷銅の攻撃を加えられ、全軍は四分五裂した。張郃はかろうじて血路を開くと、宕渠の砦に逃げ込み、固く門を閉ざすと完全に沈黙した。


「ふーい、このくらいにしておくか」


 張飛が額の汗を拭うころ、山野にはところどころに魏軍の骸が転がっていた。その数は二千。兵力は張郃のほうが三倍に近かった。一度の戦闘における死者数は限りなく大きい。張飛軍の戦意の高さが窺えた。


「にしてもたわいない。魏の名将と聞いていたがこんなもんかよ」


 張郃の見た旗は、無論張飛が仕掛けた疑兵である。

 あらかじめ、張飛は范彊と張達に数百の兵を与えて、山野に潜ませ、合図と共に旗を立てるように指示していたのだ。


「ふんっ、どんなもんでえ。この益徳さまは頭を使うのも得意ってことよ」


 この時の張飛はまさに将として絶頂期を迎えていた。蜀に入ってからは、厳顔を降伏させ、さらには時間の合間を縫って名士たちから初等であるが書の講義を受けるほどに張飛の包容力は成熟していた。


 若いころには、書物など弱虫が読むものであると、端から馬鹿にして遠ざけていたが、四十を過ぎたころから人聞きに書物の内容を聞くと「確かにそうだ」と張飛なりにうなずけるものがあったのだろう。


 劉備などは、張飛が兵法書に顔を突っ込んで貪るように読んでいるところを見かけ、諸葛亮に対して「益徳はまさか病気なのでは」と心配したほどである。


 やはり、張飛が好んで読んだのは孫子であり、内容の難しいところは文官をひっ捕まえて大略を聞く程度であったが、やはり勉学の力とは凄まじいものである。張飛は張飛なりに孫子の理解できる場所をおのれで噛み砕き、実地で成功させる力が備わっていた。


 ――張飛、侮りがたし。


 緒戦で申し開きのできない大敗北をした張郃は、宕渠とうきょの砦に閉じ籠り、ただひたすら打って出ることはせずに防御に徹している。


 やむを得ず、張飛が高山に陣を張ると、宕渠の砦には張郃が優雅に音楽を奏で、帷幕の属将と共に酒を酌み交わしている様子がありありと映った。


「この野郎。戦場に来てなにを考えてやがるんだ。やる気がねえのかよ」


 張飛が丈八の蛇矛を手にして怒ってみても、相手が門を閉じて守っていれば手の打ちようがない。


「おい、范彊と張達。あのふざけた野郎をどうにかして引きずり出してこい!」


 命じられた両将は一手を率いて、張郃の砦前に達すると、兵卒を並べて悪罵の限りを尽くすが、なんら反応がない。


「くそ、張達。張郃はもはや戦意などないのだろう。この上は、我らだけで攻め入ってみごと敵将の首を上げてやろうではないか」


「おう、そいつは面白い」


 范彊と張達は手勢千五百を率いると、急な山肌を攀じ登って宕渠の門前にある柵に取りつき、声を荒げて突撃の命を下した。


「それっ。張郃は怯えの虫に取りつかれているぞ。一気に攻め上って、臆病者の首をあげてみせい!」


 范彊の叱咤に歩兵たちは息せき切って駆け上がる。ほぼ同時に、戦鼓が激しく打ち鳴らされ、砦から無数の矢が空も黒く染めんばかりに発射された。数千の矢が待ってましたとばかりに、范彊たちの軍に襲いかかる。歩兵たちは、立ちどころに針鼠のようになり、あたりは地獄と化した。急斜面を転がり落ちて、怒りと恐怖の入り混じった声が山肌を埋め尽くした。


「それっ。蜀の山猿たちを打ち殺せ」


 張郃の属将である高祚が弩を連射しながら、ドッと攻めかかって来た。


「うぐうっ」


 范彊は右肩に矢を受けると、もんどり打って倒れた。いまぞ、とばかりに高祚の兵が群がるが張達自ら矛を振るって范彊の救出に八面六臂の活躍を見せた。張達が矛を振るって、向かい来る高祚の兵を次々に刺し殺すと、勢いがわずかに削がれた。


「張達、儂のことはよい。とっとと逃げよ……」


「馬鹿を言うな。友であるそなたを見捨てて我だけが逃げられるわけなかろうに。いいか、ここが地の底ではあるまい。命さえあれば再起は遂げられる。決して、あきらめるな。劉公はどんなときでもあきらめなかったぞ!」


「張達……」


 范彊は友に肩を抱かれながら男泣きに泣いた。張達は片手で迫る敵兵を薙ぎ倒すと、地上になんとか逃げ戻り自軍を立て直すと、迎撃の陣を敷いた。


 ――さあ、今度はそっちが狩られる番だ。


 勢いに乗って高祚が数百の兵と斜面を駆け下りて来る。張達は横列に敷いた射手五百余から、お返しだとばかりに高祚に向かって矢を放った。


 今度は魏軍が逃げ惑う番であった。張達が骨も砕けんばかりに矛を旋回させて高祚の兵を追い散らす。あたりには血みどろになって叢に伏す兵がみるみるうちに増えた。


 高祚もさすがに地に下りたことを後悔したのか、素早く撤兵した。この時の蜀軍の死者は八百を超えた。対する魏軍の死者は百余である。


 張飛は怒り狂うが、張郃の陣は再び門に閂をかけて、戦おうとしない。再び両軍は睨み合いを続けるよりほかはなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る