第041回「寿春の攻防」

 周瑜の率いる十万の兵が目前に迫っている。満寵は陳矯の敗退でいまや半数となった四千の兵をいかに効率的に機能させるか、智嚢を振り絞って策を練った。


 ――やはり、野戦で決着を着けるよりほかはない。

 現在の合肥新城は過去の位置より北西に移動しているため、周瑜の率いる水軍の機動力をわずかに削いでいる。


 とはいえ、手持ちの兵が少な過ぎた。北にある寿春の兵も三万余程度である。とてもいますぐ合肥新城を守る満寵のために、兵力を分け与えられる余裕はない。


 かといって、悠長に籠城をしていれば、済む問題ではない。呉軍の士気はいつになく高いのだ。異常と言えるほどに。曹丕の大軍が到着するのを待っている間に、城は間違いなく落ちてしまう。


「どうすれば――」

 満寵の口から無意識のうちに言葉が這い出た。咄嗟に顔を上げる。責任を感じている陳矯の表情は暗い。満寵が智謀の士であるといっても、奇矯な策には高確率の死がつきまとう。かといって、正攻法で防ぐには互いの差があり過ぎるのだ。


「季弼どの。これから行う作戦で私は十中八九死ぬだろう。その時は死力を尽くして城を守るのは貴卿しかおらぬのだが、引き受けてもらえるだろうか」


 陳矯の顔に赤みが差した。同時に、いままで黙していた呂虔が場にそぐわぬやけに明るい声を張った。


「ふたりとも。私がいることを忘れてはいないだろうね」

 呂虔は字を子恪といい、任城郡出身の人である。曹操が兗州にいる時にたぐいまれなる胆略の持ち主であると見いだされ、従事に取り立てられた豪傑である。


 呂虔が泰山太守であった時に、袁紹が任命した郭祖や公孫犢が山に立て籠もって暴虐を働いた。その時も、呂虔は恩愛と信義を示して彼らを降伏させ、そのうちでも屈強な者を選抜して、精鋭部隊を編成して活躍し、その驍勇を世に知らしめた。


 そして、済南の黄巾賊徐和が地方を劫略すると夏侯淵と協力してこれを討ち破り、また東萊の賊である李条らを討伐して功績を立てた。


「よし、ならば呂君は私と共に出撃してもらおう。この地で必ず東呉の賊に一撃を食らわせ、まずはその鋭気を削ぐのだ」


 満寵は決死隊五百を選抜すると呂虔と共にこれを率いた。周瑜が駐屯する地域に接近すると、呂虔に兵を伏せさせておき、自らは二百の騎兵を率いて静々と駒の足並みをそろえてゆっくりと接近した。


 周瑜の斥候は、満寵の部隊の足取りがあまりに堂々としているので、味方の部隊であると思い込み、特に警戒をしなかった。十万の兵が軒を連ねる軍営に、わずか数百の敵兵が乗り込んでくるとは思わなかったのか――。


 満寵は一切の攻撃を受けることなく、中央部まで侵入することに成功した。


「さあ、敵は油断している。存分に叩きのめせ」

 ――敵の意表を衝く。


 魏の騎馬隊が一斉に駆け出して、あたり構わず矢を放つと、たちまちに周瑜の軍は大混乱に陥った。


 時刻は早朝である。陽が上がり切らぬうちが勝負と満寵が陣を駆け回り、ころあいを見て脱出した。素早い動きだ。図体が大きいだけに周瑜の軍勢はまともに追うこともできず、ただ混乱に拍車がかかった。


 この時は、満寵の奇襲による被害よりも呉軍は同士討ちのほうがはるかに死傷者が大きかった。しかし、周瑜はすぐさま敵襲であると見抜くと、陣を立て直した。即座に指揮を執って満寵の騎馬隊を追わせた。


 追撃の将は太史慈である。特別製の矛を手にした太史慈は、凄まじい速度で騎兵を駆けさせると、たちまち満寵の小部隊を補足した。


「敵は小勢ぞ。まとめて討ち取ってしまえ」


 が、これも満寵の策であった。折しも、太史慈の数千の騎兵とそれに続く万余の歩兵は、丈の異常に長い荒野に誘い込まれていた。


 満寵は、合肥新城に駐屯してからこの地をつぶさに調べ上げ、土地の古老による情報から、高確率で強風が吹くことを予想していた。


 ――風よ、吹け。


 天運を祈る。ほかに満寵を救うものはいないのだ。満寵は事前に叢のあちこちに魚油や硫黄をバラ撒き、強烈な可燃物質を形成させていた。あとは、天候のみだ。


 満寵は整然と火攻を行った。

 現在地すら判然としない太史慈の部隊に向かって、左右から火箭が打ち込まれた。

 自然の力は人間では制御できない部分がある。放たれた火は、あっという間に業火に変化して太史慈軍を両手で抑え込むようにして、逃がさない。


 至るところに、火、火、火、がほとばしった。


 運が悪いことに、陣頭で指揮を執っていた太史慈の身体には無数の火箭が突き刺さり、それらはあっという間に燃え広がって豪傑の身体を包み込んだ。太史慈は、死の淵でなにを見たのだろうか。英雄の巨体はたちまちに業火に呑み込まれ、赤く、弾けた。


 ――このくらいでよい。

 満寵が引き揚げたあとには、大火によって赤々と燃える海が地平線を覆い尽くさんばかりに燃え広がっていた。ちなみにこの火は収まるまで、五日間を擁し、太史慈は遺体すら残らぬほど燃やし尽くされ、灰となった。


 この結果に周瑜は激怒した。だが、彼には揚州統一という孫策以来の悲願がある。九江郡と廬江郡はいまだ魏国の手中にある。冷静さを失わず、合肥新城の守りが固いとわかると、周瑜は敢えて「離」を選んだ。


「堅城を無理に落とす必要はない。寿春さえ先に落としてしまえば、満寵は先細りにならずにはいられぬだろう」


 周瑜は、韓当、丁奉、孫皎と言った手練れの将と二万の兵を合肥の抑えに置くと、本隊八万を率いて北上した。


 中途、曹丕に仕える諸豪族たちを破竹の勢いで駆逐しながら、凄まじい速度で動き続ける周瑜軍は無敵だった。


 寿春の城を守るは、漢中方面に転属になった曹洪に代わった、蒋済、温恢、閻行である。蒋済は以前にも曹洪の援軍として派遣された幕僚であり、温恢は劉馥が死去したあと、揚州刺史に任命され、蒋済の補佐につけられた将である。


「やはり許都からの援軍が来るまで籠城を続けるしかないのではないか」

 蒋済の消極的意見に温恢は眉間に皴を寄せて考え込む。満寵の行った必死の奇襲により寿春はなんとか四万ほどに兵を増員していたが、天を衝くばかりの勢いである周瑜軍相手ではやはり旗色が悪い。


「蒋将軍のおっしゃられることはもっともであるが、籠城するにしても、やはり城外の孫賊に一撃を食らわせてからのほうが城兵の士気を保つには必要不可欠であると思われます」


 それまで沈黙を守っていた異形の大男が威を持った力強い言葉で意見を述べた。男の名は閻行、字を彦明という金城出身の将である。


 閻行は若きころ、韓遂に下級の将校として仕えていた。韓遂が馬騰と争った時、閻行は西涼の猛者として当時から知られていた馬超と一騎打ちを行った。その際に、閻行は馬超を突き刺して怪我を負わせて矛をへし折った。さらには折れた矛で馬超の首筋を死ぬほど殴打して瀕死の状態に陥らせた猛将である。


 馬超と韓遂が曹丕に敗れたあと、反旗を翻して魏に降伏した閻行は呉の将と戦ったことはなかった。


「彦明よ。涼州生まれのそなたは知らぬであろうが、周瑜は江東においてその名を知らぬ者がおらぬ名将ぞ。舐めてかかると痛い目に合う」


 が、閻行は蒋済の言葉を笑い飛ばすと、巨木のように太い二の腕を強く打って丈夫そうな真っ白い歯を光らせた。


「なあに、水の上では呉のやつらにかないませぬが、馬を駆けさせれば我ら涼州騎士の相手ではござりませぬ。私がひとっ走りして、孫権の首をただちにあげてみせましょう」


 ――それほど自信があるというのなら。

 蒋済は出陣の許可を出した。閻行は自慢の騎馬隊五千を前衛にして、後衛に歩兵三万を引き連れると、堂々と城外に出撃した。


 周瑜軍の先鋒は甘寧と蒋欽である。両者とも、孫権が誇る呉の勇将である。閻行は、迫り来る二万を超える敵勢を見ると、嬉しさのあまりに激しい武者震いで全身を痙攣させた。


「ふふ、久方ぶりの合戦よ。呉の鼠ども。せいぜい楽しませてもらうとするぞ」


 閻行は、甘寧と蒋欽が陣形を組み終わる前に突っ込んだ。さすがに大言を吐くだけあって、その騎兵の動きは中原の兵にはない迅速なものだった。閻行が指揮する騎兵は鍛え抜かれた精鋭である。


「さあ、一気に突き崩すぞ!」


 閻行は自ら陣頭に立つと、騎兵を小さくまとめて一気に蒋欽に突っ込んだ。ギュッと濃縮された閻行の騎馬隊の突貫力は並々ならぬものだった。豆腐を錐で貫くように、蒋欽の前陣はほとんど揉み合う暇もなく、あっという間に突き崩された。


 猛将で知られる馬超を手玉に取った閻行の武勇はとびきりである。自ら得物である長矛を引っ提げて、右に左に動く。たちまちに、五、六名の首が宙に跳ね上がった。


 閻行はさも楽しそうに雄叫びを上げながら矛を巧みに操って、馬上の敵兵を次々に刺し殺した。これを見た蒋欽は旗本たちの制止を振り切って、槍をしごきながら名乗りを上げた。


「我が陣で好き勝手やりおって。そこなる者は名のある将と見た。この蒋欽が討ち取って、寿春陥落の前祝いにしてやるぞ!」


「おう、呉にも男がいたと知って安心したぞ。我こそは、西涼の閻行なり。いざ、尋常に勝負せよ」


「応ッ!」

 蒋欽は眦を決すると、槍を頭上で旋回させながら駒を寄せた。閻行は長矛を構えると、疾風のような速度で駆け違った。ギンッ、と派手な金属音が鳴って両者の刃が打ち鳴らされる。閻行は馬首を返すと、喉元から獣のような吠え声を上げて、さらに前に出た。


「りゃあっ、せいっ!」

 閻行の怒号。雷鳴のように戦場に轟き渡った。両将は馬の脚を止めてその場で打ち合いを始める。閻行が長矛を膂力に任せて振り下ろすと、蔣欽は自在に槍を振り回して弾き返す。


 一歩も譲らぬ豪傑同志の一騎討ちに、周囲の兵卒たちは、斬り合いをやめてこの戦いの行方を見守った。両者の武芸はほぼ拮抗している。


 が、膂力に優る閻行のほうが時間と共に優勢になり、蒋欽は次第に押され始めた。


「ぬおうりゃあっ!」

「くっ!」


 わずかな乱れを見て取った閻行が頭上から長矛を叩きつけた。蔣欽はかろうじて槍の柄でそれを受け止めたが、不意に馬が激しく嘶いて棹立ちになった。蒋欽は身体の均衡を崩して、馬上から落下した。本来ならば、ここで決着がつく。閻行が地面にいる蔣欽を刺し殺してもなんら問題はなかった。蒋欽が死を覚悟し、顔面を引き攣らせた。


 しかし、閻行は構えた長矛をピタリと止めると厳かに言った。

「貴卿は馬が悪かったな。勝負は、またいずれ」


 偶然落馬した蒋欽を仕留めることは美学に反するのか、閻行はそれだけ言うと馬首を翻して自軍に戻ってゆく。固唾をのんで見守っていた魏軍からワッと歓声が上がった。


 古代の戦闘は指揮官の勇猛さによって左右されることもしばしである。これにより、閻行軍の士気は青天井に上がった。


 閻行は戦闘を続けながら、巧みに歩兵を操って、甘寧と蒋欽の軍を完全に退けた。それから隊伍を整え、悠々と城に戻っていった。


 ――寿春城にもはや人なしと思ったが、そうではないようだ。

 と思った周瑜は甘寧と蒋欽を咎めることなく、先鋒を朱治に代えて敢えてゆるゆると進撃した。


 呉軍の歩みを遅いと感じた閻行は不敵にも二万の歩兵を引き連れると堂々と城から打って出た。


 先鋒の朱治は孫堅、孫策、孫権と三代に渡って呉に仕えた宿将である。閻行が騎兵を率いて猛烈な勢いで攻撃を開始した。


「慌てるな。敵は寡兵ぞ。儂の指示通りやれば負けることはない」

 孫堅に従軍して董卓とも戦ったことのある朱治は、閻行の騎兵がどれほどに剽悍であっても、防御を続ければその鋭気が殺がれることを経験で知っていた。


 朱治の読み通り、閻行は押しても引いても、まるきりたじろがない防備の厚さにいままでとの違いを嗅ぎ取り、動揺の色を隠せなかった。


 ――まるで分厚い綿に針を刺しているようだ。


「戦は呼吸よ。まだまだ若いな」

 朱治にとって、長年自分に仕えてきた兵は手足のようなものである。これが、昨日今日配属された兵卒では真似できない阿吽の呼吸の成せる業であった。朱治はしばらく閻行の攻撃を凌いでいると、徐々に部隊を後退させ始めた。それは、周瑜の策の一環であったが、退いているにもかかわらず、軍を崩壊させない制御の仕方はみごとの一語に尽きた。


 閻行は、次第に焦れ出して、虚を見て突撃させる予定であった予備の騎馬隊を前に出した。


 朱治は下がりながらも、重装歩兵で騎兵の突進を食い止めながらも合図を待った。待つということは、戦場では難しい。朱治の率いた兵は三万余で、閻行が逃げずに立ち向かって来れるだろうギリギリの数を配置してあった。多すぎても喰いつかず、少な過ぎれば閻行の突進で陣は崩壊していただろう。


 が、結局は周瑜の作戦勝ちだった。

 ――ここまで来れば申し分ないな。


「いまだ、雑魚が網にかかったぞ。一斉に引き絞れ」


 気づけば閻行は周瑜の伏兵に左右を囲まれていた。左右のなだらかな丘の向こうに控えていた、凌統と呂範の兵が突撃太鼓を打ち鳴らしながら一気に突撃を始めた。それは、漁師の網に魚がかかったかのような熟練した巧みさだった。


 雨のような矢が閻行の騎馬隊に左右から降りかかると、兵卒は激しい混乱に陥った。いまのいままで、押している、勝っていると思われた状態から不意に攻撃を受けたのだ。続けて、下がっていた朱治が反転して逆襲に移った。


 朱治の部隊。それまでの精気を失ったかのような動きとはまるで違い、死人が突如として息を吹き返したようないきいきとした俊敏さである。


 閻行の軍は挟撃されると、なんとか背後に退こうと陣を整えだすが、後方に突如として「呂」の旗印が現れ、それを阻止した。孫呉の誇る勇将呂蒙である。


「それ、一気に押し包んで討ち取ってしまえ」

 剣を引っ提げて呂蒙自ら先頭で指揮を執っている。背後から痛烈に咬みつかれた閻行の軍は、瞬く間に崩壊した。


「くそっ、なんたることだ!」

 閻行は呂蒙の陣から放たれる異様な矢の数にたじろいだ。閻行も負けじと弩隊から矢を放つが、所持する数が違い過ぎた。


 騎兵による速度を生かした突貫が持ち味の涼州軍も足を止めてしまえば木偶も同然だ。さらには、左右から壁のような凌統と呂範の軍が圧迫して来る。閻行は長矛を旋回させながら降りかかる矢を払い落とし、屈辱と怒りで顔を真っ赤に染めた。


 すでに大勢は決した。


 いくら稀代の猛将といえど閻行ひとりでできることなどたかが知れている。それでも馬を操ることが巧みな閻行は少ない旗本と共になんとか城に逃げ延びることはできた。


 だが、呉軍の猛攻を受けた閻行の軍は五千余を超える屍を野に晒すことになった。降兵も数千を超える。周瑜の策で寿春の防御能力は著しく低下した。


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