第042回「周瑜の死」
「これでよい、援軍がなければ寿春はそのうち落とせる」
次の日から、周瑜は寿春を蟻一匹出る隙間もないくらいにぐるりと包囲した。敢えての正攻法である。
周瑜の猛攻が始まった。水戦ほど陸戦は得意ではないと思われている周瑜であるが、どうして城攻めも堂に入ったものだ。基本に忠実に、城壁にはしごをかけて、兵卒を叱咤し魏軍を休ませない。圧倒的に呉軍のほうが兵力が優っているというのに、城兵は頑強な抵抗を見せた。そして、閻行は時々、城門を開くと数百の精鋭騎兵をもって打って出た。
――面倒な男だな。
兵を指揮しながら周瑜は眉を顰めた。ひとりの豪傑が勇を奮っても所詮大勢は変わらない。それでも、軍の先頭に立ち長矛を振るう閻行の武勇はひときわ輝いていた。
それに油断していたというわけではないが、閻行の騎兵は時折、分厚くした陣営を幾つも食い破って周瑜の本営に近づいたことがある。その時、たまたま流れ矢が雨のように降り、運悪く周瑜の脇腹を傷つけた。
「なあに、このようなものはかすり傷よ」
特に気にした風でもなく、周瑜は高楼を立てると、城壁に寄せて巨大な弩を据えつけ城内に打ち込んだ。巨大な矢は、城兵を次々射殺するが、それでも抵抗は止まない。しばらくすると、戦は膠着状態に陥った。ふっ、と気が抜けたわけでもないだろうが、周瑜は急に床に臥すようになる。
――矢に毒は塗られていなかったはずだが。
主将の原因不明の病に呉の陣営へ動揺が走る。が、周瑜はまったく起きれないというわけでもない。三日に一度は軍議にもきちんと参加する。指示は明確で、軍としての作戦に遺漏はない。それでも、あきらかに寝付く前とは様子がおかしかった。
「大都督、無理をしないでください。私たちだけでも城は落とせます」
攻囲の途中、呂蒙が周瑜の寝付いている帷幕へ供も連れずにひっそりと訪れた。手の中には孫権からの書簡があった。孫権も周瑜の心配をして、一度建業に戻るほうがいいと気遣いの文章が見られた。周瑜は床から身体を起こすと、蒼ざめた表情で呂蒙を見返した。
「それはならぬ。あと一歩なのだ。ここで我が退けば必ず魏軍は勢いを盛り返す。それに、これ以上時間をかければ西にいる大軍がここまで押し寄せてこよう。これは根競べなのだよ」
呂蒙は表情こそ変えなかったが、その眼には悲しみがありありと宿っていた。周瑜はふっと薄く笑うと、呂蒙を退出させると甲を着て、顔には化粧を施し、平素と変わらぬ様子で再び攻城に励む諸将を督励に赴いた。
この周瑜の鬼気が乗り移ったのだろうか、寿春の城はまもなく落ちた。城壁には呉の旗がところ狭しと並び立ち、周囲の諸豪族は争って従属のために軍営に軒を連ねた。
温恢は、城が落ちても数百の兵を伴って必死で抵抗したが、やがて力尽きた。そして甘寧によって捕斬された。
閻行と蒋済はわずかな兵と共に城を落ち延び、北に向かった。また、合肥新城も寿春という大都市が落ちたことにより、ほどなく落ちた。満寵たちは、呉軍に捕獲されず、なんとか城を落ち延びた。
周瑜の手勢は、まもなく魏軍が守る群治所の陰陵をはじめとした諸県を制圧して、九江郡は完全に孫権の領有となった。
――やったか。
寿春が落ちて、呉軍が大兵を各要所に込めると、さすがの曹丕も不利を悟ったか、州境の兵を退かせた。孫権は周瑜の勝報を使者から聞くと大きな顎を揺らして破顔した。
「ついに、ついに儂はやったぞ。父上も、兄上でもできなかったことをやり遂げたのだ」
孫権が揚州を統一したことは歴史的に大きい。交通の要所であり、常に周囲からの攻撃に身を晒さねばならぬ土地ではあるもの、得た利は途方もなく大きかった。孫権は天下争覇の第一歩に踏み出したことで、空を浮遊するような心持ちで、それから数日間は異様なほどに機嫌がよく、群臣を戸惑わせた。
だが、運命は皮肉なものである。
周瑜は怪我の具合が悪化し、帰途の途中で急な病により、死去した。
時に建安十五年(二一〇)七月のことである。享年三十六歳と若すぎる死であった。
「天は我を滅ぼすというのか」
孫権は周瑜が帰ると喪服を着けて棺にすがり哀哭し、その激しい悲しみ方に左右に侍る者たちは心を打たれ、涙を流さぬ者はいなかった。
もともと周瑜は孫策からは友人としての待遇を受け、太妃(孫堅の呉夫人)は孫権に兄として仕えるよう命じていた。
そのころ、孫権の位は将軍であり、そのもとにいる部将の孫権に対しする礼は簡略的なものであった。
しかし、周瑜が率先して丁重な礼を取ると、彼らも臣下として礼節を守るようになった。
周瑜はおおらかな性格で度量があり、優れた戦術眼と同時に広い戦略的視野にほとばしる智謀を具え、さらに多くの人々の心をつかんでいたが、唯一、程普とは仲が悪かった。程普は孫堅に仕えて以来の古参であり、自分が年長であることから周瑜を侮辱した。
しかし、周瑜は身を低くして下に出て、決して逆らおうとしなかった。程普はのちに周瑜に心服し、親しむと同時にその才能と人格を尊重するようになり、人々に
「周公瑾どのと交わっていると、あたかも芳醇な美酒を飲んだように、自らが酔ってしまったことに気づかないのだ」と言った。
当時の人々は、周瑜が謙譲により程普を心服させた例として、このことを挙げていた。
――周瑜が逝ったのか。
諸葛亮は呉に弔問の使者を出すと、身の内に湧き起こる激しい動揺に耐え切れず、諸将が集まる議場であるというのに、その場で膝を突きそうになった。
「どうしたのだ孔明。なにか、気分でも悪いのか」
劉備が蒼ざめたままの諸葛亮を気遣って声をかけた。諸葛亮は、周囲の景色が歪んでいるように見えていたが、劉備の声を聞いた途端、霧が晴れた。
「いえ、いささか周公瑾の訃報に驚いていたのです。まさか、と」
「確かに、呉の周瑜と言えばその名声は名高いですが、いまだ若かったはずです。軍師どのよりも、いくらか上であったくらいでは」
法正が諸葛亮を気遣って顔を覗き込んできた。諸葛亮は羽扇でわずかに顔を隠すと「外の空気を吸って来る」旨だけを告げて、議場を出た。
――やはり運命は変えられないのか。
周瑜が死去したのも、ちょうど同じ年であったと諸葛亮は記憶している。と、なると自分が働けるのはあと二十年余りかもしれない。幸か不幸か龐統は雒県で命だけを拾ったが、傷ついた身体では戦場に出て縦横に軍の指揮を執るということは望めないだろう。
――法正の動向も気になる。
この年、蜀郡太守、揚武将軍に任ぜられた法正も扱いが難しかった。法正は前世と同様に、わずかな恩も過大に返し、そしてほんのちょっとした恨みも必ず報復し、かつて自分を非難した人間を法に基づかず独自の権限で次々に殺害していた。益州前部司馬の費詩が、法正のあまりに驕った行動を見咎めて諸葛亮に報告したことも前世と同じ動きである。
費詩は
「法正は蜀郡においてあまりに好き勝手をやりすぎています。将軍は、劉主に言上なさり、彼の刑罰及び恩賞の権限を抑えるべきです」
と言った。
諸葛亮は
「主君は公安におられた時、北方では曹魏の強大さに怯え、東方では孫権に圧迫に気がねし、常に心安らげる場所はなかった。このように進退ままならぬ時、法孝直は劉主を補佐して天高く舞い上がらせ、二度と他者の制約を受けぬように尽力してくれたのだ。私がどうして法正の思いのままに振舞ってはならぬと禁止できようか」
「ですが……」
正義感の強い費詩は劉備のもとで絶大な権力を持つ諸葛亮ですらどうにもならぬとわかると、憤懣やる方ならぬ様子で引き下がった。
が、諸葛亮はこの時点ですでに知っていた。法正は、ただ、個人的な感情で人を排除しているわけではない。法正は、現在の劉備政権に反抗する者たちを、政治的方針から粛清しているのだ。荊州名士の代表格が諸葛亮であるならば、益州名士の代表格は法正である。益州の統治に地方名士や豪族の協力がなければ上手くいかないのは当然である。法正の軍事能力は天下統一には欠かせない能力であるが、同時に猛毒でもあった。
――上手く使いこなせぬ場合には、王朝経営の負担になりかねない。
深く、思い悩み歩いていると諸葛亮が独自に使役している食客が書簡を携えて庭に控えていた。彼らが主に調査しているのは益州の経済情報に、諸豪族の動向である。法正は諸葛亮の読み通り、劉備の政権運営に従順でない、あるいは将来的に立ち塞がるであろう力のある者たちを独自に探り当て処罰していた。
――やはり、蜀の経済力は思ったほど豊かではない。
曹丕の領有する中原に比べれば、人口も少なく従って産出する食料もこれからの遠征を思えば心細すぎた。
その晩、諸葛亮は夕餉を終えたあと、劉備に呼び出されて余人を交えず、久方ぶりにふたりきりで酒を酌み交わし、主従の仲を深めるために四方山話に耽った。
このところ、劉備は常に上機嫌である。思えば、二年前までは兵力は数千程度であり、領有する土地は寸土もない男が諸葛亮という男を得たおかげで、宿敵といっていい曹操を討ち、トントン拍子で二州を併呑するまでになっていたのだ。
新野にいたころは、劉備に仕える幕僚は諸葛亮を含めて十人足らず。頼みになる将は関羽、張飛、趙雲程度であったが、いまや、人材は雲のように集まり自然と政治が流れるようにひとつの組織が組み上がっていた。
「思えば、私はそなたに会えたことが幸運であった」
「は、しかし、主よ。喜んでばかりはいられませぬぞ。孫権は周瑜を失いましたが、とうとう難攻不落と思われた合肥の城を落とし、揚州を統一しました。曹丕も、我らの喉仏である漢中に、夏侯淵と張郃という並々ならぬ猛将を駐屯させて、我らが蜀を虎視眈々と狙っています。我らが益州を手に入れたとはいえ、三軍を編成し直すにはやはり時間がかかります。ご油断めされるな」
「それはわかっている。しかし、遠征するに必要なのはやはり食料であるか」
「曹操に比べれば曹丕の能力は恐れるほどではありませぬが、その旗下の将校や幕僚は一流ぞろいです。我らが蜀とは厚みが違いましょう。これからも、漢王朝にかつての輝きを取り戻すには苦難の連続でしょうが、我らは必ずやり遂げねばなりません」
「うむ、孔明の言うとおりだ。気を抜くことはできぬな。しかし、漢中か。我らが軍勢を集めて決戦となれば、曹丕も黙っておるまい」
「私が試算しても、曹丕の持つ軍勢は四十万をくだりますまい。そのうち、領内の治安のため駐屯させる十万を割り引いても、我らと孫権を同時に相手にできる兵力です。いまは、東に気が向いているようですが、準備が整えば一気に攻め寄せてくるでしょう」
「どの程度だろうか……」
「二十万」
諸葛亮は即座に劉備のつぶやきに応じた。
劉備は杯を机に置くとわずかに顔色を変えた。
「二十万とは。曹操が荊州を攻撃した時も多いのか」
「揚州の淮北を失ったとはいえ、涼州を完全に領有して関中の諸豪族のほとんどを支配下に置き、いま、張魯を下して漢中の兵、およそ五万余を得ております。私が二十万と言ったのは、控えめです。ただ、それ以上となると曹丕も兵糧の問題で一度には動かせぬでしょうが」
「だが、どうしたらよいものか。なんとか益州の兵を鍛え、物資を都合する猶予が欲しいものだが……」
「ここはひとつ荊州の関将軍に動いてもらうしかありますまい」
「雲長か。そういえば、もう二年ほど顔を合わせておらぬが……」
「樊襄の兵を北進させ曹丕の目を逸らさせましょう。南陽の宛には曹仁が駐屯しておりますが、これと互角にやり合えるのは髭どのしかおりますまい」
「うむ、孔明の言うとおり、ここは雲長にひと汗かいてもらうしかないな」
劉備と諸葛亮の意見は一致すると、すぐさま荊州に使者を送り、関羽に北上して南陽郡の諸県を攻め取るよう指示を出した。
関羽は主命を受けると、胸のほとんど覆う黒々とした長い髭を揺らして、その相貌に鋭気をみなぎらせた。
建安十五年(二一〇)の関羽は劉備より一歳上の五十一歳であるが、筋金の塊のような腕は、太く、強く、衰えるどころか輝きを増している。
関羽の面貌には働き盛りの漢である自信と力が横溢していた。
――よし、義兄者をひとつ驚かせる働きをみせてやろう。
呉でもっとも油断のならない将である周瑜は病没している。荊州南部の守りは徐庶がいる限り不安はない。兵力や軍需物資が足りなければ、江陵や公安から補充の利く余裕があるのだ。
荊州はこの一年ほどの休養で、兵力・物資共に蓄えられていた。
関羽は、自ら樊襄の兵三万を率いると、ゆったりとした歩みで軍を進発させた。
威風堂々とした関羽のもとに、鍛え抜かれた精鋭がそろい粛々と北に向かっている。
荊州北部に戦雲が再び近づいていた。
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