第040回「孫権の決意」

 ――虞翻はこちらが交換条件を出さなかったことを蔑んでおったな。なんとも底の浅い男よ。


 諸葛亮が孫権の申し出を快く受けたのは、劉備にとって常に好意的に振舞ってくれた魯粛に対する礼であった。


 ――でなければ、呉の連中はすぐに荊州を狙うであろうな。


 揚州と荊州は隣り合っており、曹丕の力が強大ないまは、両国が表立って争うことは好ましくないのだ。そのためには多少の譲歩も必要であると、諸葛亮は考えていた。


 益州の地はいまだ定まっておらず、軍の配置をみだりに動かすことは難しい。益州の兵力のうち幾らかを荊州に補充することは考えたが、漢中にいる夏侯淵や張郃を思えば、備えを薄めるわけにもいかなかった。


 現実的には荊州からの曹丕勢力圏における派兵となる。となれば、動くのは襄樊に駐屯する関羽か、江夏太守の李厳のどちらかが豫州に攻め込む駒となる。


 ――宛城には曹仁がおり、関羽を下手に動かせば南進を招きかねぬ。


「適任者は李正方しかおらぬか」

 諸葛亮は江夏で曹丕と孫権に備える李厳のことを思った。李厳は、劉備が曹操を荊州で討ったことで、前世とは違い早い時期に臣下に連なった男である。


 ――正方のことは我がよく知っておるわ。

 李厳は確かに有能である。武芸に長け、戦術に優れており兵の進退も蜀では数えるほどの上位に入るが、その質は粘りがない。昇り調子の時は誰よりも有能さを発揮するが、一旦旗色が悪くなると堪え性がなく、その優れた知恵を危難や失敗を糊塗することに使いかねない危険性があった。


 現に、前世では諸葛亮は漢中に出陣する際に、永安に護軍の陳到を駐留させて、江州に陣営を移させ李厳に一切を統括させた。


 五度にわたる北伐では、軍需輸送のすべてを任せていた。諸葛亮が祁山で魏軍と対峙している際に、長雨で輸送が上手くいかなかった。この失敗を李厳は諸葛亮が勝手に軍を撤退させたとして、自らの罪を免れようとする愚かな行為に至るほどであった。


 だが、万余の兵を統率させて曹丕とまともにぶつからず、状況を的確に判断して兵卒を進退させることができる将となるとさすがに限られてくる。


 ――こたびは李正方を頼ってみるか。

 諸葛亮は劉備の許可を得ると、命令書を送って李厳に軍を率いさせて豫州の境に派兵を行った。


 江夏にわずかな守備兵を残しながら二万の兵が汝南郡の境である安陽に到達した。これには汝南太守である賈逵も素早く反応して軍を発した。


 李厳はすみやかに軍営を築くと、それ以上は目前に迫る賈逵の反応を刺激せぬようにぴたりと動きを止めた。


「なあに、これは端から牽制でしかない。まともに戦って兵を損ずるだけ孫権を利するだけとなる。よいか、みなの者。軍営を固く守り、相手の出方だけを見よ。もし、攻撃されたならば陣を厚くして、決して打って出てはならぬ」


 諸葛亮の書簡から、こういった細々とした戦略を読み取ることにかけて李厳は有能である。


 事実、賈逵の佐将である劉劭が挑発を試みるも李厳は殻に閉じこもったまま、なんら反応を見せなかった。


 孫権の求めに応じた劉備の活動にどれほどの意味があったかはわからないが、曹丕も豫州をガラ空きにして、孫権のみに力を注ぐことはさすがにできなかったのだろう。


 わずかに圧力が減じたと感じたのか、孫権は曹丕の支配地である徐州の広陵郡に、諸葛瑾と賀斉の二将を送り、すかさず領城を次々に攻め取らせた。


 諸葛瑾は言わずと知れた諸葛亮の兄である。賀斉は山越討伐に名を上げた呉の名将である。なぜか三国志演義では存在そのものがまったく黙殺されている、この人物に触れてみることにしよう。


 賀斉は字を公苗といい会稽郡の山陰出身である。若くして郡の役人になり、剡県の長の代行を務めた。県の役人であった斯従は任侠を好み好んで悪事を働いていた。


 賀斉が彼を取り締まろうとすると、主簿の役人が

「斯従は県内の豪族で山越たちからも慕われており、彼を処罰すると次の日には叛徒の一味が押し寄せてまいりますよ」


 と忠告したが、このようなことを賀斉のような男に言うこと自体が逆効果である。賀斉は猛烈に激怒すると、すぐさま斯従を斬って捨てた。


 三国志にはよくあるパターンであり、豪傑は自分よりも目立つ豪傑や悪を嫌うのだ。


 賀斉が斯従を斬ると、案の定、叛徒の一味は親分の仇だとばかりに千人以上の一族郎党を集めて県の役所に攻め寄せた。この時代の叛徒たちは気に入らないと、すぐさま役場に捻じ込む体がある。それだけ役人に不満があったのだろう。


 この時代の県の役所は城そのものだ。賀斉は素早く役人や住民を指揮して、このならず者軍団をあっさり撃退してしまうところに超人力を感じてしまう。


 普段から賀斉は地域住民との潤滑なコミュニケーションが取れており、人心を掌握していたのだろう。


 とにかくこのこと(叛徒虐殺)があって、賀斉の威声は近隣の山越に鳴り響いた。

 建安元年(一九六)に孫策が太守として会稽郡を治めることになると、賀斉は孝廉に推挙された。


 この当時、孫策に追い出された前会稽太守の王朗が東治に逃げ込んでおり候官の長である商升は王朗のために孫策討伐の兵を興した。


 孫策は南部都尉の韓晏に兵を指揮させて討伐に向かわせると、代わりに賀斉を永寧県の長に任じた。韓晏が商升に打ち破られると、賀斉は代わって南部都尉の職務にあたった。


 この賀斉を恐れた商升は使者を送って盟約を結びたいと申し出てきた。これを機会に道理を説いて賀斉は商升を降伏させたが、孫策を敵とする頭目の張雅や詹彊はこれを嫌って商升を殺した。張雅は無上将軍を、詹彊は会稽太守を名乗り徹底抗戦の構えを示したが賀斉は軍をまとめて休養させ時を待った。


 やがて、張雅は娘婿の何雄と勢力を争うようになり内部分裂が始まり力が落ちたのを見計らって一度の戦いで散々に打ち破り、その勇名を馳せた。


 その後、建安、漢興、南平の地で反乱が起こると賀斉は建安まで兵を進めてそこに都尉の役所を置いた。


 不服従民の洪名、洪進、苑御、呉免、華当ら五人が余汗まで大兵を進めてきた時に、賀斉は叛徒の兵が多く官兵が少ないことから、深く攻め込めばあとが続かず退路を断たれてしまうことを恐れて、松陽県の長である丁蕃に命じ余汗に留まり敵の動きに備えさせた。


 が、丁蕃はもともと賀斉の同輩で、配下として指図を受けることが面白くなく(個人的感情で動くやつ)命令を断った。


 賀斉は当然の如く丁蕃を斬った。これにより全軍が震え上がり、戦闘のなかで賀斉が洪名を斬ると、残りの四名は残らず降伏した。


 さらに建安十三年(二〇八)に賀斉は威武中郎将に昇進すると、丹陽、黟、歙を討伐した。


 黟の頭目である陳僕や祖山は大兵を集めると賀斉に対抗するため四面が切り立った林歴山に立て籠もった。この林歴山は高山で道は険しく、叛徒たちが高みから石を落とすので賀斉の軍は攻めあぐねた。


 軍をその場に留めて膠着状態が続くと、部将や兵士に厭戦気分が蔓延する。これを危険と見た賀斉は自ら身軽で敏捷な兵を募り、彼らに鉄製の弋(ハーケンのようなもの)を持たせて、叛徒たちが見張りを置いていない場所から、山を攀じ登り道をつくった。


 先に上へと登った兵は布を垂らして兵を引っ張り上げて登頂に成功した。兵たちはさらに四方へと散らばり、一斉に太鼓や角笛を吹き鳴らさせて奇襲を行った。叛徒たちは大混乱に陥り、その結果として陳僕らを討ち滅ぼすことに成功した。


 また、賀斉は山越を討伐する際に、叛徒たちのなかで禁術(ものの力の発動を封じる呪術?)をよくする者がおり、戦闘中に官軍が刀を抜くことができず、弓矢を放っても反転して来るという不思議な光景に頭を悩ませたことがあった(嘘っぽい)。


 賀斉はこのことを観察すると


「金属でも刃のあるものは封じられた。敵の摩訶不思議な術は我らの兵器を封じることができるが、刃のないものを封じることはできないに違いない」


 という慧眼さを発揮して、堅い木材でこん棒をつくり、これを力のある精兵五千人に持たせて突撃隊として、攻撃を行った。


 敵方の叛徒は禁術に優れた者が仲間にいるので油断しており、まったく備えがなかったので官軍のこん棒軍団によってボコボコにされて数万人が殴り殺されるという間抜けな結果に終わっている。


 このように賀斉は異民族殺戮のスペシャリストとして様々なおもしろエピソードに満ちあふれている。兵術の士気も練達しており、呉においては指折りの名将であるが、いかんせん三国争覇の本筋にあまり絡んで来なかったので演義の作者には使いづらいと嫌われて存在そのものを黙殺された悲運の将でもある。


 この賀斉と諸葛瑾は、広陵に攻め込んだが、かつて曹操が住民を強制的に移住させており、守備兵どころか生きものの気配があまりなく、不毛の地であった。


 とりあえず孫権は、曹丕の牽制としてある程度の威を示せたので満足したのだろう。わずかな兵を郡に置くと、この両将は建業に引きあげている。


「これは合肥における最後の戦いとする」


 劉備の援軍で豫州の兵を牽制できた孫権はいよいよ乾坤一擲の勝負に出た。先年より淮北の肥沃な穀倉地帯を争って、孫権は多大な犠牲を払ってきた。合肥を取ったり取られたりの繰り返しを続けても、被害は一州の大部分を保持している孫権のほうが大きく、やがては先細りするだろう。


 孫権は十万の兵を動員した。これは領内の守備をほとんど残さず、劉備の背信やいまだ心服しない山越が一斉蜂起すれば、孫呉政権自体が瓦解しかねないほどの危うい賭けであった。


 無論、軍の総指揮を執るのは呉の英傑周瑜公瑾その人である。彼を除いて曹魏の大軍を撃破しうる将はいないだろう。


 この時ばかりは孫権に利があったのか、寿春を中心とする守備態勢は、以前に曹洪がその任についていた時とは一変して、極めて脆弱な状態であった。


 これには、曹丕が東よりも西の攻略に心血を注いでいたこともあり、寿春には三万の兵士かおらず、合肥新城には満寵率いる八千ほどの兵しか籠められていなかった。


 ――合肥を落とすのはいまをおいてない。

 この洪水のような孫権の大軍を前にして、満寵、呂虔、陳矯の三将は動揺を隠せなかった。


 要衝ではあっても普通は費用対効果を考えて、都市から離れた城には大兵を置かないのが常識である。そもそも、十万を超える兵が動く時には、それなりに情報が伝えられるので、攻撃を受ける側も準備をする猶予期間があるのだが、それだけ孫権が今回における合肥攻撃には並々ならぬ覚悟と素早さがあった。


「古来より城に籠って合戦に打ち勝った例はございません。我らは野戦を行って孫権の軍を撃ち砕くのが良策であると思われます」


 満寵は陳矯の言葉がもっともだと思いながらも主将として、即座にうなずくことができなかった。これは方針の相違ではなく、単純に孫権に対する城の防備や迎撃の準備が整っていなかったからである。


「季弼どの。貴卿の言は至極もっともであるが、いまだ合肥の城は準備ができていない。幸か不幸か、孫権の軍が合肥に達するまでは、数日の猶予がある。我は、先年、呉の将である凌統を撃退してから、このあたりの地形をつぶさに調べ習熟している。すべての準備が整うまでは、出撃をこらえていただけないか」


「それは思い違いというものぞ。揚武将軍どの。孫賊はいま、濡須口に大挙して船を繋げており、我らの攻撃がないと油断し切っている。ここは夜陰に乗じて一撃を食らわせれば大勝間違いなしと存ずる。敵の鋭意を削いで合肥の城に籠り、許都から援軍が来るのを待つのが、将としての務めであると我は確信している」


 陳矯は字を季弼といい、広陵郡東陽県出身の人である。かつては徐州の陳登に仕えてその名を馳せ、広陵郡が孫権に攻められた時は陳登に命じられて曹操に直接救援を頼みにゆき、その際に


「我が郡は小さくはありますが、地形上有利な国です。もし、曹公より救援を賜り、外藩にしていただければ呉の人は計画をくじかれ、徐州は永久に安定するでしょう。そして曹公の武勇は遠方まで轟き、仁愛は豊かに流れまして、まだ服従しない国はそろって参り、徳を高め威光を養うことになりましょう。これこそ帝王の業というものです」


 曹操は堂々とした態度と言説で論じる陳矯を評価し、自らのもとに留めおこうとしたが、陳登に忠節を貫き、徐州に帰った。


 曹操はそこで大軍を編成して救援に赴かせると、孫権の軍は退いた。すかさず陳登は精鋭を引き連れ、陳矯もそれに従って孫権の隙を狙い、数多くの伏兵を設けて逃走する敵を追撃し、足腰が立たぬように散々に打ち破った。


 陳矯は兵術も練達しており、勇気があり判断力は優れている。彼は確信をもって満寵に有無を言わせず、兵四千を自ら率いて城を出た。


 だが、相手は揚州一と言われる抜群の戦術眼を持った周公瑾が相手である。陳矯の夜襲部隊は濡須口に近づく前に、周瑜の索敵によって発見され戦闘になった。周瑜は孫堅以来の宿将である程普や韓当といった老練な豪傑を先鋒に据えて陳矯を迎え撃った。


 ――愚かな。この周瑜を侮ったか。


 たちまちに周瑜の軍から激しい矢が放たれた。寡兵である陳矯は防備を厚くして、なんとか耐え凌ごうとした。


 しかし後方に、呉でも指折りの猛将である朱治、丁奉、太史慈の騎馬隊が俊敏に回り退路を断たれると激しい動揺が軍を侵した。


「さあ、一気に討ち取ってしまえ」

 周瑜の合図のもと、歩兵を率いた凌統が先年の借りを返すぞとばかりに凄まじい勢いで寄せてゆく。みるみるうちに陳矯の兵は戦場に骸を晒し、朝日が昇るころには、もはや数百程度しか残っていなかった。


 このままでは全滅やむなしと陳矯が覚悟した瞬間、陳矯の信頼篤い部将のひとりが騎兵をひとつに小さくまとめ、膨大な周瑜の軍に錐のように揉み込みながら捨て身の突貫を敢行して血路を開いた。


「いまのうちにお逃げなされ」

 陳矯は命を賭して自分を救ってくれた部将に感謝しつつ、這う這うの体で合肥の城に向かって逃げ去った。城にたどり着いたとき、なんとか逃げ帰れたのはわずか十数騎のみであり、手傷を負わぬ者はひとりもいなかった。


 陳矯の自責の念は強い。

 貴重な兵を半減させてしまったのだ。


 もはや城には、初期の半数である四千程度の兵士かおらず、しかも彼らは出撃して散っていった精鋭に比べれば弱兵と言ってもよい練度の者たちばかりである。


 ――なんの面目あってこの命を長らえようか。


 満寵にことの次第を報告すると、陳矯はすぐさま自決するつもりであった。

 しかし、それは満寵にあっさり見抜かれて懐に忍ばせた短刀を取り上げられた。


「馬鹿なことを。勝敗は兵家の常。それに私があなたを積極的に止めなかったのは、密かにこの策が成功するだろうと踏んでいたからだ。あなたに罪があるのならば、この私にも罪がある。だが、本格的な戦いが始まる前に、城将がふたりもそろって死ねば、それは国家の損失であり、忠を欠く。孫権にも笑われるだけであろう。敗れた過去は忘れ去り、いまはどうやってこの城を守るか共に知恵をこらして思案しようではないか」


 陳矯は満寵の心ある説得に感涙すると、その場に跪き、身命を賭して合肥の城を守り抜くと天に誓うのだった。


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