第039回「援軍要請」

 漢中を完全に制圧した曹丕は鄴に戻ってほどなく天子の命によって魏公の爵位から魏王に昇進した。


 それまで劉氏以外に認められなかった王位を与えられたことは歴史の転換点であったといえよう。曹丕は、天子と同じ旌旗の使用や冠の着用を認められた。


 時に、漢の建安十五年(二一〇)七月のことである。冀州の内部に魏国という曹一族独自の王国をつくり上げたのである。


 曹丕は絶頂であった。いまや、曹操が生きていたころ以上に支配領土は拡大している。荊州で討たれた兵力は、曹丕の幕僚の多大な努力によって、いまや歩騎四十万を超えている。


 無論のこと、武具兵糧のことを考えれば、これだけ大量の兵を一度に動かせるはずもない。


 しかし、曹丕はいまだ揚州一州のみを保持する孫権と、荊州及び益州の大部分しか有さない劉備と同時に戦っても撃退できる勢力を築き上げていた。


 曹丕の魏王就任には、劉備を補佐する諸葛亮や孫権の耳にも当然届いた。漢王朝をあくまで補佐する立場の劉備も合肥を巡って苦汁を呑まされ続けた孫権も曹丕が王号を唱えることに、同意などできようはずもない。しかし、正面切って異を唱えて全力でぶつかるほど準備は整っていなかった。


 そして、漢朝復興を目指す劉備も曹丕の僭称には怒りしかなかった。


 ――曹丕めが。

 劉備は歯噛みして悔しがった。漢中は肥沃な土地を持ち、劉備もこの場所を欲していたからだ。それが、曹丕によって奪われたことは、蜀一国の命運を決めるほどの重大事である。漢中を曹丕によって先に取られたことは喉仏に刃の切っ先を常に突きつけられているようなものである。


 だが、劉備は益州を劉璋から攻略して日が浅く、官民はいまだ完全に服しているとはいえず、内治も取りかかりはじめたばかりで動きようがない。 


 蜀の総兵力は荊州を除いて十二万を超えるほどに拡充していたが、これらを使えるようにするにはやはり軍の整備と訓練が必要であった。このまま兵を統率しても、曹丕に打ち勝つことは不可能である。


 また、劉備の入蜀もすべての人間に歓呼の声で迎えられたわけではない。劉璋に長年仕えていた官僚や豪族のほとんどは軍事力に勝る劉備にそのまま仕えたのだが、内心は忸怩たる思いがあったのだろう。


 正史において費詩は群臣が劉備に帝号を称させようとした時、上訴して強烈に反対した。費詩だけではなく、従事の李邈も劉備に反感を持っていた。


 李邈は劉備に行酒を命じられると

「振威将軍(劉璋)は劉豫洲を御一族と考えたからこそ賊(張魯)の討伐を委任されました。それなのに劉公は討賊の功を挙げるよりも先に振威将軍を滅ぼしてしまわれた。私は将軍が我が州を奪われたことは甚だよろしくないと存じます」

 と責め立てた。


 役人は劉備の面子のために李邈を殺そうとしたが、諸葛亮のとりなしでなんとか一命をとりとめている。


 だというのに、李邈は諸葛亮が五丈原で死去すると、後主劉禅に

「諸葛亮は強力な兵を擁して狼虎のように機を窺っておりました。臣下が辺境で力を持つのは危険であると私は危惧していました。いま、諸葛亮が死去し、これにより御一族は安泰を得られて、西戎も安息を得ました。これはすべての人にとって慶賀すべきところです」

 と述べた。


 李邈は劉禅が諸葛亮のことをどれだけ慕っていたか、まったく理解していなかったのだろう。この言葉は劉禅を激怒させて、たちまち李邈は誅殺された。恩を仇で返して、無意味に命を縮めたもっとも愚かな典型である。


 広漢太守の張存は劉備に従って荊州から入蜀したが、軍事の統率にあたっていた龐統になにか含むことがあったのだろうか、とにかく彼は龐統を嫌っていた。


 龐統が雒県で矢にあたって戦死し、それを劉備が悲しんでいる時に言わなくてもいいことを述べている。


「龐統は忠義を尽くして惜しむべき者であっても、大雅の道にから外れておりましたので、当然の結果でございます」


 これを聞いた劉備は激怒して、張存の免官を命じた。

 当然の結果である。殺されないだけましである。


 そして孫権も劉備が益州を手に入れたことを当然ながら苦々しく思っていた。孫権は激しく魏と争い、一時は合肥の城を落として寿春に迫る勢いであったが、その矛先は満寵に止められた感がある。


 その矢先に、曹丕の魏王就任である。淮北を巡っての合戦は拡大の一途をたどっている。多大な戦費を浪費して、得るものはいまだなく、将兵の死傷者は増え、このまま続けば豪族の集合体のまとめ役でしかない孫権の地位も危ういと言える。


 ――このままでは、我ひとり歴史に置いていかれる。

 曹丕とは豊かな穀倉地帯を巡って幾度も干戈をまじえたが、いまだ熟した果実を収穫できていないもどかしさがある。


 さらにいえば、孫権はやがて荊州と益州を領有して天下を二分し、曹丕と対決することを夢見ていたのだが、それらは劉備に先を越す形で奪われてしまった。


 無論、現実は違う。荊州と益州。これら二州とも最初から孫権のものではないが、そう思い込んでいたことは事実であり、狙っていた獲物を奪われた屈辱感は強かった。


 この孫権を常に諫めていたのは魯粛である。

 ――どうせならば、一旦、曹丕と結び荊州を攻めるのはどうだろうか。

 そんな考えが孫権の頭に浮かんだ。


 劉備の勢力が急速に伸びたのを面白くないと思っているのは自分だけではないだろう。


 漢中を取ったことで曹丕は劉備の益州と国境の隣り合わせになった。孫権は、己が内にふと浮かんだ考えを、たまたま出仕していた魯粛だけにそっと打ち明けた。


 が、孫権の想像よりもはるかに強硬な態度で魯粛はこの案に異を唱えた。


「いま、曹丕は漢王朝から帝位を盗むための準備として、天子を我が意のままに動かし魏王を名乗りました。天下の人は、曹丕の傍若無人に振舞うさまを眉を顰めて見ております。いま、我らが欲している淮北の地は曹賊が盤踞しております。これを討とうとする将軍の姿を江東の心ある士は忠臣として見守っておりますが、いま、一時の安寧のために曹賊と結べば、将軍が天下の誹りを免れることはありますまい。


 合肥には、賊の将である満寵が籠っていますが、いま、揚州の大丈夫たちの忠義心を励ましてこれを討てば、残りの土地も自ずから孫将軍の手に転がり落ちてくるでしょう。確かに、劉玄徳は油断のならない人物でありますが、現在、益州を得て勢いに乗る彼らを討つことは、卵を持って岩を断つほどに難しいと存じます。


 ここは、益州に使者を出し、よろしく我らとの誼を深めて、荊州の戦の時に兵糧を分け与えた恩を思い出させ、豫州に兵を出させるほうが易きことです。荊楚の地から豫州を攻めさせて曹丕の力を削ぎ、その隙を狙い三軍を叱咤し、寿春を目指せば大事は必ず成し遂げられましょう」


 ――なるほど。劉備と争うよりも、荊州の力を使い曹丕の力を分散させるほうが両者を敵にするよりも確かに賢い。


 孫権は一時の情に流されることの愚かさを自覚すると、深く魯粛の聡明さに謝した。


「許せ、子敬よ。我は怒りと焦りで再びあやまちを繰り返すところであった。劉備を敵に回すよりも、荊州の力を使い立ち回るほうがはるかに有益だ。ところで劉備への使者は誰を遣わせば最良であろうか」


「は、私が思うに虞翻がよろしいかと」

 魯粛の言葉に孫権はあからさまに眉を歪めて顔を引き攣らせた。


「仲翔か。あやつに務まると思うのか」

「この任は彼が適任であるかと」


「しかし、仲翔か。やつは酒癖が悪い上に狂直(あまりに率直過ぎる性格)だ。ほかに誰か適任者がおるであろう」


 魯粛が孫権を冷たい目でジッと睨んだ。孫権も人のことをどうこう言えるほど綺麗な酒の飲み方をする男ではなかった。というか、酒乱の類である。自覚があったのか、孫権は魯粛からぷいと視線を逸らすと、椅子にもたれかかりながら長く息を吐き出した。


「――致し方ない。子敬がそこまで言うのなら、今回ばかりはそなたの顔を立てよう。誰かあるか。虞翻をここに呼べ」


 孫権があきらめたように言うと魯粛は口角を上げた。近侍はすぐさま虞翻に向かって議場に赴くよう部屋を出て行った。


 虞翻は字を仲翔といい、会稽郡余姚の出身である。はじめは功曹として王朗に仕えていた。孫策が会稽に軍を進めてきた際に、父親の喪に服していたが王朗が虞翻のところへ自分のほうから出向こうとすると、喪服を脱ぎ捨て役所に入り、孫策の矛先をさけて避難するように諫言したが用いられなかった。


 王朗が孫策を防ごうと戦ったが、敗れ、逃げて船に海上に出た。虞翻は王朗の勧めもあって、その後孫策に仕えることとなる。


 虞翻は若い時から学問を好み、気位が高かった。十二歳の時に彼の兄を訪ねた人があったが、虞翻にはあいさつをしなかった。自尊心の高い虞翻はこれを許せなかったののだろうか、あとでその客人に手紙を送り


「私は、琥珀は腐った塵芥を引きつけず、磁石は曲がった針を受けつけないと聞いております。あなたがこちらにおいでになりながらお訪ねをいただけなかったのも不思議ではありません」


 と自らの見解を伝えた。


 手紙をもらった人物はその内容の非凡さに驚き、以後虞翻の評判は高くなった。


 また、虞翻は孫策が狩猟を好み、野天に馬を駆け巡らせることを第一にしていたことを、不意の暗殺の危険性を説いてたびたび諫めたが、これは聞き入れられなかった。


 虞翻は政治にあかるく文の人であると思われがちだが、たびたび孫策の遠征に従軍して功を上げている。さらに武芸にも秀でていたらしく、このようなエピソードも残っている。


 孫策が山越を討伐してその首領を斬ると、側近の者全員に手分けして賊徒たちを追わせた。あとに残った孫策がひとりで馬を歩ませていると、山の中で虞翻にばったりはちあわせした。虞翻が側近の存在を訪ねると、孫策は


「みな、賊を追っていった」

 と言うので虞翻は


「それは危険でございます。将軍よ、急ぎ馬から降りてくださいませ。このあたりは草が深うございますから、突発的なことが起こると馬では急に逃げられませぬ。馬は手綱で牽かれ、弓矢を持たれて徒歩で行かれますように。私は矛が巧みなので先導をさせていただきます」 

 と告げ、狭い場所を抜けると孫策に騎乗するように言った。


「あなたには馬がないがどうするのだ」

 と孫策が訊ねると


「私は歩行が得意で一日に二百里(約八十キロ)歩くことができます。征伐に参加して以来、軍吏や兵卒たちに私にかなう者はございませんでした。試みに馬を駆けさせてごらんください。私は大股でついてゆけますよ」


 と言った。その後、孫策は無事配下の者たちを参集することができ、賊徒に襲われることはなかった。


 なるほど虞翻は健脚で矛も得意であったのだろう。一見、傲慢にさえ思える虞翻が徒歩で孫策を守ったのは、この江東の豪傑がそれだけ彼の心を掌握していたことに違いない事実である。また、虞翻は豫章の華歆を説得して無血開城させるなど弁舌も巧みで肝が据わっていた。


 その虞翻が蜀呉同盟の使者に選ばれた。

 益州の劉璋を倒した劉備の政権基盤はいまだ定まっておらず、諸葛亮が案じたようにはるかに強い国力を持つ曹丕と戦う準備はできていない。


 ――この任は我にしかできない。

 虞翻は曹操を斃した劉備を侮ることはなかった。さらにいえば、短期間で荊州の兵をまとめあげ、さらに半年とかからず益州を併呑した劉備の知恵袋とも言うべき諸葛亮に畏怖すら覚えていた。


 成都に到着した虞翻は劉備に会見すると、言葉巧みに両国が手を結ぶことの利を語った。虞翻の言葉には無駄な修辞がなく、直接的だった。


 端的に言えばかつて荊州で共に曹操と戦った時に、孫権が兵糧補給を行った借りを返してくれ、という類のものだった。


「孫将軍は現在合肥及び淮北を手中におさめるため曹丕と争っております。劉将軍におきましては、速やかに荊楚の強兵を用いて豫州の賊を討伐していただければ、これに優るよろこびはございません」


 劉備の群臣に囲まれての物おじしない虞翻の発言は身勝手そのものである。劉備が曹操と戦っている最中に、九江郡及び廬江郡を攻め取れなかったのは孫権の実力不足と言っていいだろう。


 が、劉備は事前に諸葛亮及び幕僚たちとの話し合いが済んでいたのか、孫権の希望は特に問題なく受け入れられることとなった。


「よろしい。孫将軍に劉備が承ったとご使者はよろしくお伝えくだされ」

 虞翻も話し合いは難航すると覚悟していたのか、この劉備の言葉は一瞬、意味が理解できない様子であった。わずかの間呆けた様子を見せた虞翻は、特に交換条件を持ち出さなかった劉備を善人とは見なかった。


 ――なんというお人好しよ。劉備は政治というものがわかっておらぬわ。


 喜悦の表情で呉に戻ってゆく虞翻の船を見送りながら諸葛亮は羽扇を使いつつ、脳裏にある地図を思い浮かべた。


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