第038回「張魯王国の終焉」

「それは早計かと存じます」

 曹丕の意見に否を投じたのは幕僚として陣に加わっていた劉曄である。


 劉曄は字を子揚といい、淮南郡成徳県の出身である。漢の光武帝の子阜陵王劉延の後裔であり、その系譜は劉備よりもはるかに確かであると言われていた。劉曄の父普、母脩は、渙と曄をもうけた。渙が九歳、劉曄が七歳の時、母は病気に苦しみ、臨終の時に劉曄兄弟に言い聞かせた。


「父の側近は人に取り入って悪事を引き起こす性質を持っています。我が身が死んだあと、この者が劉家を滅ぼすことは間違いありません。おまえたちが長じて、彼らを除くことができれば、わたしは思い残すことはないのです」


 と、遺言を残した。劉曄は母の言葉を片時も忘れずに、十三歳になると兄に

「亡き母のお言葉を実行しなければなりません」


 と伝えたが、兄は恐れおののき

「どうしてそのようなことができようか」


 と打ち震えるばかりであった。劉曄は兄の臆病さに半ば失望しながらも、すぐさま奥の部屋に入って、母が名指ししていた素行の悪い側近を自ら刺し殺した。それから劉曄は外に出て、母の墓前に遺言を実行したことを報告した。


 家中は劉曄の行ったことに仰天して、すぐさま兄である渙に報告した。兄は怒り、すぐさま人をやって劉曄を追いかけさせた。劉曄は帰宅するとすぐさま謝罪し、兄に向かって


「亡き母のご遺言です。お願いもせずに実行したことは罰は存分に受けます」

 といさぎよく言った。兄は、心中、劉曄を見どころがあると思い、結局のところ咎めることはなかった。


 やたらに古代中国の話では、幼少期の士大夫があっさりと人を殺す場面を善として描くが、思えば殺されたのは使用人で身分も低く、士大夫が家畜をしめるように殺害しても世間的には美談として語られる場面に現代人は違和感を覚えるが、それが時代というものなのだろうか。


 汝南の人物鑑定で知られる許劭は、劉曄をして時の君主を補佐する才能があると褒めているが、荀彧のことを思えば王佐の才を持つ者が魏の幕僚にはたくさんいたのだろう。


 このころ、揚州には軽はずみな男伊達や、狡知に長けた荒くれ者が多く、鄭宝、張多、許乾といった連中が多数の配下を抱えていた。


 なかでも、鄭宝はもっとも勇敢で決断力があり、多数の配下を抱えて地方に幅を利かせていた。いうなれば、私兵を持つ土地の顔役なのであろう。


 鄭宝は人民を追い立て長江の南に移動する際、劉曄が高貴な家柄であることを知り、彼を旗頭にしようとした。その時、劉曄は若干二十余歳でり、年長で実力のある鄭宝の提案を退ける力はまだなかった。


 同時期、曹操が揚州に使者を派遣し調査した際、劉曄は会いに出かけて当時の情勢を論じ、無理やり曹操についてゆき鄭宝から離脱するために粘り続けていた。


 そのおり、鄭宝は配下数百人を引き連れ牛と酒を持ち機嫌伺にやってきた、劉曄は鄭宝と室内で酒盛りをした。その折りに腹心に命じて鄭宝を斬らせるつもりであったが、かの者は酒嫌いでありシラフで酌人も斬りかかる機を逃していた。劉曄はやむを得ず、自ら佩刀を引き寄せると鄭宝を斬り殺し、首を取ると、軍に命令して


「曹公より命令がある。ジタバタする者があれば鄭宝と同罪だ」

 と言って、まんまと逃げおおせることに成功した。


 陣営には鄭宝の部下数千がいたが、劉曄は驚くべき胆力と弁舌で彼らを説き伏せて、自らの兵としてしまったが、のちに廬江太守の劉勲に預けてしまっている。


 また、曹操が寿春で数万人の部下を持つ廬江の陳策という山賊を討伐する際に、部隊長を派遣したが上手くいかなかった。


 弱気になった曹操は諸将に計ったが、みなが消極論を出したが、劉曄だけは

「陳策らこわっぱは騒乱につけ込んで要害に入り込み、互いに頼り合って強がっているだけのことです。つまり、爵位を与える命令や権威信頼によって服従しているわけではないのです。前回の討伐では、指揮者が部隊長で中原は平定されておりませんでした。なので、陳策らは要害に立て籠もり守る勇気があったのです。しかし、現在は中原は平定されおります。曹公におきましては、恩賞を掲げて降伏を呼びかけるようにして、大軍を向けて戦えば、彼らは自ら潰れることでしょう」


 断固として、賊たちを討つ気概を曹操に見せたのである。曹操は劉曄の言葉に笑みを浮かべながら「卿の発言は適切だ」といい、献策通り軍を発して陳策を打ち破った。


 劉曄は曹操の腹心のひとりで、常にそばに侍り、疑問があれば立て板に水を流すようによどみなく答え、常にその期待の応えた傑物である。


 その傑物の献策である。曹丕は劉曄の言葉に心を強くすると、撤退を頭から追い出し、陽平関を必ず落とすという気概のもとに諸将へと発破をかけた。


 事実、すでに曹丕のもとには張魯から降伏する旨の文書が届いていたが、その弟の張衛が陽平関を通さないという矛盾した状態に陥っていたのだ。


 が、曹丕が撤退の準備を行ったことはすべては無駄ではなかった。陽平関の張衛はわずかに油断を生じさせていたのだ。曹丕は高祚と解𢢼の二将に山岳を上らせて、陣営に攻撃を行わさせた。


 この時、高祚は張衛に夜襲を行おうとして、山岳を移動する際に、鹿の大群と出くわしてしまう。数千頭の鹿は恐怖に駆られて、異様な動きを見せた。それらは予期せぬ動きで張衛の陣営に駆け込みながら、ことごとく破壊するという事故を起こしてしまう。


「これぞ天祐よ。者ども、米賊を一気に屠ってしまえ」

 高祚はこの機に乗じて張衛の陣に攻撃を加えて、ついには楊任を追い詰め、その首を斬った。


 この時の夜襲の効果は絶大であった。

 張衛は、被害が驚くほど甚大ではなかったのに対して、強烈な恐怖を覚え、ついには軍を保てなくなり、陽平関を棄てて逃げ出すという行動を取ってしまった。


 そして運命の夜が明ける。

 つい昨日まで山上に翻っていた張衛の旗はことごとく、魏の旗に置き換わっていたのだった。


 曹丕は、夏侯惇と許褚を山上に派遣してつぶさに調べさせ、ついに陽平関にも張衛の誇る数万の兵がひとりもいないことを確認すると、自らが勝利したことを実感した。


 ――我、誤てり。

 張衛は退却の途中、激しい悔恨に襲われながら騎乗した馬の鞍を拳で殴り続けていた。


 一度は夏侯淵を敗退に追い込んだという事実が、張衛に傲慢さを植えつけ、そしてひとたび逆襲を受ければ支えきれない弱腰のもとになったのだ。


「張将軍、我らはまだ戦えます」

「そうです、五斗米道の火を消してはなりません」

「おまえたち……」


 ほとんど被害がなかっただけに、信者で構成された兵の士気は意外にも高かった。漢中一の要害である陽平関を棄てたいまとなっては、張魯のいる南鄭まで勢いに乗った曹丕軍はまっしぐらに向かって来るだろう。


 ――イチかバチか。ここが男の見せどころか。

 兵力に勝る曹丕軍を討つには、再び、信者たちを死兵として立ち向かわせ、なんとしてでもこの場で迎撃するしか勝ち目はなかった。張衛は兄である張魯が曹丕に向かって降伏文書を送っていることは知っていた。


「最期にひと花咲かせてみせるか」

 張衛は、残った三万の兵をふたつに分けた。前陣の一万を楊洪に、後陣の二万を張衛自ら率いて、ひろびろとした野が見渡せる小高い丘に営塁を築いた。


 ほどなくして、曹丕軍十万の先鋒が陽平関を出撃した。

 敵の先鋒は、旗印から張郃であることがわかった。


 張郃は字を儁乂といい、河間郡鄚県の出身である。漢の末期、募集に応じて黄巾を討伐し、軍の司馬となり韓馥に所属し、彼が破れると袁紹に仕えた。


 袁紹は張郃を校尉として、宿敵の公孫瓚を防がせた。曹操が袁紹と官渡で対峙した際に、袁紹は淳于瓊という将に輜重を指揮させて烏巣に貯蔵させた。曹操が、自ら兵を引き連れ烏巣を攻撃した時に、張郃は袁紹に


「曹公の兵は精鋭ですから、出撃すれば淳于瓊を打ち破るのは確実です。淳于瓊が破れれば兵糧は焼き払われ、袁将軍の事業は終わってしまいます。急ぎ、兵を引き連れ救援にゆけば、曹操を虜にできるでしょう」と進言した。


 が、袁紹の幕僚である郭図は

「張郃の計略は間違いです。救援を出すよりも曹操の本拠地を叩く方がマシというもの。情勢からいって、曹操は必ず本拠を守ろうと引き返すでしょう。これが救援を出さなくとも自然に解決する方法と言えるでしょう」と反論した。


 張郃は

「曹公の陣営は堅固ですから、それを攻撃しても短時間では陥とせないに違いありません。もし、淳于瓊が曹操に捕らえられれば、我々はすべて敵の捕虜になるのは間違いないでしょう」と強く言った。


 しかし結局のところ、袁紹は軽騎兵を出して申し訳程度に淳于瓊を救援しただけであり、これは歴史的に見て悪手であった。


 袁紹は郭図の策通り、重武装の歩兵を送り曹操の陣営を落とそうとしたが、陥落させることに失敗した。


 結果として、曹操は淳于瓊を打ち破り、烏巣の兵糧物資は残らず焼き払われ、袁紹の軍は官渡にて崩壊した。


 郭図は、自らの策が破れて張郃の言葉が正しかったことに面子を潰してしまい怒り狂い、讒言を行う。


「張郃は我が軍の敗北を小気味よく思っているのか、袁公に対して不遜な言葉を吐いております」


 この郭図の言葉は敗北の淵にいる袁紹の肺腑を抉った。理知的ではない袁紹が敗北の恨みもあって、張郃を罰することは目に見えていた。


 ――なんという愚かな男だ。これでは曹操に負けるのは自明の理というものよ。

 張郃が自分の身を守るために曹操に降伏したのは当然の結果である。


 人材マニアの曹操は張郃を得ると喜悦の表情で

「昔、伍子胥は早くに自覚しなかかったために自ら我が身を危険に陥れた。いま、君が我に仕えるのは、微子が殷を去り、韓信が漢に帰服したことと同様であろう」

 と言った。


 こうして張郃は曹操という真の主君に仕えることになる。張郃は編将軍に任命され都亭候に封じられた。曹操に従い、鄴を攻撃し渤海の袁譚を攻撃し、雍奴を包囲し打ち破った。


 この赫々たる武勲を持つ魏の名将が張衛の前に立ちはだかった。

 日の出と共に張衛と張郃は激突した。ここで敗北すれば文字通りあとがない。張衛は虎の子の騎兵を初手から余すことなくすべて投入して張郃の陣を破ろうと全力を振り絞った。


 しかし、楊洪の前陣はあっさりと撃破されると敗走状態に陥った。張衛は味方の不甲斐なさに顔を歪めると、騎兵を前に出した。ここからが本番である。


 だが、張郃は数千の弩兵を前方に配すると、臆することなく張衛の騎兵に向かって乱射した。


 天を覆うほどの矢が一斉に放たれて、それらは次々に張衛自慢の騎兵を射殺し、瞬く間に厚みを擦り減らせた。張衛は命知らずの歩兵を選別して、張郃の弩兵を破らんと突撃をかけさせた。


 しかし、張郃の精鋭は熟練者が多く、張衛の兵が接近する前にことごとく撃ち殺した。盾を揃えて歩兵は戟を構えて打って出る。


 が、放たれる弩の威力はこれまで張衛が受けたことのない威力で、次第に信者たちも意味のない突撃を渋るようになり、結果、軍の勢いは阻害されて弱体化した。


 ――馬鹿な、なぜここまで。我らはそこまで弱くないはずだ。

「ええい、怯むな。ここで敗れれば、我ら南鄭におわす師君にどの面下げて再びまみえることができるというか!」


 もはや総崩れと言ってもいい全軍の陣頭に立ち、張衛は声高に士気を鼓舞するが、いまや踏み止まって戦う兵の数は少なかった。


 潮が引くように、張衛の周囲にいた兵までもが後方に退いてゆく。張衛が青白い顔で戟を振るっていると、前方から威風堂々とした将が矛を手にして猛然と向かってきた。


「そこなるは漢中の将と見た。張魯はすでに我が軍に屈しているというのに、なぜそなたは降伏せぬのだ」


「愚かなことを申すな。我こそは、師君の弟ぞ。たとえ、全軍が曹丕に跪いても我だけは最後まで戦うに決まっておる」


「その意気やよし。ならば、雑兵に討たれるよりも、我が直々に貴公を討って進ぜよう」


「望むところよ! 我こそは漢中に知らぬ者のおらぬ張衛ぞ! 冥途の土産に我が名を覚えておけ!」


「おう、善き敵ぞ。我こそは行護軍将軍の夏侯淵。いざ、参る」


 張衛は戟を頭上に振りかざしながら馬腹を両腿で絞めつけ突っ込んだ。すれ違いざま夏侯淵に向かって勢いよく振り下ろした。殺った、と思った。


 しかし、次の瞬間、両手に激しい痺れを感じ、目が眩んだ。指先。戟はなかった。夏侯淵の矛によって弾き飛ばされたのだ。怒りよりも、恐怖が優った。気づけば前方に夏侯淵が迫っている。張衛はなにくそ、と歯を食いしばる。


 しかし夏侯淵の右手から無慈悲にも真っ白な光が放たれた。右肩が弾け飛んだのだと錯覚した。矛。夏侯淵の突きが張衛の肩を貫いていた。痛みが脳を貫く。世界が逆転する。頭からまっさかさまに地面に落ちた。


 喉元にぴたりと矛を突きつけられた。顔を上げる。当然と言った表情で夏侯淵が口元に余裕の笑みを刻んでいた。


「降伏せよ。そなたはまだまだ強くなれる」

 ――ああ、我は負けたのだ。


 軍の士気も武芸もまったくかなわない。だが、張衛はすべてをやり切った。不思議な充実感が全身を満たしていた。目の前の将の爽やかな気風。それほど嫌な気分ではなかった。涼風が漢中を駆け抜ける。張衛は、目の前の将のもとで、もう一度最初からやり直そうと、素直に思える自分に驚きを覚えていた。






「だから儂は最初から降伏しようと言っておったのだ」

 張魯は弟が野戦で曹丕軍に敗れて捕らえられたと聞くと、焦りと恐怖で前が一瞬見えなくなった。


 ――こうなれば、取り繕っている場合ではない。

 張魯がすべてを投げ出して、進行して来る曹丕に向かい地を舐めてでも降伏しようという意思を見せると、側近である功曹の閻圃が言った。


「師君。いま、我らが追い詰められた状態で出向いて行ったとなれば、曹丕からの評価は小さくなりましょう。巴の七豪族である朴胡か杜濩のもとへ赴き、抵抗したあとで臣下の礼を取られるならば、必ずや評価は大きくなるでしょう」


「な、なるほど。降伏するにしても、曹丕にまず一矢報いて我らが従順なだけの犬ではないと思わせるのだ」


 張魯は全軍を引き連れると南山に逃走して巴中に入る計画を立てた。この時、側近たちは漢中の宝物や資材の込められた蔵をすべて焼き払う予定であったが、張魯は

「儂はもともと国家に帰順したいと願いつつ、本懐が遂げられないでいるのだ。いま、ここから逃げるのも曹丕の鋭い矛先をかわすだけで、悪意があるわけではない。また、宝物のある蔵は国家のものであり、我らが勝手に焼き払ってよいはずがなかろう」

 と言った。


 張魯は長らく漢中に五斗米道の教祖として君臨して思うままに振舞っていたが、根本には混沌の世に苦しむ民衆の救済があり、わたくしごとを貪るような悪辣さはなかった。


 これにより、蔵を封印して旅立ったので、貴重な財貨は焼かれずに残った。

 曹丕は南鄭に入城すると、張魯の善行に感じ入り「丁重に迎えよ」と、慰撫説得を行った。


 かくして張魯は曹丕に降伏すると鎮南将軍の位を授けられ、閬中公に取り立てられ一万戸を与えられた。


 これにて、曹丕は漢中という肥沃な土地を占領して、劉備と諸葛亮のようやく手に入れた天府の喉もとに刃を突きつけた格好となった。


 魏と蜀。両国の命運を分ける決戦は、刻々と近づいていた。

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