第034回「雒城の攻防」

 明けて建安十五年(二一〇)一月となった。


 ――くるぞ。


 劉備独特の勘が戦いの到来を告げていた。呉懿の前陣が動き出した。劉備は、先鋒を馮習と張南に任せると、二陣を黄忠と魏延、三陣を卓膺と陳式、本陣の防備に陳到、遊軍に劉封と輔匡を置いた。


「さあ、これで勝負だ」

 劉備が白馬に跨ったまま各将に伝達の指示を出す。勇ましく突撃太鼓の音が雷鳴の前兆の如くどろどろと鳴った。同時に、馮習と張南が歩兵を率いて飛び出した。


 益州軍も、先鋒を不敗の名将で名高い呉蘭と雷銅が受け持ち、馮習と張南の二将と激突した。突撃太鼓と喚声が入り混じって戦場に轟き渡る。さすがに、諸葛亮が鍛え上げた三軍は精強無比である。たちまちに、益州軍を十里近く後退させた。劉備も、ここぞとばかりに二陣、三陣を送り込み、敵勢に強打を与える。


 ――我、勝てり。

 ここが勝負の決め時ぞ、とばかりに劉備は遊軍である劉封と輔匡の軽騎兵を投入した。


「お任せあれ」

 とばかりに若武者である劉封と輔匡は左右から呉懿の軍勢に咬みつきかかる。だが、老練な呉懿は前陣後陣一体となって、ゆっくりと背後に後退するが乱れを見せない。


 時刻は日が落ちる夕暮れに迫っていた。早朝から攻めていた劉備軍の兵馬はいささか疲れを見せ始め、徐々に進撃の速度が落ちかかっていた。劉備は最後の攻撃に備えて本隊に休息を取らせていた、その最中、四方八方から戦鼓の音が鳴り響いた。


「しまった。これは罠ぞ」

 すぐそばの濃い森に伏せてあった張任の奇襲部隊が、いままさに激戦を繰り広げている中央を無視した格好で劉備に襲いかかったのだ。火を吐くような張任軍の攻めに劉備の旗本はばたばたと倒れてゆく。


「劉公よ、お逃げなされ。ここは私が防ぎます」

 陳到が馬謖を引き連れ防衛に当たる。いつもの劉備ならば、こういう時は目もくれずに逃げるが、今日ばかりは違った。なまじ、勝ちはじめているだけあって、常にあった逃げ勘が弱まったのか、動きが一歩遅かった。


「ああ、なんたることだ」

 ほぼ一騎になって劉備はひたすら逃げた。追う敵の数は数十からみるみるうちに数百騎になってゆく。背後から劉備を斃すための矢がつるべ打ちに放たれる。劉備は剣を抜くと、前方に立ち塞がった二騎の敵部将と切り結び、なんとかひとりを斬り倒して突破口を開いた。


 気づけば空には夜の帳が落ちていた。

 右手には小高い山がそびえ立っており、左手には深い森が佇んでいる。

 墨で塗り潰したような空に真っ白に輝く星が点々と浮かんでいる。

 冬の風は冷たく、劉備は馬のたてがみをつかんで低く呻いた。


 ――まだ、生きている。

「そうだ、私はまだ生きている。最後まで自分を信じて戦わねば」


 夜になっても合戦は続いているのか、怒号と歓声があちこちで響いている。荊州軍は有能であるから、劉備がいなくてもしばらくは持ちこたえてくれるだろう。


 ――そういえば、こんなことばかりだな。

 徐州で呂布に襲われ散り散りになって逃げた時も、劉備はひとりきりだった。あのときはまだ若く、体力があったので悲壮感はあったにせよ、根拠もなく先があると思っていた。夜露を舐めて、草の根を齧り、必ず生き残ってやると天の星に誓った。


「ところが、五十を過ぎる歳になっても、ふふ、まだこんなことを」

 跨る白馬の足取りもどこか重い。劉備は鞍に括りつけてあった革袋を引き出すと、身軽な動きで飛び降り、水を馬に呑ませてやった。


「そうだな、おまえも喉が渇いておったか。存分に呑めよ。いざという時、おまえだけが私には頼りだ」


 わずかな量であったが劉備の心遣いがうれしかったのか、白馬は小さくいななくと首を寄せて甘えてきた。


「よしよし。地の果てまでも共にゆこうか」

 愛馬との心の交歓。ふと、気づくと遠方でかすかに聞こえていた物音が次第に近づき、太く、大きくなった。


 それは劉備に最期の覚悟を決めさせるに充分だった。素早く馬に飛び乗る。

 ――劉氏の名に恥じない戦い方をしてやる。


 鞘から剣を払う。

 きらりと刃が月の光に照り映え、ただ、美しかった。

 地を響かせる馬蹄の響き。

 心はもう定まっていた。






「そこなる敵将、さぞかし名のある者とみゆる。いざ、尋常に勝負せよ」

 後方から凄まじい勢いでやってきた軍馬のなかから劉備が聞き覚えのある大音声が響き渡った。


 夜間のことゆえ、旗もよく見えぬが、歩兵のかざした松明が寄り集まると、それは大きな光となって先手の大将を照らし出した。


「そちは益徳ではないか」

 特徴的な虎髭に巨大な瞳。一丈八尺を超える蛇矛を手にした男こそ、劉備の義弟で天下第一の豪傑である張飛益徳だった。


「おう、これは義兄者! いやさ我が主よ。どうしたのですか、このようなところで」


 劉備は駒を寄せて、危急の事態を張飛に告げる。

 いまや、劉備軍は益州軍の攻撃で四分五裂し、戦況は極めて悪かった。


「しかし、そちは孔明と共に江州を制圧しているのではなかったのか」

「我が主よ。軍師どのは、士元どのの危機を知って、急ぎ我を雒県に送ったのです。蜀でも指折りの名将である厳顔どのが、先んじて郡県の城主を説いてくださったので、時をかけずにここまで素早く移動できたのですよ」


「そうであったか。とにかく、事態は急を要している。荊州軍も益徳が来たとなれば勇気百倍であろう。私のことはよい。早く戦場のみなを助けてやってくれ」


「へへん。任しておいてくださいよ!」

 そういうと張飛は劉備に手厚い警護の兵を置くと、自ら陣頭に立って戦場に向かって馬を走らせた。


 そのころ、敵将の張任は劉備がいなくなり指揮系統の乱れた荊州軍と戦っていたが、どこからともなく現れた数千の騎兵の姿に戸惑い、左右の部将から報告を受けていた。


「どこの兵だ。劉備の後詰は涪城から来ているのか」

「いえ、あの旗印は荊州の張飛です!」

「な――に?」


 張飛は戦場の動きを確認すると、伝達の兵を呼んで言った。


「隊を三つに分けよ。前陣は千、中陣は千、後陣は五百をふたつに。我が前陣の騎兵千を率いて張任に真っすぐ突っ込む。敵が乱れたら、残りの千も続けさせよ。後陣の兵はそれぞれ范彊と張達に率いさせて左右からどてっぱらに風穴を開けろ。さあ、味方を助けるぞ!」


 かくして張飛は奮い立つと凄まじい雄叫びを上げながら騎兵と一体化して、戦場の揉み合いに突っ込んでいった。


 張飛が丈八の蛇矛を振り回す。七、八人が瞬く間に虚空に舞い上がった。それを数度繰り返すと、前方に立ち塞がる兵がいなくなった。そこに、騎兵の突撃。旗色の悪かった劉備軍に精気が戻った。


「あれは、張将軍だ」

「援軍が来たぞ」

「がんばれ皆の者。張益徳ここにありだ!」


 張任軍は追い散らされて、一気に後退する。伸び切った張任軍の左右から、范彊と張達率いる歩兵がドッと押し寄せた。戟が鋭く振り下ろされて、次々に歩兵が斃れる。益州軍は逃げ腰になった。到底、張飛の突破力を押さえきれない。


 これを見た押され気味の黄忠や魏延が力を取り戻した。

 張飛が戦場に現れて、たいした時もかけずに益州軍は潰走状態に陥った。


「死にたいやつから前に出やがれ!」

 蛇矛を振るって逃げる益州軍を追撃していた張飛は老齢の将を守って逃げる将士の一団を見た。


 ――これぞ敵将よ。

 張飛は猛然となって逃げ惑う老将を追った。なにを隠そう逃げ惑う老将こそ蜀の名将張任である。張飛は肥馬を両太腿で締め上げ速度を増すと遮二無二追いかける。


 左右の茂みから歩兵が現れ、張任を救おうと雨のように槍の穂先を突き上げてくる。張飛は蛇矛で彼らを次々に払い飛ばすと立ち塞がる護衛の騎士たちを次々に血祭りにあげて、ついには張任と指呼の間に至った。


「こらっ、逃げるな! 蜀に男はいないのかっ!」

「なんだと――」


 挑発に乗った張任が馬首を翻す。張飛はニヤリと笑みを浮かべると、丈八蛇矛を天にかざして勢いよく突っ込んだ。


「我こそは燕人張飛だ。そこなる敵将名を名乗れ!」

「黙れ匹夫が。我こそは蜀の将張任なり!」


 戦闘は一瞬で終わった。張飛が蛇矛を手に馬ごとぶつかってゆく。さすがに、一日中戦い続けた張任にこの猛烈な一撃をかわす体力は微塵も残っていなかった。雷撃のような怒声と共に繰り出された張飛の突きは凄まじかった。張任の武器。天高く弾き飛ばされた。ニヤリと、虎髭が不敵な笑みで歪む。


「喰らいやがれ!」

 張飛の怒声。雷が落ちたように轟き渡った。トドメの一撃である。蛇矛は奇妙に空間をうねりながら奔った。蛇矛の先端。張任の胸元に吸い込まれて背中まで貫き通すと、あたりに真っ赤な血ノ華を咲かせた。


 張飛は張任の身体ごと蛇矛を天に差し上げると、戦場すべてに聞こえるような大音声で勇ましく勝ち名乗りを上げた。


「敵将張任は張飛益徳が討ち取ったり!」


 張任討たれるの報を聞いた益州軍は、今度こそ完全に戦意を失って旗や武器を投げ捨てて雒城に逃げ戻った。張飛は張任の首を部下に打たせて布に包ませると、悠然と駒を駆って劉備のもとに戻った。


 さて、九死に一生を得た劉備である。彼は、厳顔の功労を諸将の前で賞賛すると

「厳将軍。義弟からあなたのことを聞きました。こたびはあなたが諸県の長を説いてくだすったおかげで、益徳は素早く三十数カ所の城を踏破することができ、結果、我が命は救われました。この玄徳、ご恩は忘れませぬ。いずれ戦いが終われば正式に功を表しますが、これは当座の寸賞でございます。引き続き、この不才に力をお貸しください」

 と、言って運ばせた黄金造りの長剣を自ら手渡した。


「なんともったいなきお言葉」

 厳顔は劉備のまごころを受け取ると胸を熱くし、さらに忠誠を誓うのであった。


 また、こたびの激闘で、諸将は呉懿、呉班、呉蘭、雷銅を捕えていた。劉備は、この四人に対して自らの志を説き、ついには心から降参させることに成功した。


 こうなると、雒城にいまだ残っているのは、劉循、劉璝のふたりだけである。

 時を置かず、諸葛亮は綿竹城に到着した。諸葛亮が、いまだ意識の戻らぬ龐統を見舞うと、命に別状はないにせよ、あちこちに矢傷を受けて相当な重傷だった。


 ――これで再起はできるのであろうか。

 龐統の軍才に望みをかけていた諸葛亮は暗澹たる気持ちになった。諸葛亮の本質は優秀な行政家である。


 当初あった諸葛亮が内で政治を整え、武器兵糧を恙なく輸送し、龐統に三軍を率いて魏を征伐してもらうというプランはいま、根底から覆された。


「なんということだ。やはり、運命は変えられぬのか」

 諸葛亮は天を仰ぎ嘆息した。


 が、いつまでも女々しく嘆いている暇は大丈夫に似つかわしくない。羽扇を振るって気持ちを切り替える。諸葛亮は、医者に龐統の後事を託すと威厳のある足取りで綿竹城の議場に向かった。


 ――我が主はいかに心細くあるだろうか。

「おお、孔明。そなたが来るのを待ち望んでおったぞ」


 劉備は諸葛亮の姿を見ると小走りで駆け寄り、羽扇を持つ手をグッとつかんだ。劉備の黒目の大きい瞳がわずかに濡れて輝いている。


 ――なんという素直なお方だ。だから、お力になりたいのだ。


「我が主よ。孔明ここにあり。士元のことは残念ですが、この孔明がある限り心配ありません。雒城の攻略はたちどころにすませてごらんにいれましょうぞ」


「おお、さすが孔明。我が軍師よ。頼むぞ」

 とはいえ、雒城の固さを諸葛亮はよく知っている。前世で劉備はこの堅城を落とすのに一年以上かけているのだ。主将は、劉章の嫡嗣で劉循、一族の劉璝がいまだ降伏せずに守っている。


 蜀漢の丞相であった諸葛亮は当然ながら益州の地形は目をつむっても、小さな丘陵からわずかな沼までその場で図に描けるほど知悉している。


 劉循も劉璝も特に名将というわけではないが、落とさぬ心意気で必死に守れば容易に落ちぬことを諸葛亮は知っている。


「ならば、城から出すまでのことよ」

 諸葛亮は諸将をひとりずつ呼ぶと、机に置いた地図をもとに脳裏に描いた策をひとりずつ授けた。それは、さながら盤上の駒を動かして、最後の詰めを行う詳細なものだった。


 翌日、諸葛亮は自ら陣頭に立つと兵士に四輪車を押させて雒城の見える位置まで移動した。


 金鼓を激しく打ち鳴らして城兵に挑戦する。城壁よりも高い位置にある望楼から荊州軍を眺めていた劉循と劉璝は響き渡る戦鼓の音に身を乗り出した。


 ――あの将は誰ぞ。

 戦場には似つかわしくない綸巾を被り道服を身に纏った男が泰然としている。両将は物見から、四輪車に乗った男が劉備の懐刀である諸葛亮であると知ると勇み立った。


「あれが劉備の奥の手である諸葛亮とかいう若造か」

「面白い。こちらから攻め寄せて、龐統とかいう軍師の二の舞にしてやろうぞ」


 ふたりがそう言って話し合っていると、まもなく荊州軍はしずしずと十重二十重の包囲を解いて城から離れ、遠のいてゆく。


 ――さては、留守中の荊州に曹丕か孫権の軍が侵入いたしたか。

 ほどなくして、劉循と劉璝は劉備軍が雒城を無視して、直接成都方面に向かったと聞くと、この機に後方から襲い殲滅する作戦を思いついた。


「儂が前に立って劉備軍を討つ。璝どのは後陣を率いて後詰をお願いしたい」

「おお、まさしく勝利の時よ」


 劉循の言葉に劉璝は太い腕で自分の胸を叩くと、興奮冷めやらぬ面持ちで戟をひっつかむと愛馬に跨り、四方の門を開いて追撃にかかった。前をゆく劉循はさっそく荊州軍を捕えたのか、遮二無二猛追を行い、面白いように屠っている。


 ――なんの負けるか、手柄は我のものよ。

 劉璝も遅れてはならじと、両腿で馬体を締め上げ思う存分、戟を振るって歩兵たちを殺戮する。


 が、しばらくすると荊州軍の兵が極端に少なくなったのに気づいた。自軍が途方もない距離で伸び切ってしまったのだ。劉璝が軌道修正しようと馬を止めた時が最後だった。


「しまった、まさか」

 すべてが遅かった。劉璝が背後を振り向くと、伸び切った全軍を断ち切るように、左右から魏延、黄忠、劉封、輔匡が襲いかかっていたのだ。


 さらには、退路を断つように呉懿と費観の軍が劉璝の後方に迫る。瞬く間に、ズタズタに陣形を分断され、四分五裂になった劉璝軍はもはや集団の形を保てなくなり、みるみるうちに倒れるか降参して見るも無残な状態に陥った。


 さらには、前陣にいた劉循は取って返して攻めてきた張飛によって陣形を粉微塵に打ち砕かれ、悲鳴を上げながら戻ってくる。


「こ、こら。おまえたち戦わぬか! まだ、我らは戦えるぞ!」

 劉璝が叫びながら逃げ惑う兵を鼓舞するが、逃げ出した兵は止まらない。

 さらには左右から槍の穂が雨のように突きを放ってくる。


「う、うおうっ」

 腹を突かれた馬が痛みでいななき棹立ちになった。劉璝は宙に投げ出されて、地に落ちる。途端に劉備軍の兵が砂糖にたかるアリのようにワッと駆け寄り、剣を振るった。たちまちに劉璝は無惨に斬り刻まれて骸となった。


 同じころ、劉循は諸葛亮の兵によって捕獲されていた。

 主将である劉循がつかまったことはすぐに城方に伝わった。


 雒城もこれはかなわじと守将の張翼が降参したことによってついに落ちた。

 諸葛亮のみごとな伏兵作戦が決まり、おびき出された城兵は抵抗する意気も霧散して残らず劉備軍に呑まれる形で雒県の戦いは終結したのだった。


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