第033回「龐統の運命」

 雒県を巡っての戦いが始まった。龐統指揮下のもとに、黄忠や魏延を先鋒とした劉備軍が粛々と野を進んだ。


 迎え撃つは益州軍。

 蜀随一の名将である張任、呉懿、劉璝、呉蘭、雷銅、呉班が駒を揃えて怒涛の如く土煙を濛々と立てて突っ込んでくる。


 ――蜀の東州兵は決して弱くない。

 実際に刃を交えての龐統の感想はそれだった。武器や装備、馬の体格などは中央の兵士に比べれば劣ることは否めないが、個々の兵士の強さは見劣りするものではない。


 ――だが、勝つのは我らだ。

 龐統の作戦通り諸将が陣立てを済ませると、敵軍を迎え撃つ準備は整った。劉備は後方の綿竹で待機している。事実、戦場ですべてを差配するのは龐統なのだ。


「さあ、この一戦で益州攻めのすべてが決まるぞ」

 龐統の声。ほどなくして両軍は、広々とした平地で真っ向からぶつかった。劉備軍四万と益州軍三万が駆け引きなしに激突する。劉備軍は、後方の綿竹や涪に二万を超える予備兵を抱えている。


 対して益州軍の余力はほとんどないと言ってよい。成都を守る三万の兵を劉璋はこれ以上前線にはつぎ込むことはしないだろう。自らの身を守る兵を投入できるほど、劉章の器も度胸も大きくはないのだ。


 劉璋は、戦況をひろく観ることができない凡愚さがある。

 ゆえに、戦力の逐次投入という愚を犯していた。


 劉備軍の先鋒である黄忠と魏延は将自ら先頭に立って武器を振るった。

 士気の上では益州軍も負けてはいない。


 特に老将である張任の勢いは、ここを先途と決めているのか凄まじく、黄忠と魏延の苛烈な攻めを押し返すほどであった。


 黄忠は騎兵を一気に寄せて張任の陣をゆさぶろうとしたが、守りは固く、なかなかに突き崩せない。


 そうこうしている間に、呉懿の率いる軍勢が凄まじい勢いで弩を乱射し出した。放たれた矢が一斉に空を覆うことで異様な音が戦場に鳴り響く。魏延は劉璝の軍と四つになって組み合い、押したり引いたりを繰り返す。


 ――いままでとはまるで益州軍の動きが違う。

 特に、傑出していたのが呉懿の族弟である呉班の勇猛さであった。


 呉班は軽騎兵を率いて、前面の呉懿に集中している黄忠の横合いから突っ込んだ。

これにはさすがの黄忠の騎兵も泡を喰い、足並みが乱れ始める。


 それを助けようとして卓膺が前に出た。卓膺の指揮下のもと、戟を揃えた歩兵が呉班に打ちかかる。呉班は槍を手に馬首を返すと猛然と卓膺に襲いかかった。


「我こそは蜀の呉班。敵将、尋常に勝負なり」

「おお、善き敵ぞ。ござんなれ。我こそは劉豫洲が臣、卓膺であるぞ」


 二将は火の出るような勢いで打ち合った。激闘は三十合にも及んだが、次第に卓膺の息が切れ始める。一瞬の隙。呉班は両眼を見開いて槍を繰り出した。烈火の如く気合がほとばしる突きに、卓膺は左腕を突かれて落馬した。


「その命貰った」

 肥馬に跨りながら槍を振りかざした呉班がトドメとばかりに猛然と突っ込んだ。

 が、空を切り裂いて飛来した矢が呉班の右肩に勢いよく突き立った。


「卓膺あきらめるな。黄忠これにあり!」

 雷鳴のように轟く声。そこには弓を携えた黄忠が怒気を発して駒を駆けさせていた。


「ぬうっ」

 呉班は左腕で右肩に突き立った矢を一気に引き抜くと、脂汗を流して痛みをこらえている。


 黄忠が自慢の大刀を引っ提げて打ちかかると、危機に陥った呉班を助けようと益州の常勝将軍と名高い呉蘭と雷銅が戟を手に加勢に入った。


「面白い、ふたり同時に片づけてやるわ」

 黄忠は二将を相手に一歩も退かない。呉蘭と雷銅は黄忠を挟むように駒を寄せて打ちかかった。しかし、黄忠は大刀を頭上で風車のように旋回させながら、二将の繰り出す刃を悠々と防ぎ、むしろ圧倒する。黄忠の鋭い一撃は異様な刃風を伴って、呉蘭と雷銅の攻撃を弾き返した。


「なんと……!」

「こやつ、化け物か!」

 こうなると呉蘭と雷銅は黄忠の首を打ち取るどころか、その場で応戦するのが精一杯になる。






 思いのほかの激戦に龐統は歯噛みしていた。

 劉璋は暗愚であっても、益州の将には骨のある者はまだまだ存在する。予想以上に抵抗する自軍を督励しながら、いつしか龐統は安全な後方から、激闘が繰り広げられる前線に突出していた。


 ――なんと、あの白馬はもしや敵の総帥では。

 戦闘を指揮していた張任が生唾を呑み込んだ。


 情報収集が完全ではない古代の戦闘である。蜀随一と言ってよい名将の張任はかなり前方に出ている龐統を、総帥の劉備と誤認していた。


 劉備さえ討ち取れば、もはや荊州軍は恐れるに足らず。たった一戦で、益州に侵入してきた荊州軍を残らず叩き出すことが可能なのだ。すぐさま張任は偵探の兵を繰り出して、調べさせる。


「間違いないか」

 物見の兵が興奮した面持ちで報告する。


「は、間違いありません。鮮やかな毛並みに跨る大将の指揮下により、全軍が進退を行っております」


 ――勝ったぞ。

 張任は真っ白な髭を震わせると右腕を差し上げて全軍に命じた。


「そやつこそが敵の大将劉玄徳だ。やつこそ討ってしまえば、この戦いは終わるぞ。皆の者、弓と弩を搔き集めてありったけの矢を打ち込んでやれ」


 龐統は敵前衛の気配が変わったのを感じた時は、すでに遅かった。いままで、慎重な戦いぶりをしていた張任軍の歩兵が犠牲をいとわずに捨て身で突っ込んできたのだ。


 一点突破の集中攻撃に、たちまち本営までの道が切り開かれる。龐統が馬首を翻して退こうとした時、白馬に向かって雨あられと、鋭い矢が降り注いだ。


「な――」

 龐統は右肩、左脇腹、右脚に幾本もの矢を受けて落馬した。

 白馬がいななき龐統を守っていた荊州の兵たちが凍りつく。

 張任軍からは津波のような歓声がワッと湧き起こった。

 龐統は薄れゆく意識のなかで、諸葛亮の忠告を思い返していた。






「曹丕が九錫きゅうしゃくを受けて魏公になっただと」

 同じころ、巴郡の各地を升目を埋めるように慰撫していた諸葛亮に荊州の密偵から容易ならざる報が入った。九錫とは功績のあった諸侯に対して、天子から車馬など九つの物品を賜ることである。


 曹丕の魏公就任。表向きは、漢の朝廷からのたび重なる懇願によるものとされているが実情は違う。九錫を受けることは明らかに禅譲が射程に入っているのだ。


 これに続くのは魏王昇進、最終的には帝位簒奪と漢王朝の終焉がそこまで来ていることを告げていた。


 さらに凶報は続く。

 雒県で戦闘を行っている龐統が敵軍の矢を受けて重傷を負ったというのだ。


「なにっ。それで、士元の命は」

「は。龐軍師は幸い命を取り留めたようですが、かなりの深手を負い、綿竹に移送されたとのことです」

「なんたることだ」


 諸葛亮は報告を聞いて愕然とした。

 龐統は諸葛亮の忠告を寸分も聞き入れなかったのだろうか。


 ――でもないだろう。私の言葉がどこかわずかでも頭にあったので、なんとか命をとりとめたのであろうか。


 諸葛亮はいいように考えたかった。もっとも、怪我の度合いがどうであれ、将帥を欠いた荊州軍の士気が下がり苦境に陥っていることは間違いないだろう。


 曹丕の魏公就任も捨て置けない事態であるが、現実の危機は一刻を争う。密偵の報告によれば、龐統が負傷した戦いで荊州軍は数百の死者を出して退いたらしい。


 諸葛亮は立ち上がったまま羽扇を手にし、深く思考を巡らせた。それから、幕営にいる諸将に告げた。


「益徳どの。いまの報告を聞いたであろうが、我が主は苦境に陥っている。荊州軍はここまで連戦連勝していただけあって、かえってこたびの衝撃は大きい。士元を信任していた主の悲嘆はいかばかりであろうか。我らはゆっくりと巴郡を慰撫する予定であったが、もはや時間がない。貴卿と厳将軍は先鋒となって三千の騎兵を率い、急ぎ雒県に向かっていただきたい」


「おう、軍師どの。我が主は必ず我らがお助けいたす」

 張飛が鼻息荒く応じた。厳顔も拱手しながら興奮した面持ちである。諸葛亮は羽扇を下げると、静かにたたずんでいた趙雲に向き直った。


「子龍将軍は引き続き巴郡の鎮撫をお願いいたす」

「しかし……」


 趙雲の動揺は大きかった。関羽と張飛を除けば、趙雲は劉備に一番近い距離で生死を共にしてきた将なのである。


「子龍将軍。そなたと我が主の関係を思えば、まっさきに駆けつけたいであろう気持ちはわかるが、後方をガラ空きにはできぬのだ。これを確実に果たせる将はそなたしかおらぬ。こらえていただきたい」


 諸葛亮の言葉。趙雲は曇らせていた表情から陰を消しさると、言った。

「軍師どの。我がままを言うところでした。地方の宣撫はお任せください」


「よろしい。子龍将軍。墊江県から北はいまだまつろわぬ豪族が多い。卿には一万余騎でこれにあたってもらいたい。成都の劉璋は怯えて引き籠っており、積極的に軍を向けないであろうが、もし大兵が送られたら私が雒県を平定して援軍を送るまでなんとか江州城だけでも固守してほしい」


「お任せください」

 実直で用兵にそつがない趙雲ならば、たとえ劉璋が万を超える兵を差し向けても、諸葛亮が援軍を送るまで充分に耐えることができるであろう。作戦が決まったのち、張飛と厳顔が勇み立って進発した。


 龐統の戦線離脱は荊州軍の士気を阻害するかと思いきや、その逆であった。黄忠や魏延のように感情の激しい将たちはむしろ奮い立って


「我が主よ。我に先鋒をお任せください。必ず蜀兵どもをひとり残らず地下に送ってみせます」


 と、継戦を声高に望むありさまである。

「ならぬ。ここは一旦退くぞ」


 劉備は龐統の負傷によって生まれた自らの怒りをなんとか呑みくだして耐えていた。もともと劉備は気が短い。若き日に県尉であったころ無礼な督郵を杖で殴打して半死半生に陥らせたことを思えば、この状況下でよく耐えているほうであった。


 幸か不幸か龐統の命は無事であった。が、益州兵が放った矢が肩や腰を貫いている。特に右脚の損傷がひどい。劉備が綿竹の城に退いて、数日後、龐統は傷によるひどい熱を出した。三十歳という若さがなければ、おそらくここでその命は潰えていたであろう。


「士元よ。気をしっかり持て」

「主よ、このような時に申し訳ござらん」


 劉備以下荊州の諸将は龐統の怪我具合を気にし、一同揃って励ます。

「士元よ。いまは気にするな。それよりも怪我を治すことに専念するのだ。そちは、我が大業を成すのに必要な男だ。気をしっかり持て。成都は必ず、この玄徳が覇業のために落としてみせようぞ」


「主よ」

 龐統は涙を流して目を閉じた。劉備は内に秘めた感情を押し殺して、すぐさま諸将を呼び集めると、雒城を落とす策をみなで論じ始める。


「張任は雒城を要害化しております。時間はかかるでしょうが、やはり周囲の砦をひとつずつ破壊してゆくのがなによりの近道であると思われます」


 劉備が諸将から意見を集めても、みな、これといった奇抜な策が生まれるわけでもない。この時、劉備の下には劉璋より離れて陣営に加わっていた法正がいたが、彼は張魯の侵攻に備えて葭萌城を孟達と共に守っていたので意見を聞くことができなかった。


 ――とにかく孔明が到着するまで少しでも攻略を進めておかねばなるまい。

 長い戦闘経験の中で劉備は城攻めがいかに難しいかを配下の誰よりも知っていた。黄忠を除けば、みな劉備より若年である。万を超える兵の戦闘指揮は一番自分が手慣れているのだ。


「張任とはいったいどのような将なのだろうか」

 と、劉備は費観や彭羕など、張任を実際知っている劉璋旗下の将に訊ねた。これには彭羕が長い沈黙を破って答えた。


「張任は蜀郡出身の男で、代々貧しい家柄でしたが若きころから大胆で勇敢、意志が強くてその名は蜀に轟いていました。また、かの者は武芸にも長けており、戦場で衆を率いることもなかなかに達者です。それを見込まれて、劉焉や劉璋に仕えていましたが、その地位は高くありません。名声ほどには重用はされておりませなんだ」


「永年どの。そなたが張任をかき口説いて降らせることはできぬのか?」

 彭羕は静かに首を左右に振った。


「かなりの老齢でありますが、まずは蜀一の名将であります。また、劉主が言うように降伏するよう伝えてもいささか……。張任は頑固一徹で忠義はとびきりです。戦って斃すか、捕らえるか、どちらかしかありませぬ。私が思うに、劉章の配下で手強いのはこの張任と、あとは呉懿将軍くらいでしょうな」


「ふむ、逆に張任さえどうにかできれば、あとはかなり楽になるな」

 彭羕の評言を聞くと、翌日から劉備は陣頭指揮に立って雒県の要害をひとつずつ丹念に撃破していった。


 陣中には、黄忠、魏延、卓膺、馮習、張南と猛将が揃っている。砦のひとつひとつは思いのほか頑強な抵抗を示したが、籠る兵がそれぞれ数百程度なので地味な攻撃を積み重ねれば撃破することは難しくない。


 こうして、十日間、益州軍に休息を与えない攻撃で、雒城周囲の要害は櫛の歯が抜けるようにボロボロとこぼれ落ちてゆき、ついには丸裸になった。


 ――さすがにこれはまずい。

 と、張任も思ったのか、小出しに兵を繰り出すが、それらは劉封や輔匡が待ってましたとばかりに襲いかかるので、ほとんど援護もできずに壊滅してゆく。


 死なずに捕虜になる益州軍はそのうちに千を超えるに達すると、いよいよ呉懿をはじめとした蜀将が城を出て対決姿勢を見せた。


「やはり戦に近道はなしか」

 劉備は密かに安堵していた。雒城に数万の兵で籠られていたら、さすがに落とすのは難しいが野戦なら別だ。古来より大軍の決戦は短期で着く場合が多い。龐統を欠くいまとなっては、野戦によって少しでも敵兵を削っておきたかった。


 敵の急襲を嫌って劉備はわずかに陣を後方に下げた。広々とした場所のほうが兵士数が多い自軍のほうが有利だからだ。


 が、呉懿率いる益州勢は城からは出て見たものの動きがない。野戦を行うつもりはあるようだが、その静けさは不気味であった。



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